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彫刻家木村五郎43
あんこ人形・木工芸・資料館567
大島を描いた画家や文人470
島で咲く花や生き物701
伊豆大島案内1060
もろもろ451
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今朝畑に行く途中ではじめて違反切符をもらってしまった。大島で一番スピードが出せる見晴らしのいい直線で一斉検問をやっており「シートベルト装着義務違反」で呼びとめられた、隣りの女房殿はしっかりベルトをしていたが何の効果もない。1点もらって帰宅の途中ですれ違う車の装着率を数えてみたら30パーセントがやっていなかった。運が悪かった、と思わず法規を守っていれば何でもなかったことだと反省し次回からは指差しで「シートベルトOK」をやろう。免許携帯とシートベルトは習慣に。家を出る時にめがね・携帯電話・財布と免許の確認を忘れずにしよう。畑の用事は時間がなくなってしまって女房だけ出直して行った。
2005年09月19日
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昔、公務員をやってた頃、ある研修の課題が「少子化」だった。その時何故テーマが「少子化」なのか、子どもの数が減る事がどういうものか実感がなかったのを覚えている、今なら少子化に加えて「温暖化」が現代の人類最大のテーマではないかと思う。あのままずっと勤めていれば今ほどこのテーマが身近で切実にはならなかっただろう。昨日予定したサクラの伐採は都合で来週に延びた。
2005年09月16日
業務用の「額縁」を都内からインターネットで取り寄せた。ダンボールに梱包されて届いたが、夏のせいだろうか、輸送の途中で箱の底に随分水分が染みこんでいた。荷を確認してみると、売り物の額縁の箱が濡れてフヤケテしまっていた。一梱包分の取り換え希望を運送屋に連絡した、額自体は無事だったのでダンボールの箱を10枚。今日その箱が届いたが、証拠に取っておいた「フヤケタ被害物件」には目もくれず、ただ代替品を置いて行った。何でそうなったのか、その箱がどうなったのか、結局荷物を出したほうも荷物を運んだ方も「被害品」を見ることもなく終わった。どうやって送り主に連絡して、どう費用負担をして決着させたのか、保険に入っているから電話一本で解決ができる仕組みがあったのだろうか。また次回在庫が切れたら注文するだろう、こっちは被害物のことを覚えているが、前にこんなことがあった、と他にそれを気にしている人は誰もいないだろう。今でさえもうずっと過去の話になっている。私の手元には証言する機会を与えられなかったゴミとして残った、私は有料ゴミ袋に入れてゴミ置き場に持ってゆくのだ。
2005年09月14日
まだ夕方の5時30分なのに空一面黒い雲に覆われてしまっている。今朝の富士山はうっすらと薄い墨色で綺麗なシルエットだったけど、今は伊豆半島はまったく見えない。前の台風の時に紛れ込んできた「秋の虫たち」はいつのまにか出ていったようでまったく虫の声は室内では聞えなくなった。その代わり暗くなると外では虫の大合唱。まだ日中は暑さがおさまらず「かき氷のあずきミルク」がまだ売れている。これから秋本番を迎えるがもう台風は15号まで生まれている。子どもの頃には30号とか40号とかケッコウ大きな数字の台風が来たことを記憶している。ドームの屋根が吹っ飛ばされた夢をみた、もう大風豪雨の襲来はこりごり。さっきより真暗な雲が現れた、もう幟旗を取り込んで帰る支度をしよう。
2005年09月11日
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「食べる」が正しいのではないかと思うが、何故「飲む」という人がいるのだろうか、まだ固体になったままなのだから不思議な気がする。かき氷が出まわり始めた頃にはジュースのようなものできっと氷より液体が多かったのではないか、祖父母や父母が使っていた呼び名を今の本人も使っているのではないかと思う。「前に頭が痛くなったからもう食べない」と言って注文しない人もいる。口の中が冷たくなるのに、おでこの裏のあたりが痛いと感じるのは、刺激が強いと「冷たさ」を伝える神経だけなく、「痛みも伝える神経」も刺激、痛みの場所も間違って脳に伝えられてしまうという説と頭の血管に実際に痛みが起こる、軽い炎症が一時的に起こるという二つの説がある、と朝日新聞の「ののちゃん」が昨日で解説している。最近のかき氷はクラッシュした粒の粗い氷が多いので、口の中で冷たさが倍増しているのではないだろうか。ちなみに当館の「かき氷」は鰹節を薄く削るように細かく柔かくふんわりした氷にしているので、頭が痛い、といわれたことはない。氷の痛みは5分以上続くことはなく体に悪い影響は残らないそうです。
2005年09月05日
