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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2018年01月02日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
謹賀新年

今年もよろしくお願いします。

年末年始は大掃除で色々なものが壊れて復旧で大変でした。

さて今年の干支は「戊戌」(つちのえ・いぬ)で、漢字をみてもわかるように、似たような戊が並んでいます戌は戊に一をつけた文字で、共に「茂る、繁殖」を意味するようです。

陽明学者の安岡正篤氏は干支の活学という書で、戊戌の「戊」を植物が茂ることで、陰が多くなり、虫などが付きやすくなり、枯れ安くなるので、余分な枝葉を剪定、伐採しなくてはいけないと説いている。

安岡氏などは政界のフィクサーをやったから、政治の私利私欲に対して度々警笛を鳴らして、公に私利私欲を持ち込んで、公私混同を戒めるために、「剪定、伐採しなくてはいけない」と説いているが、まさに現代は混乱の時代で、この国などはアホのせいで滅亡の道を進んでいる。

去年のモリカケ問題は何も解決しておらず、腐敗が進みつつある。

戊戌の今年にやらないと、戌は、以下の説のように滅亡の意味ももつので、是非果断に悪を退治してほしいものである。

  ★      ★      ★

2018年の干支は「戊戌」。十干・十二支が意味するのは繁栄と滅亡、さてどちらに転ぶ?
https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00726/

十干の戊(つちのえ)が表す繁栄と不安定、どっちに転ぶか分からない?


十干の戊は葉が繁る姿を表わし、横溢する生命力を意味する

十干の「戊(つちのえ)」は、生命の成長サイクル「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十種類のうちの5番目にあたり、勢い良く葉が茂る様子を表し、繁栄を意味している。

易学の古典によると「戊は“茂”に通じ、陽気による分化繁栄」と書かれていて、人間で言えば仕事をバリバリとこなす壮年期であり、人生で最高の活動時期という事になろうか。

「戊」の文字の成り立ちは、その部首が「戈構(ほこづくり)」であることからも分かるように、先端に斧状の刃がついた矛(ほこ)の象形文字である。これは、農作業で伐採する道具の事を指し、繁りすぎた枝や葉を落す作業に用いられたと言う。

「戊」は、陰陽五行「木・火・土・金・水」の分類では「陽の土」に当たる。方位も五行で分類されるが、土は東西南北のどこにも関わらず中心点にある。季節も同じく春夏秋冬のどこにも関わらず、四季の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の直前の18日間ずつが土となる。土用の丑の日で有名な土用はこの期間に当たる。

このように五行における「土」は中庸であり、陰にも陽にも属さない。これは一種の安定とも取れるが、他方、陰陽と言う二極に分類されない不安定な境界線上にあり、ヤジロベエの一本の足のごとく、バランスがくずれれば、どちらにも転ぶ可能性がある状態とされている。

十二支の戌(いぬ)が表すのは滅亡、戊戌はお互いの威力を最大限に強化

十二支の「戌」(いぬ・じゅつ)は、生命の成長サイクルの11番目で枯れた木を表し、終焉・滅亡・終わりを意味している。

「戌」という文字は「一」と「戊」で成り立っていて、刈り取って束にした草と、刈り取りの刃物を表した象形文字であり、「終わり」を意味している。そこから派生し、後に「滅」という字が生まれた。

そして「戌」は、陰陽五行の分類では「陽の土」に当たる。つまり「戊」と同じである。このような「陽の土」×「陽の土」という同じもの同志が重なりあう関係を「比和」と呼ぶ。

十干・十二支はそれぞれの意味はもちろん、組み合わせによって表す意味が異なる。例えば、お互いに強め合うもの、打ち消し合うもの、どちらかを凌駕してしまうものなどがあり、この比和の関係は、相互を最強に強め合い、プラスとマイナスであっても互いに打ち消し合うことは無く、どちらかに転んで持てる属性を最大に発揮するものである。

つまり2018年の「戊戌」という干支が意味するものは、大いなる繁栄を意味する十干の「戊」と、滅亡を意味する十二支の「戌」が、「比和」という関係によってその威力を最大限に強めつつ、でもどちらに転ぶかは不安定な境界線上にある、ということになる。

