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今朝の京都新聞の連載コラム「心身一如」に佐藤努が筆を執っていて、セラピーに関わる語源を解説してくれてました。私が妙に納得したのは「セラピー」と言う言葉です。
私はセラピーと言う言葉が嫌いではないし、自分の事をセラピストと表現もします。けれどこの言葉は日本語では「治療」と訳されて使われます。私はこの治療が好きではありません。この矛盾がいつも少々気がかりでした。 以前、虐待防止学会で虐待防止業界では大先生と言われる方が、虐待する親をどうやって治療構造に乗せるか、という議論をしていました。私はムカついて「治療治療というな」と発言した事があります。もちろん発言は許可を得手の事です。 治療というイメージは病気を抱える患者と病気を治す医者という権力構造を意味するように思えて、私の価値観にはそぐいません。私の理想とする医者と患者の関係はともにありともに育ち合う関係でしかありません。 こんな私がいつもは目にもとめないコラムに目が止まったのも何かシンクロするものがあったのかもしれません。その言葉セラピーなんですが、コラムではセラピーは「召使いとして仕え、世話をすること」であり「心身を温める」こととの語源だとのこと。 さらに、ホスピタルは「心からもてなす宿泊所」との事。医者(フィジィシャン)とは「自然を学んだ人」あるいは「自然治癒力を支える人」であり、佐藤は「医者は科学(エビデンス)を信じる宗教家になってはいけない」とも続けます。 最後に彼は「ナースログ」の言葉も引用しています。死と再生の命の連鎖の中に私たちの存在がある訳で、すべてに意味があると言う事でしょう。 私が直感的に選択してきた援助の基本がこれらの言葉に込められているようです。現代では当然の医療を巡る価値観に対する違和感や抵抗を表現し続けた私ですが、私の直感の意味やその形である日々の援助実践に更なる確信を得られました。 佐藤氏に感謝です。これからは私は違和感を感じる事なくセラピストとと自身の事を語れると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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