昨日は炎天下のなか半日草取り、普段は室内にいるので汗は冷汗が多く、太陽の下で覚悟してかく汗は格別に気持がいい。今は熱中症といって騒いでいるがちょっと前までは何でもなく当たり前のように水も飲まず炎天下にいたものだが、チラっと思い出して不安になりちょっと作業しては休みの繰返しで思ったほどはかどらなかった。砂地の畑は水気がなく草がすぐに抜けた、アシタボは新芽なし、ミョウガ5つ収穫、去年豊作だった柿やみかんも実を付けていた。さつまいもはツルが延び放題だが秋には芋づる式に、と期待したい。雑草で繁殖力の強い「せんにんそう」の花は蕾をもっていた、ホトトギスの花芽も膨らんでいた。タマには本気で汗をかくのも良いことでスッキリした。
2005年08月19日
先日は熟練者の助けを借りて何とか大きな容量のパソコンに乗りかえることができたが、そのための操作を見ていたのだが、何をしているのか、さっぱりわからなかった、何故新しいパソコンだけで古い機種のパソコンのデーターが移動できるのか。それはきっと共有ネットワークと言うものだろうとは思うのだが、一つの文章を移動させることは私には不可能で、それにチャレンジするつもりはない。昨日は私よりもっと初心者の人が探し物(パソコン検索)にきたので、私がいつものようにして入力と検索をしていると、「いまどうやった」と何度も聞かれた。私が熟練者に聞いたように私も聞かれてしまった。本を見て操作を覚えることは大変な時間と労力を必要とするので、1時間くらいやり方を教えた。こうしてみんな上達して行くのだ。自分にも教えられることがあるということは自信にもなり嬉しくもある。
2005年08月01日
パソコンをはじめて7年、卓上ノート型ウィンドーズ98を使い続けてデーターが増えて大分前から動きが鈍かったので、息子から下取りした大きな画面で見れる容量の大きなものに替えようと思ったのだが、その操作がなかなかわからず遅れ遅れになっていたが、教えてもらってようやく今日から切り替えることができた。すべてが早く画面も明るく、もっと早くやっていれば苦労をしなかったのに、そうツクヅク思う。ホームページの加工もこれで新しいパソコンでできる。自分のホームページに他に管理を頼まれて2つのホームページを更新している。一応順調に動いているが基礎を知らないので、チョットしたことでつまずいてしまうことになるが、その時はまた助けてもらおうと思っている。初心者が何を知りたいのか、何に困っているのか、熟練者にはわからないのだ、それが実感。
2005年07月29日
毎週木曜は休館日だが前の日の感じでお客さんがいるようなら、そして自分に予定がなければ開いても良いと思ってやっている。開けていれば何人かは来てくれるだろう、夏だというのにいつもの平日の感じだったので開館しなかった。もっと利用してくれるなら張り切って開くが、畑の草取りもしたいから、それではサービス低下ではないか、と言われるかもしれないが、決めた定休日だ、誰が一番悪いということになるのだろうか。
2005年07月28日
朝から雨と風、外遊びができないので行くところがなく、こういう所に来てくれる。あんこ人形を子供と保護者が二組あんこ人形を作った。こどもは実際にはできなくてもこんな人形にしたい、そういう思いが強いので少しでもそれに近づけられるようにちょっと手伝っている。みんな満足して人形をお土産に出来た。こどもの姿が多く夏休みに入ったことを実感、自分の子はもう大きいので夏休みの恩恵はない、小さな子をみるとそんな年ごろだった頃の家族のことを思い出す。夕方になって台風の目の中にいるように風もなく静か、ニュースも聞かないから今何処にいるのやら、あまり大きな台風ではなさそうなので自宅へ戻ることにする。
2005年07月26日
今日は冷房が要らないくらいに涼しい、人もマバラなので、気長にネットを渡り歩いてみたら収穫が2つ。小笠原にブルリュークが渡った大正の終わり頃に書いた北原白秋の「小笠原のはなし」を調べてくれと露語翻訳家に頼まれていたが、ふたつの短編をみつけた。「小笠原の夏」と「小笠原夜話」、来年に書こうとしている翻訳家自費出版の「小笠原の頃のブルリューク」の参考になるかもしれない。昭和初期の大島の絵葉書や写真の中に、ある大学の資料として10枚くらいの写真、絵葉書ではなくカメラで撮影したと思われる島の町並みと海岸、港の様子が写っていた。私はこの資料館の資料としてプリントアウトしようと思っているが、大島町で今秋に「懐かしの写真集」を出す企画があるので、はじめてみる写真もあったので情報を流そうと思う。町から大学に冊子掲載の承諾をとれば画像の利用はできそうだ。明かに大島なのに「新島」と説明している写真もあった。11月に絵葉書展を資料館でやるので参考資料として見てもらおうと思う。
2005年07月24日