  ★      ★      ★

干支というのは、人智学で言うなら、エーテルの活動を表しているようにみえる。エーテルと物質の相互作用の原理みたいなものである。

というわけで、続けて、人体の干支ともいえる、人智学的医術を紹介する。

  ★      ★      ★

 モーガンフリーマンの「時空を超えて」という番組は面白いので、よくみているが、先日、貧富の差は何故生まれるか?というテーマをやっていたが、遺伝やら、動物実験やら、理論物理の熱力学やらで色々な研究がやられているのはわかったが、どれも本質を逸れているのには呆れてしまった。

 貧困の解決はキリストが言ったように、金持ちが貧しい人に施せばよいのであり、金銭を独占するのが問題なのである。キリストが神殿で商売してはならない、と言ったように、利益は人類全体に平等に分配しないといけない。

 人類全体で獲得した利益は人類全体に平等に分配しなければいけない。

 人類は愚かなので、平等を持ち出すと忽ち議論をはじめる。

 平等というのは人類で決められるものではなく、第三者がいてはじめて決められるものだから、神がきめるもので、宇宙の法則、つまりカルマの法則となっている。

 だから人類に必要なのは、お互いに譲り合って納得するやり方である。感情のシコリを残さない。だから闘って勝敗を決めるのは悪魔のやり方である。

 なによりも、金持ちは天国にはいけないとキリストがはっきり言っているのだから、少なくともキリスト教徒を自称するのなら、金持ちであってはいけないはずである。それでは単なる嘘つきで、アンチキリストである。

 人類全体がバカになり、低レベルになってきているので、金持ちに憧れたりするのである。

 はっきりというなら、生命は金銭では買えないもので、神や霊界を信じないから、物質界での死を本物の死と悪魔に唆されてしまうのである。

 神と共に歩めば永遠の生命を学べ、得られる。

 さて、悪魔は神が生み出したものだから、悪魔もいずれは神の一員に加わる。確かにその道のりは遥かに長いが、三位一体の原理から、全ては一に帰する。

 というのも、世界は陰陽の二極で成立しているからである。陰陽五行説では、陰陽の間に、土、金、水、火、木の5つの段階がある。善悪についても、善悪の七段階ある。

 しかし、善と悪と二極が、三位一体で、いずれは最善として一体となる。
 
 というわけで、人智学的医術を紹介する。

 ルドルフ・シュタイナー
 「人智学と医学」第11講
 1920年 3月31日   ドルナハ

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 前回は、はじめの事例とは全く別の事例に到達したように、今回も、ある具体的な物質からはじめ、更に問題全体の拡張を試みたい。課題については、問題の性質や、講義の時間が少ない為、いわば周辺から円を描くようにアプローチしなければならない。公理から始め、次第に、複雑な問題へと進んでいくという科学的な方法はとれない。

 今回は、植物のなかの炭(以下、「植物炭」とする)からはじめ、霊的な観察を、もう少し先に進められるように範囲を拡げる。前回は、チコリ、野イチゴ他を研究したように、今回も、一見奇妙だが、自然界には、どこにでもあるが、奇妙な特質をもつ、「物質」について研究していく。

 自然を実際に観察するだけでも、今日の科学が導く以外の知見に、直ちに目を向ける必要があるのがよくわかる。

 前回後の講義で、コリスコ博士(1)が、未来の科学は、いまとは全く別のものでなければならない、と指摘し、そして、その際、「生理学」という言葉を好んで用いていたのは興味深い。それは、化学と生理学に橋を架けるべき決意の表明だからである。

 橋を架ける為に必要な基礎知識が欠けている為に、この講義で完全に紹介できない、あらゆる事例を考慮せざるを得ない。例えば、人体をつくる炭素という物質を、外の自然にも見つけられる。

 では、そもそも大いなる自然のなかには、人体にあるものの他に一体何があるのか?

 実は、人体以外には何もない、といってよい。というのも、目の前の外界全ては、人間が進化するにつれ、人体から外に出し、分離し、遠ざけたものだからである。

 人間は、新たな進化段階に進む必要があり、その段階に進めたのは、人間に相対する外界の活動が進む事で、ある別の活動を、人体に取り入れる可能性が生じた事による。従って、外界の活動と、人体内の活動との間には、実際、親和と対立が存在する。

 さて、これは、前回の講義後に述べた「化学の生理学化」、コリスコ博士の講義を聴けば、この表現の意味が理解できるが、シャイデッガー博士(2)の講義のなかでの興味深い議論において、ホメオパシーは、人智学で把握する必要がある、のが指摘されたが、その指摘と不思議と共鳴し合っていた。

