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義姉《あね》の部屋から、どうして脱け出したのか、絢子《あやこ》には分らなかった。義姉が、最後に何と云ったのか、絢子の耳にはいらなかった。
彼女は、耳が割れるように鳴り、眼が眩《くら》みそうになり、危く昏倒《こんとう》せんとする身体を、ようやく支えて義姉の部屋を出て来たのである。しかし、深窓に育った処女である。絢子には、(いいえ、お断りします)とは、どうしても云えなかった。まだ明治は四十年なので、女性の自我意識は、 また女性の自由も、少しも発達していなかったのである。 ただ、義姉のいろいろな勧め文句を、(考えさせて頂きます)と、云って、やっと切りぬけて来たのである。しかし、いくら考えたところで、承諾できる問題ではなかった。 絢子は、その翌日から、食事をしなかった。四十年頃の弱い女性にとっては、そうしたハンガー・ストライキをすることが、せめてもの弱い反抗だった。 でも、絢子は女中達に、 「私、御飯たべたくないの。でも、お兄様やお義姉様《ねえさま》が、心配なさるといけないから、黙っていてね。」 と、云う気の弱い女性だった。 しかし、康貞に守ろうとする操だけは、強かった。もし、義姉が 兄もそれに賛成して、芳徳と結婚させようとするのだったら、自殺するほかはないと、心の底で決心していた。 女中のいち《、、》だけが、甲斐甲斐しく絢子を慰めて、取らないと云う食事を、無理に取らせるようにしていた。 絢子が、部屋に閉じ籠ってから四日目の晩だった。 案内もなく、兄の康為が部屋に、はいって来た。 絢子は、驚いて、床の上に起き直った。 「病気だって?」 「はい。」 「そうか。」 兄は、憮然《ぶぜん》として妹のやや蒼褪《あおざ》めた顔を見詰めていたが、 「お義姉様から、何か聞いたのではないか。」 と、云った。肉親だけあって、絢子の病気が肉体の病気であるか、心の病気であるか、分っていたのである。 絢子は、たちまち涙ぐんでしまった。 「そうだろう。お義姉さんから、何か聞いたのだろう。」 「はい。」 絢子は、ほとんど口の中で返事した。 「それで、そんなにガッカリしているのか。」 「………」 「新しい縁談など、今お前は聞きたくないのだろう。」 絢子は、黙って頷いた。 「そうだろう。しかし、絢子お前は、康貞のことは、思い切らねばならないよ。」 「はい。」 そう返事するほかはなかった。 「新しい縁談の話は、これは当分待って貰うよう、わしからも話しておこう。」 「どうぞ。」 絢子は、兄を頼もしく思った。 「しかし、義姉さんはお前も知っている通りの人だから、兄さんも実は、困っているのだ。お前は、芳徳はどうしても嫌いか。」 「私、どなたとも結婚したくございませんの。」 「いや、それは無理だ。今すぐとは、云わないけれども、お前も年が年だし、ああした破談の後だから、早く適当な人を見つけたいということは、わしも義姉さんと同意見なのだ。ただ芳徳が、適当かどうか、それは疑問だが 」 「お兄さん、どうぞ縁談の話は、当分なさらないで下さい!」 「うむ、当分はね。しかし、お前を、このまま埋《うも》れ木にする訳には行かないよ。」 「………」 絢子も、とにかく当座だけ逃げれば、どうにかなると思った。 「しかし、芳徳の話を断るのは、わしにも、少し苦手なんだ。だから当分待ってくれという風に云っておこう。だからお前も、その積りでいてくれ。とにかく、話を延期しておいて、お前がどうしても厭なものなら、先へ行って、ハッキリ断ることにしよう。お前も、その積りでいてくれ!」 「はい。」 「そうと定《き》まったら、お前も機嫌を直してくれ。義姉さんは、お前が不貞腐《ふてくさ》れて寝ていると云って、…機嫌を悪くしているよ。」 「まあ!」 絢子は、この先の義姉との関係を考えると、胸が潰されそうだった。 「とにかく、兄さんが、どうにか話をしておこう。」 そう云って、兄は出ていったが、ほかの方面では、頼もしい兄ではあるが、義姉に関する限りは、何だか頼りにならないようで、絢子はかなり不安だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年10月21日 03時02分09秒
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