大島グリーンツーリズム研究会の仲間が体験のメニューをリニューアルした。ホームページも持っているが、東京の業者へ委託していて中々内容の更新ができないので、この機会に大島で管理したい、そういう話になった。本人は私より機械は無理そうなので何と当館が中味をリニューアルに応じて衣替えし、時々更新する管理者に立候補した。基本的なことがわかっていないので怖いもの知らず、さっそくデジカメの写真を読み込むソフトを記憶させたが、強制終了のメッセージでまだ出来ていない。アドレスを変更してデーターだけはもう私のパソコンに入っている、気のせいか反応が鈍くなった。ウインドーゥ98のノートではもう限界かもしれない。うまく使いこなせるようになれば自分の勉強にもなると思ってやっている。
2005年07月20日
大島のお盆は7月。13日夕方の迎え火で亡くなった親族たちを家に招き、16日の墓参りと送り火でお帰り願う。私の両親はもう亡くなって8年から15年が経つので身近な気持は薄れているが、新盆の頃にはスーッと魂が玄関から入ってきたのを感じたものだ。死してあの世に行ってしまった者と生きて現世にいる者との繋がりは行事のようなものの中で生きている者がどう感じるかという事ではないだろうか。何も感じなくなっているなら習慣だから、はやめたほうがいい、本人しだい。遅い送り火をしながら父や母と一緒に「送り火」をしていた頃を思い出した。
2005年07月17日
予定どうり今朝のジェット船で戻ってこれた、船は満席だった。工芸品の材料の仕入れと病院(皮膚科)へ。手が春から痒くてだんだん皮膚が乾いてひび割れてきたので夏を前に処置をしてもらった。何が原因だろうか、と聞いてみたが、あやふやで納得できる話はなかった。しかし貰った軟膏を塗るとカユミも赤みも治まってきて楽になった。原因が分らなくても医者は治せることを知った。浅草橋のビーズの店に行ったら女性ばかり、男は私ひとりで何だか恥ずかしかった。東京は人ごみで1日居ればもう帰って来たくなる場所、むかし10年も住んでいたことがウソのような違和感は加齢の証拠か、もう暮まで上京の予定なし。
2005年07月15日
先月木村家に伺ったが、また用事が出来て東京に行くことになった。今日4:30に閉館し5時20分のジェット船に乗り、7時過ぎに竹芝に着く予定。明日一日用を足して明後日の8:00のジェット船で戻り10:00の開館には間に合うように帰ってくる。夜出る大型船が今は運航していないので一泊余計に泊まることになる、今週末から夏期ダイヤになるので、夜船が出るが、島民の足という意味から言えば随分不便になってしまった。一人でやっている資料館なので、もし朝の天候が悪くて船が欠航することになれば休館しなければならない。まだ夏前でお客さんが少ないけど、なるべく臨時休館はしない、たとえお客さんが誰も来なかったとしても開いていたい、そう思っている、版画展もはじまったばかりだし。
2005年07月13日
間瀬定八顕彰会の会長さんが4月に行なわれた300遠忌の模様が掲載された「歴史読本8月号」を持ってきてくれた。大きな記事ではなかったが、最後に会長のコメント「全国の忠臣蔵ファンに、ぜひ大島に眠る定八のことを知ってほしい」が掲載されている。慰霊祭をきっかけに中央義士会に入会、これからも間瀬定八の慰霊と義士会との交流を続けて行くつもりです、そう言って帰って行かれた。来島のお客さんを増やそうということよりこうした取り組みを継続してゆければ来年からも「ゆかりの方々」も訪れるようになり、来客も自然増になるだろう。小さな活動のグループがあれこれはじめればきっと活気つくと思う、来年も期待しよう。
2005年06月26日
6月1日(水)からメールが送れず、ホームページも繋がらなくなってしまった。2日は休館日、3日に詳しい人に見てもらったが直らず、ルータが原因だろう言うので、週明けにルーターの番号を控えてきて照会してもらう事にした。私の自慢は片付け整理ベタ、見てくれた人が帰りがけに、料金払っているよね、そう言ったので、気になって自宅へ帰って調べたら4月の料金が未納で、督促が来ており払わないと6月1日線を切る、と書いてあった。何というチョンボ、2時間も直してくれた人に会わせる顔がない。振り込みは月曜の朝まで出来ないのでどうしようもない。6月5日(日)は楽天日記をはじめてちょうど丸一年目の日だった。そういう訳で記念日は空しくダラシナイ自分への嫌悪と反省で過ぎた。知らずシラズノうちにすっかりパソコンマンになっていて、大事なメールもくるはずなのが見られず、日記も書けず、情報も得られず、パソコンがなければ外部との接点が何もない暮らしになってしまっている事を体で感じた1年目の記念日だった。振込しても数日繋がらないこともある、と書いてあったが今やってみたら繋がった。
2005年06月06日