 そして、この共鳴の響きは、ある段階で、次のような奇妙な言葉となって消える。この言葉とは数十年来取り組んできた、

 「ホメオパシーの医師でも、神秘主義(オカルト)になるのを恐れている、すなわち、神秘主義者(オカルティスト)という評判を立てられる、のを恐れている。」

 さて、この言葉と取り組んできた根拠は、あくまで現実へと回帰していく為の特別な見解のなかにあった。

 ホメオパシー療法で切に求められる本質を、正確に描写するなら、誤解しやすい、些かラディカルな表現にならざるを得ないが、物質自体の性質というよりも、物質を生成する活動、つまり、例えば、珪酸の生成活動(波動)や、植物炭の生成活動(波動)にある。

 物質の本質は、その活動=波動のなかにあり、つまり、生成活動にある。ホメオパシーの薬を適応する際に、本質的に何が生じているのか、随分と取り組んできたが、是非、ラッシャー博士(3)も認めたように、例えば、リッターの治療法(4;光線力学的療法)も、リッター嬢自身が認めなくても、ホメオパシーの療法に含めたい。

 問題は、ホメオパシーの薬を適応する際、本質的に何が生じるのか、にある。

 求められる薬の効能は、結局、生成活動にある。薬のもつ生成活動を、人体にいかに生じさせるか、にある。例えば、珪酸を用いて、珪酸の生成活動を人体上位にもたらすのに、人体は何をしているのか。

 人体は、ある点(動的平衡点)を目指している。外の自然では、全活動は、根本的にリズミカルな(規則的な=量子的な)活動に基づいている。当の物質の本性を前面に出している間は、そのゼロ点を目指す。

 例えば、財産を持つ人が、財産をどんどん使い果たし、ゼロになり、更にゼロ点を超えていくと、今度は財産が無くなるだけでなく、更に財産の枠を超え、借金へと移行するが、物質の性質も、同じである。

 当の物質の活動に限れば、もはや測定不可能なゼロ点に到達する。更に先に進むと、この活動全体が消え去るだけでなく、反対の活動が現われ、この活動が、周囲の媒質に混在するようになる。

 従って、物質を、素粒子に分解し、周囲に混在させる、ホメオパシー(同化作用)によって、当の物質の反対の活動が、媒質のなかに現れる。この媒質は、当初の物質とは、反対の活動を獲得する。

 それは、財産から借金に移行すると、社会生活では、金持ちから負債=借金者になるように、物質も、その反対の状態に移行して、以前もっていた性質と反対の状態を周囲に付与する。

 すなわち、物質を次第に分解していき、物質の特性がゼロ点(動的平衡)に近づくと、周囲が逆の特性を獲得する。つまり、物質の特性を、周囲に放出するので、その物質を適切に促進する特性を獲得できる。

 この促進とは、上述した反対の活動を、人体に直接引き起こす事にあるが、それを可能にするのは、やはり当の物質に、ゼロ点をもたらすか、もしくは光の影響下で、例えば蛍光や燐光を発するような状態にする事で、反対の活動を、人体に生じさせる必要がある。

 このようにして、周囲に放射され、反対の活動が引き起こされる。これらを是非考慮すべきである。実際、重要なのは、神秘主義に陥らずに、結局、自然の真の活動[Aktion]を捉え、物質の特性についても、実際のリズミカル(量子的)な活動に入っていけるように、自然を観察する事なのである。

 この物質の律動的(周期的)特性の把握が、諸々の活動の源流がどこにあるのか、を認識する為の教科書になる。物質を消化していくと、まずゼロ点に達し、このゼロ点の向こう側には、反対の活動がある。

 しかし、以上が全てではなく、今度は、ゼロ点の向こう側にある、反対の(エーテル体の)活動がゼロ点に到達する。この点を超えると、更にもっと高次の(アストラル体の)活動、確かに、当初の物質の特性においては、同じ方向線上にあるが、全く別の性質を持つ、もっと高次な(精神的な)活動に到達できる。

 だから、物質の希釈性=ポテンシャルを明らかにする諸活動を、曲線で記述すると、素晴らしい。ただ、この曲線は、独特の数学で記述する必要があるのに気づくだろう。

 つまり、最初は上述のような、物質の特性=活動が減少する曲線を描き、次に、低次に活動している、低次の物質の特性をもつ活動が終わり、今度は、高次の霊的な特性をもつ活動を始める一点、つまり第二のゼロ点に達すると、直角に転回して空間の三次元方向に曲線を引いてこなければならない(この幾何曲線はカオスの鞍点のようなもの)。

