テーマ:ブランドシティ奈良(51)
カテゴリ:「ならまち」を考える
入江さん「古都の暮らし・人」の図録奈良市写真美術館で、平成17年の1月から3月にかけて「古都の暮らし・人」という題で行われた昭和20~30年代の写真の展示会の際に発行されたもので、たぶん今も在庫があるでしょう。 展示会では東大寺の筒井さんなどが撮られた写真も出品され、「懐かしさ」に身悶えした方も多かったと思われます。図録には館所有の入江さんの写真だけが収められています。 で、ほとんどの場所は「これ、あそこや」と判るのですが、記憶にないのが、この写真の「悲田院遊場」というところです。同じページには、陰陽町の市に寄贈された松矢邸もしくはその西側の写真、そして一つ前のページには、陰陽町の坂の登り口と、中街道からおしろい地蔵の十念寺へ下る道が写っています。これらのどの写真にも、小さな子供が写っていて、「悲田院遊場」ではおばあちゃんらしき人も見えています。でも「遊場」ってなんだったんでしょう。
ナゾのまま古い住宅地図を見ると、南城戸町の銭湯「稲妻温泉」ととなりの仏壇屋の裏あたりに「悲田院」の文字を見つけました。どうやら、永らく「ならまち郷土館・建設予定地」となっているところが、その悲田院のあったところらしい。そもそも「悲田院」をググッて見ると「貧窮者や孤児の救済施設」というのが出てきますが、奈良町の「悲田院」というのは、残念ながらよくわかりません。
上の写真は以前に撮ったものですが、先日、たまたま隣接地の建物の作業か何かで、柵が開いて車が入っていました。入ってみると、たしかにここが「悲田院」の跡でした。 あの写真のイメージよりもかなり広いですね。むこうの高くなっているところは、鳴川町になりますが、ここでふり返るとこんな建物がありました。「悲田院地蔵堂」と書いてあります。
そして、その前の写真にチラッと写っていますが、右手には、石がかためて置かれていますが、よくみると墓石とか石仏らしきものや、石塔の一部のようなものもあります。 もう少し先へ入ってみると、左手に陰陽町の方へ上がれる階段が見えます。そしてその次の写真は、陰陽町の側から悲田院跡地を見た様子です。右手のベージュ色が銭湯の奥にあるアパートの建物。正面の建物の向うに、中街道沿いの駐車場から「音声館」へ抜ける道、その向うの高い瓦屋根は、徳融寺さんでしょうか。 この階段のそばにあるのは、ちょっと可愛い二軒続きの棟割り長屋です。悲田院側から見えていたのは、この建物の裏側なのですが、日本家屋なのに色瓦が似合いますね。別の角度からの写真には、高御門町西光院の墓地が写っています。 この先の角を曲がると、乾家の長い塀の先に陰陽町の坂の通りが見えてきます。 で、けっきょく「ならまち郷土館」というのはどうなっているのでしょう。全く動きがないまま、いわゆる「塩漬け土地」になっているようです。近隣で何か工事があったりしたら、資材置き場とかに使われたりしているようですが、何とももったいない。 近鉄奈良駅にあった「なら奈良館」が閉鎖となり、あの精密な奈良町の模型(一軒一軒の建物を復元)の行き場が懸念されていたり、「ならまちセンター」の青田家模型(清水通の旧家です)が持て余されていたりと、「ならまち郷土館」の必要性も高まっているかも知れません。 しかし、あの写真の「遊場」というのが気になります。なんらかの施設は設けるにしても、せっかく陰陽町とつながっていて、これだけの広場になっているのに、もっとあの写真のような「子どもたち」が主役の場にできないものか。「音声館」も近くにあるのに関連施設にできないのだろうか。もちろん、下手に児童公園にしても一定の開放性、常時看守が確保されないとあの「下三条町東街区公園」の二の舞になってしまいます。 陰陽町では、鎮宅霊符神社の西隣の「松矢邸」が奈良市に寄贈されたことで、「からくり」に関連した施設として活用しようという動きも出ています。あの「霊符さん」の可愛い狛犬ももっと知られてほしいですね。 元興寺絡みの、いわゆる「ならまち」のエリアからは少し離れているものの、陰陽町の通りは「平城京四条大路」の名残りの通りです。だから、元興寺に「高御門」という門が作られ現在の高御門町となった。 先に紹介した「鎮宅霊符神社」なども含めて、中街道のこのあたりは奈良町の大きな核となる要素を持っているはずです。いわば「悪所」であった木辻遊郭跡や、北京終あたりに残る立派な町家、そして明治建築の京終駅など、奈良町エリアの南西部を総合的に掘り起こすことで、いわゆる「ならまち」をもっと幅の広いゆたかなエリアとして売り出していけるのではないかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[「ならまち」を考える] カテゴリの最新記事
|
|