昨日までは半袖で過ごせていたが、今日になって急に寒くなった。まだ早いというのに女房はコタツからテーブルに昨日衣替えをしてしまった、きっと早まったと思っているだろう。こんなに寒い雨の降る日はお客さんの足は遠のく。ヒマにしていると、工房で販売している商品をネットで販売しないか、と電話がかかってきた。どうやら調査員が何を商品として置いてあるのか調べに来たらしい。時々参考に見せてくれ、といってメモしている人がいるので、そんな人が調査しているのだろう。好意的にみれば、「良い品があるからネットで販売してみないか、いい場所だからPRの役にたちたい」という事かもしれない。資料館の存在を多くの人に知ってもらいたいと思っているが、どんな場所かもわからずただ品物だけ写真で紹介して注文を受けるシステムなのだろうからあまり魅力はない。大きなプロバイダに登録されるので効果は直ぐ出る、そうだ。怪しげなのは、名乗らずに黙って調べに来て後から電話やメールで商談をしようという流れ。折角来たのだから話して行けばよいのに。興味ないから、といって断ったがきっとまた電話してくるだろう、お願いしてみるか、と色気を出してみると、実は毎月登録料がかかります、そんな話しになるに違いない、夕方になって益々寒くなってきた。
2005年05月30日
春の連休がはじまったが当館はあまり影響はない。今日は南風が強いので船が元町ではなく岡田に着いているのでお客サンの人どうりがない。連休にあわせて大島の版画家本多保志の「第5回作品展三原山」を20点の作品を展示・即売している。元町の有志が昭和40年の大島元町大火で焼失してしまった町中の地図の復元に取り組んでいる。復元したからどうだ、という事はないが年寄りが元気なうちに聞いて作って置くことも意味ある事だと思う。やらなくても何の影響もないことだが。たたき台の地図作って掲示板に貼ったので、あそこが違う、ここに道が、という情報が集まれば正確な地図が完成するはず。
2005年04月29日
礼拝墓がある曹洞宗医王山金光寺(きんこうじ)山門にて 金光寺境内、元町地区の金光寺・海中寺・潮音寺のご住職による法要 配所の土となって大島で眠る間瀬定八の300遠忌にお参りする人々
2005年04月27日
4月23日間瀬定八の300遠忌慰霊祭が予定どおり行なわれた。資料館は一人で全部やっているので、行事には参加できなかったのでどんな様子だったのか、わからないので、後日写真をもらったら紹介したい。中央義士会と大島の顕彰会の共催だった、当日の読売新聞に記事が掲載された。
2005年04月24日
ある大手の新聞が「間瀬定八の取材」をしてくれた。慰霊祭の中味の一通りの説明をしたが、記者の関心は「島の人の反応」がどうか、間瀬の名前をみんなが知っているのか、そういう事だった。やっぱり記事にするには大事なことなのだろう。4月17日の日記に書いたようなことを話した。予想に反して多くの人が参加してくれるといい。やろうと思っている事はとても良いことなので、たとえ小人数の慰霊祭であったとしても、「取材に来てもらって記事にしてください」とお願いした。
2005年04月20日
泉岳寺の義士祭に行ってパンフレットを配って、大島の広報誌に「慰霊祭の告知」をして、有志でチラシを配って、顕彰会の方々の準備は進み慰霊祭まであと1週間となった。一般のツアー参加申し込みは締め切ったが、間瀬定八の縁者の方、義士会の方や一般の方も参加してくださる事になった。木村五郎研究会が中心となって開催された「大島を描いた画家と文人展」を見にきてくれた島の人は230人くらい、クラウン少女合唱団の無料のコンサートには主催者調べで300人が来てくれている。人口9000人の島、すべてに関心が低いと思っては大間違いで、多くの人の共感を得る事が出来るかもしれない。やってみなければわからないことで、やらない前から心配していては出来ない。私は参加人数が多ければ一番だけど、少なかったとしても「やってよかった」そう主催者が思える慰霊祭であったらそれで成功ではないかと思う。観光に結びつけたい、そう考えたい人もあると思うが、気持が前に出た良い会であって欲しい、法要にも講演会にも行けないが、どんな会であったのか、また報告したい。
2005年04月17日
折角ホームページでPRをしているので、資料館の外に顕彰会の旗を掲げている。何だかミスマッチのような案配だが「何だろう」と注目してくれることを期待して。顕彰会会長から最終の式次第が届いたのでお知らせします。4月23日12:30より元町共同墓地内墓前、金光寺境内供養塔前にて法要 14:00から中央義士会中島理事長による記念講演会が開発総合センターで行われる。地元の中学生が調べた「間瀬定八や大島の流人について」の研究発表も予定されています。興味の有る方是非ご照会ください。当資料館の全貌と間瀬定八顕彰会の旗の写真です。小さなドームですが中はとても広く2階もあります、お立寄りください。 ドームの資料館の全景です「木村五郎・農民美術資料館」
2005年04月16日