 ホメオパシー(同化)については、これからも更に述べていくが、人間と外の自然との親和性と密接に関わっている。

 さて、植物炭の特質に注目できれば、次のような結論に至る、

 「植物炭を多量に服用すると、特定の病像を引き起こすが、ホメオパシー(同症)療法の医師の見解に従い、植物炭と同じ物質を、体内で希釈(同化)させれば、治療できる。」

 植物炭の本質を、人智学者は、どう捉えるか?

 人智学者は、外の自然のなかに出ていって、地上で既に鉱物化し始めた炭[Kohle]の活動や、地中の炭の活動が、どのような状態なのか、探究しはじめる。

 そのような探究からわかるのは、炭が本質的に、酸素を用いて、地球全体の活動に関与している、という事である。地球の活動では、地中の炭の含有量が、大気中の酸素の含有量を調整している。

 この事からわかるのは、地球を、生命体として捉える必要があり、地中の炭の含有量が、地球の呼吸活動の影響下にある、という事実である。

 前回、提示したような生理学化した化学は、地上の炭が、人間、或いは動物の呼吸活動との関わりから観察されるときにはじめて成立する。というのも、土の炭化と、地球の周囲の酸素の活動、すなわち空気との間で生じる活動の根底を成すのは、人智学の観察では、動物化の傾向として明らかになるからである。

 この動物化の傾向は、結局、衝撃を与えるような表現でしか、その特徴を述べる事ができない。というのも、次のような表現しかできないからである、

 「地上の炭化活動と、地球の周囲の酸素の循環活動との間で生じる活動、つまり外界で生じる活動のなかには、エーテルの存在だが本物の霊たち、動物化とは反対に、地球から絶えず遠ざかり、立ち去り、離れていこうとする霊たちを、地上に出現させる活動がある。」

 動物化とは、この霊たちの脱動物化に対抗して、地上に集められる活動、つまり、動物として前面に出る活動として把握しなければ理解できない。

 従って、植物炭を、人体に取り入れる場合に、人体の動物化が生じる。

 植物炭の摂取により、発生してくる症状は、ゲップから腸内ガスに至るまでの、腐敗性の下痢他、また一方では痔疾の形成、他方では、焼けるような痛みに至る全症状の、その全体像を霊視すれば、人間が進化の過程で、現在の人間足り得る為に、人体から排泄した(押し出した)動物性、つまり、この動物の活動が、人体のなかに再び取り入れられる、のに起因している。

 この事から、次のような結論に至る、

 「人体に、多量の植物炭を与えると、押し入ってくる動物化から身を守るように促される。」

 身を守るとは、周囲の環境に負けないように人体を適応させる事、つまり人間が進化する為に、自らの動物性を、外に出す(排泄する)事でなされた。

 さて、人間が進化の過程で、動物性を外に出したのには、驚くだろうが、それは自らの人体のなかで、固有の[originaer]光をつくる能力と関係する。実際、人体下部とは反対に、人体上部は、光の生産者である。

 固有の光を生産する能力を身につける為に、人体上部には、完全に動物化するのを防ぐのに必要な器官を備えている。これが、人間を、動物から区別する根本的な差異の1つである。動物も、人間と同じく、他の高次の霊の活動を備えてはいるが、体内で十分な光を作り出す能力はない。

 この事から、近代の自然科学の実に痛ましいテーマに至るが、これから述べる事を、隠しておくわけにはいかない。人間と、外界との関係を洞察するなら、このテーマを避けて通るわけにはいかない。

 人体のなかの物質全般、特に薬となる物質の活動を把握するのに、大きな障害となっているのが、いわゆる、力、ないしはエネルギーの保存の法則、更には、質量保存の法則である。

 これらの法則は、普遍的な自然法則と定められたわけだが、人間の進化活動とは完全に矛盾する。栄養摂取-消化活動全体は、唯物主義的思考により知られているようなものではないからである。

 栄養摂取-消化活動全体は、唯物主義的見解では、体内に摂取された物質が、あたかも外界にあるままに振る舞うように考えられている。つまり、炭素の例を挙げると、外界にある炭素を人体に摂取すると、無論、食物の形に調理された後だが、外界から摂取した物質を、分子などに分解した形で、体内にもち、炭素などはそのままの形で携えていく、という風に考えている。

