【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

近代日本文学史メジャーのマイナー

近代日本文学史メジャーのマイナー

Calendar

Archives

Recent Posts

Freepage List

Category

Profile

analog純文

analog純文

全て | カテゴリ未分類 | 明治期・反自然漱石 | 大正期・白樺派 | 明治期・写実主義 | 昭和期・歴史小説 | 平成期・平成期作家 | 昭和期・後半 | 昭和期・一次戦後派 | 昭和期・三十年代 | 昭和期・プロ文学 | 大正期・私小説 | 明治期・耽美主義 | 明治期・明治末期 | 昭和期・内向の世代 | 昭和期・昭和十年代 | 明治期・浪漫主義 | 昭和期・第三の新人 | 大正期・大正期全般 | 昭和期・新感覚派 | 昭和~平成・評論家 | 昭和期・新戯作派 | 昭和期・二次戦後派 | 昭和期・三十年女性 | 昭和期・後半女性 | 昭和期・中間小説 | 昭和期・新興芸術派 | 昭和期・新心理主義 | 明治期・自然主義 | 昭和期・転向文学 | 昭和期・他の芸術派 | 明治~昭和・詩歌俳人 | 明治期・反自然鴎外 | 明治~平成・劇作家 | 大正期・新現実主義 | 明治期・開化過渡期 | 令和期・令和期の作家
2023.10.22
XML
カテゴリ:昭和期・三十年代
  『芽むしり仔撃ち』大江健三郎(新潮文庫)

 実に、約半世紀ぶりの再読であります。
 半世紀も前に読んだ本なんて、何も覚えていなくたってそれは私の記憶力に問題があるとは思いませんが、この度は、なんとなーくいろんなシーンを覚えていたようで、何と言いますかー、えらいものであります。

 わたくし、それに関して、経験則的に感じていることがあります。
 それは、むかーしに読んだ本で、内容についてはほぼ忘れてしまっているのに、この本は自分はけっこう感動して読んだ、などの記憶だけが残っていることが、割とあるんですが。こういうのって、どうなんでしょうか。
 例えば今回の大江作品でいえば、『万延元年のフットボール』なんて小説は、やはり半世紀ほど前に読んで内容はほぼ忘れているけれど、感動したという記憶は何となく残っている、と。……。

 さて、『芽むしり仔撃ち』であります。
 上記にあるように、断片的には内容を覚えているところがあるものの、初読時のトータルな読後感の記憶がないんですね。
 かつて高校生だった頃の私は、この本を読んで、感動した、よかったと思ったのだろうか、と。

 実はこの度読み終えて、わたくし、どうも一つ疑問が残ったのであります。
 いえ、それは、作品そのものにというものではありません。
 (作品そのものというなら、文章表現について触れねばならず、これについては、私もすばらしいとしか言いようはないと思います。少女との感情の交流の場面、雪の日の場面などの瑞々しい描写は、この筆者の天衣無縫の怖ろしいばかりの表現力を、力技で感じさせてくれます。)

 本書の解説文の中に、この小説に対する作者の言葉として、「この小説はぼくにとっていちばん幸福な作品だったと思う」とあったり、それ以外にも大江氏がこの小説が好きだと言っている等のことを読んだりするのですが、困ったことに、この度再読してみても、なぜそうなのかが、どうもよくわかりません。(好き嫌いの話なんだから、というような単純なものではきっとないと思うわけですね。)

 とはいえ、筆者は日本の誇るノーベル文学賞受賞作家であります。先日亡くなられましたが、昭和、平成、(そして令和もですかね)の日本文学史上の「大巨人」であります。
 よくわからないのはお前のせいだといわれると、私自身、当然のように納得してしまいます。
 ということで、身の程知らずにも、何と言いますか、かなわぬまでもという感じで、私の思いを以下に書いてみますね。

 いえ、私の考えたことは極めてシンプルです。
 私たちは小説を読む時に、誰に(何に)感情移入して読むのか、という事です。
 そして付け加えるなら、(いかにも素人っぽい読みかもしれませんが、)読後やはりカタルシスが欲しくないか、という事であります。