大島の顕彰会の企画による間瀬定八の慰霊祭が近づいてきた。当館でも旗を立ててPRしている。大島町の行事と重なってしまったが、雨が降らず穏かな日で法要が無事に行なわれることを願っている。赤穂浪士の中央義士会の方々も見えられるようだ。ドーム型の資料館も建ててから6年が経過しているので、写真では判りにくいが看板のまわりの木々も随分と成長してきている。ドームを取り囲んで植えた「やまぼうし」は潮風に打たれながらも半分くらいが生き残っている。満開の花を見られるのは何時のことだろうか。私が毎日暮す建物はこんな形、風の音がしなくて、冬は温かく、夏も暑い、開放的な館内です、こう見えても2階もあるんです。ビッグフットのログハウスの仲間です。IMG SRC="http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/07/47/6180747/81.jpg" width="230" height="177" alt="ドーム">
2005年04月10日
真冬には6時閉館して家に帰る時は真暗だったが3月は薄明るく、沈む太陽がちょうど入り口の正面に沈んで行った。今はまだまだ遊べるくらいに明るい、太陽も冬より右だから北の方に10度くらい移動している どこが廻っていてこうなっているのか、真剣に考えたことはないが1日ごとに移動を繰返していることが目の前で実感できる。
2005年04月06日
今年の1月終わりに秋保に行った時の写真をいただいた。大雪のなか、冬のソナタだといって皆で記念写真をとった時の一枚。誰がどうのということよりこの写真を見てもらえば、この集まりがどれだけ有意義なものであったかが判る証拠の写真だと思う、みんな良い顔で笑っている。あれからまだ2ヶ月しか経っていないのに、大島では間もなくこの雪模様のように大風が来て桜吹雪が舞い散る季節を迎える。
2005年04月04日
赤穂義士間瀬久大夫の遺児間瀬定八は大島に遠島され2年後に亡くなりました。流された4人の遺児のうち残された3人は、その後ご赦免になっています。定八が4月27日に病気で没してから今年で300年目になるので、4月23伊豆大島で慰霊祭が行われます。 大島の間瀬定八顕彰会では、昨夜大島の郷土史家を招いて流人の勉強会をおこないました。大島に送られた流人の中で役小角(役行者)や源為朝などが良く知られている。大島に来た流人は約200人くらいだという説明があった。15歳から25歳までの4人の若者は島でどのような生活を送っていたのだろうか。遠島の時には既に島の人々は「義士の快挙知っており、粗雑ではあったが小屋をつくり、4人を歓迎した」というお話だった。慰霊祭の日には講演会も行なわれるので、もっと詳しい話が聴けるかもしれない。300遠忌に興味を持たれ、慰霊祭の行程などお知りになりたい方は是非ご照会下さい。
2005年04月01日
今日は一日暖かいような寒いような変な天気だった。三原山はうっすら雪化粧、島の北部の泉津では海岸近くでも雪が積もったと聞いた。当資料館の前の道の海側にあった物置小屋が撤去されて海が直接見えるようになって今の時期は夕日がちょうど正面に沈んでゆく。子供の頃には伊豆半島の山の中に夕日は沈むものだと思っていた。それから日本海に沈む、アジアの沙漠に沈む、フィンランドにしずむ、そう思ったことを覚えている。今も答えられない、夕日は一体何処に沈むのだろう。
2005年03月13日
大島に住む人が役場を通じてウズベキスタン人で日本の大学に留学している学生4人を連れて資料館に来てくれた。何故かというと、根っこはロシアの画家ブルリュークが大島に来て絵と紀行記を描いたこと、それを知ったロシアの版画家ボンダレンコ氏の作品を大島で展示したことにあった。綺麗な日本語で話してくれた、母国語があるようだが基本の言葉はロシア語なので、前にボンダレンコ氏から送っていただいたウクライナ大使館が発行する「ウクライナ通信」に大島で展示会をやった記事が載っているので原文を見せた。ロシアの二人の画家と大島が繋がっていることも縁だし、そのお国の近くのウズベキスタンからの留学生がこんな小さな島の小さな資料館へ来てくれることも縁だ。案内してきてくれた人も向うの国の出身者で大島に住んでおられる、こんどゆっくり来てくれることになった。そう言えばいつも聞いているラジオの解説者がウズベキスタンの日本協会の世話役をしていると言ってた、随分文化交流が盛んな国のようだった。
2005年02月28日
寝たばこ好きの宿替えご夫婦から電話が入った。もう北海道へ戻っていて「よい旅館を紹介してくれてありがとう、まいったまいった」と電話口でご主人が笑っておられた。ゆっくりでき酒も煙草も満喫できたそうで、今日も朝からお酒を飲んでいるようだった。キャンセルした旅館の電話番号を聞かれたので、きっとご迷惑をかけましたと電話されるつもりなのだろう。昨今の殺伐とした世相のなかにあってこんな人の存在はとても貴重だと思う。今日は道向いの役場の舞台で年に一度の郷土芸能やフラダンス、創作舞踊などの発表会があって、ドームの喫茶も賑やかだった。こうして誰かこの場所を知っている人が知り合いを連れてきて、またその知り合いが連れてきて、という流れになれば非常に嬉しいのだが、なかなか目に見えて増えてはこない。何でも結果が出るまでには10年はかかるという話は本当のことなのだろう、まだ当方は6年目。