 このような唯物的な観点では、外界にある炭素と、体内に担っている炭素との間には違いがないと考えている。ところが、これは大間違いで、というのも、実際の体内では、外にある炭素を、人体下部で完全に破壊し、空間から閉め出して(霊化し)、破壊とは反対の活動で、独自に再び炭素をつくりだしているからである。

 この事から、次のような結論に至る。

 「人体には、外にある物質をつくりだす、いわゆる竈(かまど)があり、同時に、物質を破壊できる。」

 この事が、今日の自然科学では承認できないのはいうまでもない。今日の自然科学では、そもそも物質の活動を、アハスヴェール(永遠のさすらい人)(1)のように、究めて微細なスケールで、分子や元素、素粒子が彷徨うもの、としてしか想定できないからである。

 1;アハスヴェール[Ahasver] 
 刑場に行くキリストを自分の家の前で休ませなかった為、キリスト再来まで地上を流浪する運命を与えられたユダヤ人の靴屋、いわゆる「永遠のさすらいユダヤ人」。

 現代の自然科学では、物質の生命、特に物質の誕生と死については何もわかっていない。人体のなかで、物質の死と再生[Wiederbelebung 蘇生、復活]が生じる事実については何も知らない。例えば、この炭素の再生と関係するのが、人体に備わっている光の生成である。

 人体の光の生成活動がまた、外界の光の活動に対抗している。人体上部=頭部では、体内の光と、外界の光が、互いに対抗し、共同して働くように調整されている。

 そして、人体の本質は、外界の光と体内の光が、共同で活動すべき領域で、両方の光が規則正しく、すなわち順番に働いて、互いに混ざり合わない事にある。

 目や皮膚において、外界の光と対峙する為に、体内の固有の光(霊光)と外界からくる光との間に、隔壁が設けられている。外界から体内に入ってくる光の本質は、体内の光の生成を促進するだけにすぎない。つまり、外から光が流入する事で、体内の光の生成が促進される。

 さて、重要なのは、この活動を、もう少し先まで見通す事である。体内の炭-実質=炭素の分解に注目するなら、腎臓-泌尿器全般に辿りつく。従って、腎臓の活動に接近(アプロ-チ)するには、外の自然のなかの、炭素に関わる活動に注目するとよい。すると同時に、植物炭を、薬として人体に適用する治療法が得られる。

 次のような原理から、劣悪な症状に対する治療法が与えられる。

 「植物炭は、人体の動物化、つまり吐き気等に通ずる症状に対抗して、働きかける可能性をもつ。」

 そして、植物炭に対して、病像を引き起こす活動の本質は、体内での絶え間のない吐き気(排泄)である。外界での炭の生成活動に対抗する人体の有効な対極は、生成とは反対の(分解)活動を示す。この反対の活動とは、腎臓の活動(排泄活動)である。

 だから、植物炭の多量摂取により病像が現れたら、体内の植物炭の希釈度を高くする事で、腎臓の活動を促進できれば、この病気に対抗する働きかけができる。

 つまり、多量の植物炭により生じる病気の薬を研究するには、体内での植物炭の希釈(消化)に対して、腎臓が、どのように働くか、を知る必要がある。

 このとき、腎臓は、消化活動の対極の活動を促進する。

 植物炭による病像として現われる腸の消化活動の障害に対して、腎臓の活動の回復に従い、消化の対極の活動を促進する。

 つまり、植物炭により生じる活動の反対に位置するのは、光の生成活動なのである。

 以上の人体について、外界の対極図を描けば、全体像が理解できる。地球の上空を考察すると(下図参照)、地球は空気(大気)に囲まれ、上方には別の層がある。大気層の上方には、熱の覆い、といえる熱層がある。

 つまり、地球から離れていけば、地上とは別の熱層に到達するが、この熱層は、地上の熱を思い描くと、大いに驚くだろう。地球から少し離れた上空の熱層は、大気=空気層に類似した役割を果たしている。

 しかし、この熱層を境にして、その外側(上方)には、大気層の対極の層があり、大気層とは逆の活動が生じている。この対極の層では、空気が奪われ、真空となり、光が発せられ、地上へと送られてくる(下図参照)。




 地上の光が、太陽からくる、と考えるのは全くのナンセンスである。この考えは、物理学者と天文学者のかなり厄介な幻想にすぎない。地上の光は、上述の真空の層からやってくる。光は、この層で生成され、地上で植物が成長するように、この層で成長する(上図参照)。

 だから次のような結論に至る、

 「人間が自ら、初生の、固有の光を生み出せる理由は、上空で行われる光の生成活動を、人体の光生成活動を通じて前倒し(前借り)している為で、人体のなかに、地球外の起源をもつためである。

 この地球外の光の起源が、植物にも、勿論、人間にも働く。ただ、植物には外から働くが、人間では体内で働き、高めている。」

 では、大気層よりも少し地球に接近すると、どのような層になるのか?