 本書は、十代の青年が主人公の一人称小説です。最後まで、その視点から離れて描かれることはありません。
 と、すれば、読者はやはり主人公に感情移入して読むのではないか、と。(もっとも、感情移入して読むことの正誤良し悪しは考えられねばならないでしょうが。)

 つまり、私は、主人公に襲い掛かる圧倒的に理不尽な暴力、そしてその結果としての屈辱感、無力感が、読んでいて我が事のようにつらかった、不快感を伴ったということであります。
 そしてエンディングの絶望。
 少し長いですが、そこを引用してみます。

 ​しかし僕には凶暴な村の人間たちから逃れ夜の森を走って自分に加えられる危害をさけるために、始めに何をすればよいかわからなかった。僕は自分に再び駈けはじめる力が残っているかどうかさえうわからなかった。僕は疲れ切り怒り狂って涙を流している、そして寒さと餓えにふるえている子供にすぎなかった。ふいに風がおこり、それはごく近くまで迫っている村人たちの足音を運んで来た。僕は歯をかみしめて立ちあがり、より暗い樹枝のあいだ、より暗い草の茂みへむかって駈けこんだ。​

 どうですか。
 ここに描かれているのは絶対的な絶望的状況ですよね。
 とすれば、この先にあるのは、主人公の死以外にないんじゃないでしょうか。
 上記にも書きましたが、圧倒的に理不尽な暴力にさらされ、恋人を失い弟を失い、友人たちからも離れられていった主人公の作品最後の状況がこれだとすれば、その主人公に寄り添うように読んでいった読者(わたくしですね)は、どこにカタルシスを覚えればいいのでしょうか。
 大江氏の述べる「幸福な作品」「好きな小説」の意味がよくわからないとはそういう意味であります。

 と、いうようなことを、先日、我が文学鑑賞のメンターに述べたんですね。
 するとあっさり、「あんた、読み違えている」と否定されました。
 そして、だいたいこんな風なことを教えてくれました。(ちょっと違うかもしれませんが、私はこんな風に理解しました。)

 なるほど、このラストシーンに描かれているのは、絶対的な絶望状況かもしれん。しかし、だから次には主人公の死とは、どこにも書かれていない。初期の大江がしばしばテーマにした監禁状況だが、そこからの脱出ができたのかできなかったのか、その寸前、別の言い方をすれば、主人公の置かれている絶対的絶望状況そのものの確認の時点で、筆者が筆をおいているところに注目すべきじゃないか。絶対的絶望状況、だから脱出できなかったと筆者は書かなかったのか、だけど脱出できたと筆者は書かなかったのか、大江が晩年に至るまでこの作品を好むといっているならば、たぶんその理由は、この辺りの読みにあるのではないか。
 そして、ではなぜ、筆者は脱出の成功不成功を書かなかったのか。それは、こう言いかえることができるのではないか。
 この絶望的状況こそあなたが生きている現実ではないのか。
 少なくとも、初期の大江作品における現実認識はこのようであったと思う。その困難を困難の中で生きることが、今を生きるということだと考えていたのじゃないだろうか。

 ……うーん、なるほどねー。
 ……そー読むんかー。
 これなら、筆者の本作についての好き嫌いの発言も、なるほど納得できますよねー。

 いやー、えらいものです。
 いえ、この度はいいことを教えていただきました。
 吉田兼好がいったのはこういうことだったんですね。
 「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」と。


 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 
   ​にほんブログ村 本ブログ 読書日記





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.10.22 11:13:36
コメント(0) | コメントを書く
[昭和期・三十年代] カテゴリの最新記事


PR

Favorite Blog

徘徊日記 2024年6月… New! シマクマ君さん

今週、観た映画(202… ばあチャルさん

Comments

aki@ Re:「正調・小川節」の魅力(01/13) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
らいてう忌ヒフミヨ言葉太陽だ@ カオス去る日々の行いコスモスに △で〇(カオス)と□(コスモス)の繋がり…
analog純文@ Re[1]:父親という苦悩(06/04)  七詩さん、コメントありがとうございま…
七詩@ Re:父親という苦悩(06/04) 親子二代の小説家父子というのは思いつき…
√6意味知ってると舌安泰@ Re:草枕と三角の世界から文学と数理の美 ≪…『草枕』と『三角の世界』…≫を、≪…「非…

© Rakuten Group, Inc.