2005年02月27日
春一番が吹く、と天気予報が言っていた西風のなか、中年のご夫婦が来てくれた。北海道から来たそうで、強風でヒコーキが飛ばずもう1泊することになって宿を紹介してもらって行ってみたら、綺麗な宿で宿の人も親切で何の不満もないのだが、「室内禁煙、冷蔵庫には缶ビールが3本しかなくて、二人ともヘビースモーカーで、いつも寝煙草、ビールも3本では足りない、いい宿だが窮屈過ぎて、キャンセル料を払ってでも宿を替わりたい、そういう話であった。私が知っている宿を紹介してそこに泊まれることにはなったのだが、さてどうやって宿に断りをするのか、それが憂鬱で仕方がない、という。気の良いご夫婦で何といって断ればよいのか、船で帰れることになったからって言えば、と言ってみたが反応はなかった。きっと宿まで歩いて行って、喫煙のこと、お酒のこと、すべて話してしまって頭を下げて宿を替わることを許してもらうつもりに違いない。こんなカップルは見ていて微笑ましい。帰ったら笑い話になるだろう、といって出て行った。新しい宿は近いので明日も寄ってくれたら、また続きの話が聞けるのだが。
2005年02月23日
今日まで何とか凍りつきながらもやっと使い続けてきた98からXPに変更することができた。息子のおフルだがノートから画面も15インチとなり光って明るくなった。まだインターネットやメールは古い機種のままだがあと数日でこれも使えるようになる筈。これまでパックアップも何もしていなかったので、万一に備えることもできる。それでも容量がどれだけ大きくなって便利になったのか、さっぱり判らないので、まあ前みたいにできればいいや、と思って居る。ノートで作るホームページとデスクトップで作るホームページでは相手の機種によって画面上の見え方が違うようなので、できたら無線ランでノートを繋ぎ、画面が重ならないように見ながら直して多くの人に見てもらえたら、と思う。ノートパソコンは資料館のテーブルに置いて自由に見てもらえるようにするつもりでいる。
2005年02月13日
大島に住む婦人から絵手紙が持ちこまれた。大島の季節を詠んだ老人の俳句、思い浮かんだ絵を婦人が葉書に描き、俳句も書き入れた作品が34点。いずれも大島の動植物が優しく描かれている。近いうちにまとめて本にしたいという。とりあえずパソコンに詠み込んで保存しておく。折角なのでひとつ作品を見ていただく。 群生の額咲く磯辺伊豆の島 窓月句
2005年01月22日
東京上空を通る筈だった寒波の前線が予定より南下して通過しているために一番の寒波が島を包んでしまっている。これではきっと三原山は大雪だろう。南の島にも雪はふる、人里に積もることはめったになく、子供の頃には30センチも積もった経験をしているが、暖冬のせいか、ここ数年は積もっていないと思う。こんな日は来館者は数人、おかげで、今春出版予定の本の最終校正に専念。我慢強いほうだと思うが、パソコンのトラブルにはどうしようもない。ノート型で250ページのボリューム、写真が100枚近くあり、もう容量の限界のようで、とんでもない動きをして止めることが出来なくなってしまい、どっかに隠れてしまった4ページ分を探し出せず、こうやってイライラしているより作り直した方が早い、そう思って半日かけて補充した。もう1回こんなことがあったらどうしよう、知らないということは強みのようでもあるが、こと機械に関しては弱者、寒さが身にしみる。
2005年01月15日
大島では今日成人式が行なわれている。隣が役場(式典会場)なので時々晴着の人が通る。ちょうどこの資料館が出来た頃に高校の制服を着た静かな女学生が時々寄ってくれていた。ほとんど会話する事もなく展示を見たり、資料を読んだりしているようだった。後から分った事だが、学校が終わって自宅に帰る乗り継ぎのバスの時間待ちをしていたようだ。そのうちにご両親と一緒にお茶を飲みに来てくれた。ご両親も絵画や木工がお好きなようで、企画展があるといつも顔を出してくれる。今日もお二人で来て、本多保志版画展の作品を1枚買ってくださった。聞けば娘さんは都内の大学(文化系)に 通って2年、今日は晴着を着て成人式に出ている、という。はじめて会ってからもう5年、親御さんは「この資料館があって、時間も有効に使えて、お茶も注文せず勝手にやりたいことを自由にあれこれ言われずにやらせてもらって娘は感謝しています、昨日みんなでこようと思ったんだけど、時間がなくて」と言ってくれた。2階で1時間も何の音もしないで、どうしたんだろうか、そう思ったこともあったが、こうやってほんの少しだけこの場所も役にたっていることもあるんだ、そう思った成人式の日。
2005年01月08日