 人体にある対極でいうなら、更に体内深く入り込んでいく事になる。大気層から地上へと接近すれば、液状の、水の層に至る。だから、大気層の下には、液層が想定できる。

 この液層も、その対極を、外側(上方)に持つが、この層は、大気層の上の真空層の上にある。そして、その層もまた液層と対置される。その層では、真空層で光が生まれ成長するように、ある何かが生まれ成長する。

 この層で成長するのは、化学=変化で、この化学=変化が地球へと活動を及ぼす(上図参照)。だから、地上の化学=変化活動の根拠を、物質のなかに探究するのは全くナンセンスで、化学=変化活動は、この層から地球に向かってやってくる。

 この化学=変化活動も、つまり、上空にある層を、人間は体内で創り出している。人間は自らのなかに、いわば化学=変化装置[Chemikator]をもっている。人間は自らのなかに、化学=変化活動の起源となる上空の層をいくらか持っている。そして、この化学活動は、体内では強力に集約され、つまり、この化学活動は肝臓だけに制限されている。

 肝臓が人体で展開する独特の働きを研究すれば、肝臓が、一方で血液の性質を奪うかのように働き、他方で、胆汁の分泌を通じて、血液を調整し、血液全体に関与するのがわかる。

 この肝臓の血液までに拡張された活動全体を眺め、徹底的に研究すれば、肝臓のなかに本物の化学がみつかるだろう。唯物的な化学は、地上に限られ、化学の真の姿を発見できない。唯物化学は、地上の外界だけに制限された、本物の化学の鏡像と見なす必要がある。

 したがって、人間の肝臓の驚くべき活動を研究すれば、地上を超えた本物の化学も研究できる。

 ここで例えば、植物炭をアルカリ、つまり例えばカリウムと組み合わせ、炭化カリウムにして摂取させれば、植物炭の特性よりも、更に体内に進んだ活動を引き起こせる。アルカリ性は、全般的に、体内の奥深く、肝臓にまで到達できるのに対し、植物炭は、腎臓の経路に進む。

 すると、アルカリ性と、肝臓との間に、明白な相互作用が認められる。アルカリ性を研究するなら、炭性(酸性)が、動物化と関係するのと同様に、アルカリ性が、植物化と関係し、植物を外に排泄する活動に関わるのに気づくだろう。

 さて、既に、以前、ある活動を指摘したが、この活動は、人体の活動を、自然の活動から探り出す際に、重要である。その活動とは、牡蠣が殻をつくる活動で、簡略化すれば、牡蠣の殻形成活動(3)である。

 3;牡蛎の殻の主成分は炭酸石灰、つまり炭酸カルシウムであり、漢方でも牡蛎(ぼれい)として用いられる。強壮、鎮静の効があり、胃酸の中和、寝汗、心悸亢進などに良いとされる。

 この活動から、炭とカリウムの化学合成から更に前進し、炭素とカルシウムとの合成に至る。単なる炭素とカルシウムとの合成活動だけなら、牡蠣の殻形成活動のなかの強い燐の活動で緩和できる。しかし、牡蠣の殻形成活動は、更に別の、海という液体の環境に負う活動が共に働く。

 さて、この牡蠣の殻形成活動を観察すると、またも人間と自然との関係のなかに、もう少し深く入っていく事になる。図に描いた上空の水の生成領域=液層から、更に下に向かうと、土の生成領域=固体化=地殻層、つまり、硬化、土=固体形成の領域に到達する。

 「水」や「土」のような表現が、今日では、オカルトめいていて使用できないのなら、つまり、「このような表現は、古代人の無知さ故に、土や空気や水について語っていたものである。」という風にみなさなければ、土、水、空気、火の表現で語っても、まるで狂人のように思われる、のを怖れる事はないだろう。

