忘れられない事件があった。千葉市川市で起きた一家殺人事件でその犯人は当時19歳の男だった。彼は接見に来た母親にこう言ったという。「今度は長くなりそうなので資格試験の参考書を差し入れて」と。少年法のぬるさは実際以上に誇張されて、犯罪者やその予備軍の少年たちに誤解を振りまいていたらしい。実際には18歳以上では現行法でも死刑は可能であり、関某にもすでに死刑が執行された。
現行の少年法は遺族や社会の意識とも乖離しているばかりでなく、犯罪少年あるいはその予備軍のためにもならないのではないか。そんなふうに考えていたが、法制審議会では、大人と同じ刑事手続きを取る犯罪の範囲を広げて厳罰化を図るとともに、重大事件で起訴に至れば本人を特定する報道も可能にするという。こういう改正は大賛成である。人の心身に重大な被害を与えるような犯罪に対しては、機械的な年齢の線引きだけで寛刑となるのはおかしいし、犯罪からの更生は自分が行った犯罪行為に口をぬぐって幸福になることではない以上、犯罪少年の氏名公表を抑えるのも変である。英国で幼児を殺害した11歳や12歳の少年の実名を公表した例もあったが、犯罪少年の実名を出さないのは先進国標準というわけでもない。人を殺傷することが悪いことだくらいのことは10歳を超えればわかることだろう。
さて、こうした少年法改正の動きに対しては必ず起きる反対論がある。それは少年犯罪は増加していないので改正の必要がないという反論と、厳罰だけでは少年犯罪は解決しないという反論である。前者については少年法自体に問題があるから改正するのであり、それは少年犯罪の増減とは関係なく、改正すべき点が改正するということであろう。年少人口の数が少なくなればその年代の犯罪が減るのは当然であるが、それでも少しでもゼロに近づけるために最善をつくさなければならない。次に厳罰だけでは解決しないというのももっともであるが、こうした「だけでは」論は刑罰の応報という側面を忘れている。被害者や遺族が国家や社会に対する信頼を取り戻していくためには加害者が十分な刑罰を受けることは欠かせない。忘れてはならないのは、少年犯罪の被害者もまた、春秋に富む少年であることが多いということである。そうした被害少年や遺族の立ち直りということにも目を向ける必要があるのではないか。
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