家の家族はくじ運にはまったくこれまで縁がなかった。今日は商店会の福引の日、毎年大きな賞が当った人の名前が貼り出されるが、見たことのある名前がいくつもある、大きな字で貼り出してあるので、うらめしげに覚えているので確かな情報、特別に大きな買物をした、という訳でもなく2,3回引いただけでも運のよい人は当てて行く。今くじを引いて女房が戻ってきた、例年どおりのカスだけ。こんなところで運を使わない方がよい、もっと大きな幸運を待ったほうがいいよ、と言って慰めたところだ。
2005年01月05日
来春の300遠忌(間瀬定八)慰霊祭のPRに泉岳寺義士祭にあんこさんが出かけて4500ほどのチラシを配ってきたが、まだ反応はない。毎年行なわれる大島椿まつりのパレードには「討ち入りの衣裳で参加するんだ」と張り切っている会の人たちは若干心配そうである。ある程度の確実な参加者が名乗り出てきてくれないと、ツアーの準備もできない、インターネットで間瀬定八・大島と入れると慰霊祭のページが表示されるようになったので、何とか反応があって欲しい、そうすれば準備する方の勉強にも熱が入って来るのだが、間瀬定八のことを知らなければたどり着くことは難しい。全国義士会連合会会報や中央義士会会報にも慰霊祭の記事を載せていただいているので大いに期待したい。
2004年12月22日
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大島に眠る赤穂義士の遺児間瀬定八の慰霊祭が来春に大島で行なわれるが、そのPRに12月14日、高輪泉岳寺の義士祭の会場附近で「大島あんこ姿の島娘」がチラシを配るために出かけた。呼びかけに多くの人が応えてくれて盛大な慰霊祭が行なわれることを願う。何しろ大島に流されてから2年後に島で病死してから300回めの春を迎えるという節目の年だから。流された島で遺児たち4人はどんな暮しをしていたのだろうか。
2004年12月13日
赤穂義士の間瀬久太夫、吉田忠左衛門、中村勘助、村松喜兵衛の遺児4名が伊豆大島に流罪となりました。間瀬久太夫の次男定八(流島当時20歳)は1705年4月27日22歳大島で病気のため亡くなってしまい、1706年8月に赦免許可証が届き遺児3人は江戸へ戻ることができましたが、定八は配所の土となって今も大島に眠っています。 2005年4月24日(土)・24日(日)に伊豆大島元町霊園の墓前において、伊豆大島流罪中病没の間瀬定八300遠忌300遠忌慰霊祭をおこないます。中央義士会の中島理事長さんの講演や、大島の歴史文化探訪も計画中しています。伊豆大島へは東京から高速船で1時間45分と便利になりました。一泊でぜひお越し下さい。 〒100-0211 東京都大島町差木地字クダッチ 間瀬定八顕彰会事務局 平塚正彦 この慰霊祭のご案内を当資料館のホームページで行ないますので、是非ともご覧下さい。大島で義士遺児たちはどんな暮しをしていたのでしょうか。そして間瀬定八は今どのようにして供養されているのでしょうか。流人たちは大島に来ても牢に隔離されていたわけではなく、島全体が孤島であったので村人との行き来は自由であったそうです。
2004年12月05日
今日は大島を半周以上走破する駅伝がおこなわれた。この駅伝を向えるたびに、はるか40年ほど昔、私が中学時代の駅伝のことを思い出す。各中学から2チーム参加で、高校や一般チームなど30校以上がエントリーして波浮の港からスタート、港を回って差木地までが第1区。私はAチームの1区走者でスタートと同時に猛スピードで疾走、「どうだ、誰もついてこないじゃないか」と大人や高校生を後ろに従えて気持良く走れたのは500メートルくらい、坂に差しかかるとばったり足が上がらなくなり、次々と抜かれ、我校のBチームにまで抜かれてしまった、明かな暴走であった。しょっぱなっからこれではきっと散々な成績だったのだろうと思うが、よく覚えていない。自分は冷静な男だと思っていたが、このレースぶりからとんでもない男だ、ということ、信じられない自分が潜んでいることがわかり、それからというものすっかり臆病になってしまって平凡な選択しか出来なくなってしまった。いつも岐路に立つとあの駅伝の時の冷静さを欠いたとんでもない自分がもう一人いることを思い出してブレーキを踏んでいる。
2004年11月07日
久しぶりの大きな台風だとラジオが言っていたが、ずっと静かだったので安心していたら急に生暖かい南風が吹いてきたと思ったら、どんどんまわりの木が揺れはじめて風が遠くから勢いをつけて走って行くような音が何度もした。夕方に4時頃に停電、ラジオとパソコンだけが動くもの。突風は約3時間で走り去って行った。潮風に打たれて資料館のまわりの木々は枯葉のようになっている、ミシミシと音をたててドームは軋んだけど目につく被害はなかった、今吹き飛ばされたごみや枝を掃除して開館した。元町では屋根が飛ばされたり大きな木が倒れたりして被害が大分出ているようだ。台風の目の進行方向右側に大島が有ったので元町が一番ひどく、山蔭にある泉津はほとんど葉もおちていなかった。ろうそくで過ごしたのは子供のとき以来。