 ここでも、次のような事例を少なくとも暗示できる。さて、固い土=固体の形成も、外の遥かな宇宙に、その対極をもっている。そして、この対極こそが、生命の生成であり、実際、生命を与えている源泉[der Ursprung des Vitalisieren]である。この源泉は事実、生命の活動のなかにある。この生命活動は、化学活動より更に遠くの層からやってきて、外界では、地球の内部、つまり土(固体)の内部で、完全に殺され、死滅させられている、のである。

 さて、話を少しつけ加える。次のような事に関心があるかもしれないからである。

 もし、地球外から、つまり水星から、地球の生命生成に対して、それを調停する水銀の活動が対置されなければ、この地球は、絶え間のない生命生成の影響下に、癌腫(固体)を形成し、膨張を続けてしまうだろう。

 このような事実を少しだけでも考察するのは重要である。実体=物質化しながら、増殖する元素とも呼べる土=固体形成全般に生じる活動の、いわば前段階が、牡蠣の殻形成活動のなかに抑制されているのが、霊視できる。

 牡蠣の殻形成活動が、土形成活動に入り込むのを妨げているのは、牡蛎の殻が海、つまり水=液体と関係し、土形成の前段階の活動に抑制し、自ら固定する事による。ミミズには、この固体化の抑制ができない。ミミズは殻をつくれないからである。だから、ミミズは固体化の活動をしている。

 つまり、「ミミズがいなければ、地中には固体形成の活動が無い」、という発言は正しい。

 ミミズは本質的に、土形成活動の進行に関与する。ミミズの世界の活動全体が、いわば牡蠣の殻形成活動を超え、牡蠣の殻と同様に地球の固体形成全体に関わり、共に活動している。ミミズの活動によって、牡蠣の殻だけでなく、耕土などや、それに類似する土壌などが生じてくる。

 さて、人体のなかの化学活動と親和性を持つ活動、つまり、肝臓と結びつく活動よりも、更に内にある活動を探すなら、更にまた別の器官=臓器に到達すると、当然、予測するだろう。この別の器官=臓器とは、肺に他ならない。

 しかも肺は、人体のなかでは、二重の働きをもつ。第一に、肺は、呼吸という現象に必要な臓器である。ところが、奇妙にみえるが、肺は物質面でのみ、呼吸という現象を司る臓器なのである。

 肺は同時に、体内の深くで、土=固体形成を調整する臓器である。外から体内へと入っていくと、栄養摂取-消化活動から始まり、腎臓-肝臓活動を経て、肺が機能上、呼吸の基礎となっているのを度外視して、肺の内での固体形成まで追求し、そこで生じる活動を調べると、この活動は、牡蠣の殻形成活動の対極にあるのがわかる。

 人体は、この肺の土形成活動のなかに、外界の、つまり宇宙の化学層の外側にある、生命層からくる生命活動を取り入れている。

 この事は、炭酸カルシウムの影響下に発生する病像を観察すればわかる。すると、この病像が、肺の固体形成の活動と強く関係するのがわかるだろう。この活動を、呼吸活動から切り離すのは困難である。

 しかし、肺はこの二つの面に向けて、人体に奉仕するので、肺が、外にも内にも機能的任務を担うのを常に考慮しなければいけない。だから、肺の退化を、牡蠣の殻形成活動、或いは同類の巻き貝類の殻形成活動なども勿論だが、そのような活動から現れる同様の事象に探究すべきである。

 このように、以前アプローチ(接近)した事に、今回は、いわば別の面からアプローチする事で、以前のアプローチの辻褄が合うのは勿論だが、今回の辻褄を合わせることは次回以降に行う。

 以上の事例から、外界の大気(気体)の活動、水(液体)の活動、土(固体)の活動に対応し生じるものを、それぞれ、人体の腎臓、肝臓、肺の活動のなかに見て取るところまで到達できる。

 大気の活動は、広義の腎臓の活動、特に泌尿器の機能に対応する。泌尿器の最重要な腎臓に注目し、考慮すべき親和性は、状況によっては、呼吸困難や呼吸障害を引き起こす可能性があり、植物炭の多量の服用後に出る症状とみなせる。

