テーマ:ブランドシティ奈良(51)
カテゴリ:「ならまち」を考える
「春日曼荼羅」にはいくつかの種類があります。明治39年1月の、奈良帝室博物館(現在の国立博物館)新年特別陳列では、奈良市内を中心に各町や社寺に伝わる「春日曼荼羅」を60点、20日間に渡って展示されたという記録があります。東城戸や南市所有に代表される「宮曼荼羅」(春日大社の境内図と五柱の神=仏を描いたもの)が14点、興福寺の諸堂・諸仏と組み合わせて表現された「社寺曼荼羅」が8点、西城戸町所有など鹿の背に五柱の神(仏)が乗った「鹿曼荼羅」が21点、鹿島立ちや浄土曼荼羅、地蔵曼荼羅など7点、そして、「春日赤童子像」が10点となっています。 実は、6月の押熊常光寺の聖天さんご開帳で拝見したたくさんの絵像の中に、お伊勢さんの「雨宝童子」とともに春日の「赤童子」もありました。奈良町に伝わる「赤童子」も見たいなと思っていましたら、「フルコト」さんの行き帰りに、こんなポスターを発見したのです。
え?赤童子祭って、あの春日赤童子のお祭りなの。春日講とはちがうのかな。とにかく会所はどこだろう。山田熊夫先生の「奈良町風土記」には、東包永についてこう書いてありますね。「町内に弁財天をまつる。町有の春日赤童子像、三社託宣の掛軸もある。」 おっと、その前に「東包永町」ですが、これは「ひがしかねながちょう」と読みます。西包永町もあって、その南側に、東笹鉾町、西笹鉾町(ささぼこちょう)というのもあります。「包永」というのは刀匠の「手掻文殊鍛冶平三郎包永」が14世紀に住んでいたからとされていますが、この町を通る一条通の東の端は転害門(手貝、手掻)につながっています。 さて、東包永町の会所は、一条通から北へ入っていく道の先にあるということなので、9日の夕方おじゃましてみました。途中のちょっとしたスペースで「金魚すくい」や「みたらし」など子どもたちの喜びそうなお店が作られていましたが、その先に「会所」がありました。
はやくも子どもたちが集まっていますが、会所の一番奥に祭壇、そして手前の部屋では、子どもたちの「くじ引き」の用意で、景品がひろげられていました。祭壇の写真の前に、いただいた由緒書きをスキャンしたものをご覧下さい。
どうやらこの記述によれば、明治になって奈良・大和に疫病が起こるようになり、この町内にも患者が発生したため、町の守り神として春日若宮を表わす赤童子をお祭りするようになったようですね。やはり一般的な「春日講」の拝礼とはちょっと違っているようです。 さて、声を掛けさせていただいて、祭壇の写真を撮りました。左に赤童子、右側は春日・伊勢・八幡の「三社託宣」(神様の言葉)の額です。特徴的なのは、お供えものに「赤童子」の名に相応しく「赤いお餅」が右側の三方に上がっていることです。そして、左側はスルメイカですが、中央にも米、塩とともに小豆が乗っています。 赤いものには、天然痘などの厄除け効果があるという説もあるようですし、明治期の疫病から、大切な町内の子どもたちをまもるために赤童子をまつり、赤いものをお供えしたのでしょうか。お祭りの日程は、現在は7月の初旬の土曜日曜ということのようです。 なおこちらのお祭りについても、調査と記録のために「奈良まちづくりセンター」の方が見えていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.18 17:35:11
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