 従って、次のような結論に至る、

 「呼吸障害や呼吸困難のより深い原因を、腎臓のなかに探究しなければならない。」

 水(液体)や液体に関係する症状の、より深い原因を、肝臓のなかに探すべきである。呼吸困難や呼吸障害、呼吸不足が、腎臓と関係するように、喉の渇きは肝臓と関係する。

 喉の渇きとの様々な相互関係を一度、肝臓の機能について研究するのは、興味深い仕事かもしれない。更に、肺の内の性質、つまり新陳代謝に密接に関わるのが、飢えである。

 体内の飢え、渇き、呼吸不足は、外界で実際に測定可能な、土=固体、水=液体、空気=気体と関係する。外なる宇宙にある空気、水、土の、人体にある対極(人間は内なる宇宙)にはまた他のものも関係している。

 それは、人体内で、初生の、固有の光を生み出す活動が弱まっている為に、外なる光による活気づけを必要とするとき、この光による活気づけが得られるのが勿論一番良いのがわかる。

 つまり、この事から、光による治療法の正当性を認めるようになる。しかし、実は、日光浴は必ずしも、本来の光による治療法ではない。この点に注目することが大切である。つまり、日光浴は実際、地上に通常居住し曝されるよりも、もっと化学の層に曝される、のを意味する。

 大抵の日光浴の本質として、人体に効力を及ぼしているのは、光と共にやってくる化学活動(日焼け)である。以前、図で描写した上空の層からわかるが、この化学の層の背後に、生命の層があるので、生命活動に曝すには、光の活動を2段高めるか、もしくは化学活動を1段高める必要がある。




 だから、あまりに強すぎる光の活動が(常に測定が基本なのは言うまでもない)、水星の水銀の調停活動を回避できたなら、光を伴う化学活動と、光を伴う生命活動が、人体に有益に働く。

 最後につけ加えておきたいが、今日の自然科学が生命の起源についての見解を持つのに成功していないのがわかっても、もはや全く不思議に思う必要はない、ということである。というのも、今日の自然科学が探究する領域、つまり物質界には、水銀(水星)の活動が働き、生命とは反対の、すなわち、死しかないからである。

 生命の起源は、地球の外の宇宙にこそ探究すべきなのに、今日、自然科学は、そこに向かおうともしない。自然科学は、地球の外については何も知ろうとしない。地球の外に探究するしかないときでも、何人かは探究したが、結局、自然科学は、地上の物質に変換してしまう。

 このような生命の活動を、無理に物質に置き換えるのは、別の天体から、生命の萌芽が、この地球にもたらされる、という、結構な仮説において、実に見事に達成された。つまり、生命の萌芽は、見事に、物質の形態(いまではDNA、もしくはRNAの形)で、別の天体から、あらゆる障害を乗り越えてもたらされ、この地球に誕生した、というわけである。生命の萌芽を、地球に運んでくるのは隕石、と想像する人さえいる。

 現代では、唯物論によって、何もかもが既に説明された、という状況すら実現されている。肉眼で見えるなかに、観察できる全ての物質を、元素、或いは素粒子に還元すれば、全ての説明がついたと思い込むように、生命も、どこか別の場所からやってきたとすれば、説明がついた、と思い込む。 

 1-11

 シリカの形成活動は、逆の意味でも次のような結論に至る、

 「シリカとなって静止状態に至る活動は、人間の頭では、物質的に働く。」

 霊の(波動)力学でみると、この活動は、最も弱く働く(波動が粗くなる)。しかし、この活動が、最も弱く働く場所では、逆に、物質としては最も強く働き、物質の状態に近づくほど、物質として静止(安定)状態に至る。

 つまり、シリカの活動を、眼前にある物質として捉えるなら、この活動は、頭部で最も強い、と言える。しかし、シリカを、外からくる霊の形成活動と捉えるなら、頭では最も弱い、と言える。

 物質の活動が最も強いところでは、波動的な霊の活動は弱い。シリカの活動については、胸部では、物質活動と霊活動がほぼ均衡を保っている。そして、四肢-代謝系では、本質的に、霊の活動が優勢である。四肢や腹部では、物質活動が最も弱く、霊活動が最も強い(運動能力が高い)のである。 

 従って、シリカを生み出す活動は、人体をくまなく構築している。

 物質的な頭部をもつ人間と外界の霊環境との相互作用は、どのようなものか、という疑問は、霊的な呼吸リズムの胸部をもつ人間と、外界の物質環境との相互作用は、どのようなものか、という疑問に置き換わる。





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Last updated  2018年01月02日 16時27分08秒
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