2004年10月10日
今日は変則進路をとった台風のタメに午前中の船や飛行機が欠航してしまった。どれくらい島に観光客が滞在しているのか、週末を控え今日どれくらいお客さんが来ようと思っていたのかわからないが夕べから大風が吹いてしまった。大島に育った画家の中出那智子氏は「大島の夏の海は8月15日頃から海の中の光線がガラリと変り、くらげが出没して泳げなくなるのも、この頃の現象だったことを思い出す」と葉書に書いて送ってくれた。まだこの暑さは続いても波が穏かになっても本当の夏の海はもう大波とともに行ってしまったかもしれない。
2004年08月20日
大島にいてどっちから風が吹いてくるのか、それは大事なこと。南風が吹くか北か、強いか弱いか、どうもそれは高気圧と低気圧のバランスによるようだが、資料館のある元町では西や南の風だと波が出て船が元町の港に着かず、岡田港に出帆港が変わってしまう。そうすると早めに出帆港に行くお客さんが多く、ぶらぶらとしている人もいなくなり、資料館にまぎれ込んで来てくれる人も少なくなってしまう事になる。自分のまわりで吹く風は一方的に相手から何の前触れもなく吹いてくる時と、自分から外に向ってこれでどうだ、と吹いてみる時がある。自分で吹かせた風は中々戻ってこないが、あっちから来た風はちょっとした隙間からスーッと入ってくる。いつまで吹くのか予測は出来ないので、吹いてきた時にうまく風をつかめるように風の通り道を幾つか持っていたいと思う。
2004年08月10日
ちょっとの間勤め住んでいた大島で急死した父の写真の場所を探しに来たお客さんが船に乗る前に寄ってくれた。昨日会ってくれた波浮の人があちこち案内してくれたそうだ。大島に行ってみようと思った動機のすべてがわかったという。父親が写した写真の場所、勤めていた建物、家族で住んでいた民家、お客さんの出産の手伝いをしてくれた近所の人、写真に写っていた学生だった人の名前と今の居所、写真が焼き増ししてあったのできっとあげようと思っていたのだろうから、渡してあげたい、そうしてあげたかったそうだ。昨日はお彼岸の入りで、普段は島にいないような人も帰っていたりしていろんな話しができて、お盆でよかったね、と年とってしまった近所の抱っこしてくれたおばさんが言って二人で泣いたそうだ。昨日と今日の二日間でお客さんの顔の表情が随分にこやかに見えたのは気のせいだろうか、今度は家族で来るから、と言って帰っていった。
2004年07月14日
毎日資料館を開けているといろんな人が入って来て出て行く。今日来たお客さんはアイスコーヒーを飲んでから、昭和36年頃の写真を10枚ほどカバンから取り出して見せてくれ、何処で撮影したのかその場所に行ってみたいのだが、ということだった。大島に仕事できた人の奥さんが生んだ子供がお客さんで、父親は赴任後急死してしまったそうで、まだ1歳にもならない本人が写っている写真を頼りにかつて大島にいた時の足跡を辿ってみるつもりで、念願の来島を果して来たという。幸いに写真は見たことのある風景だったので、地図を出して場所を示しバスで行ったらどうか、と勧めてみた。お客さんは、写っている場所に立てるだけでも満足のようで、もう目が潤んでいた。ここへコーヒーを時々飲みに来る年配の人と働いていた場所が同じだったので、ダメもとで電話して聞いてみると昭和36年には勤めていて、亡くなった人とも顔見知りであることがわかった。その人は波浮の港に住んでいる、お客さんはこれからバスで波浮の港に向うことを告げると現地で落ち合って当時の話をしてくれることになった。今日お客さんは岡田港に船で着いて、最初に来たバスで元町まで来て、観光協会で落ちつける場所はここだと聞いて訪ねてきてくれた。いまどき急死した父の面影を追って写真の場所を見に来る人など珍しい時代で、こうして仲立ちをして会ってもらえることになった。きっとすべてがわかることになるだろう。きっとすべての写真の場所に案内してもらえるだろうと思う。ここで写真を見せてもらっていなければ、手ぶらで帰ったのかもしれない。
2004年07月13日
時々コーヒーを飲みに来てくれる女性が私の似顔絵を描いてくれました。めがねを掛けて頭にはネパールのお土産にもらった毛糸の帽子をかぶっています。まわりに字が一杯書いてあるのですがナンテ書いたのか読めません、本人に聞いても笑っているだけ。今回は写真に撮らせてもらったけど次回はプレゼントしてくれるように頼みました。
2004年07月12日
空梅雨の大島にようやくひと雨きた。どしゃぶりが20分ほど続いたので畑にもすこしは吸いこまれただろう。水気のない土は砂漠のようにヒカラビて風が吹くと砂が舞っていた、さつまやとうもろこしの苗はぐったりしていたし、ミョウガは芽さえまだ出ていなかったので、この雨でぐっと成長するだろう。そう思って書いているうちに西の空は青空がみえてきた、三原山はまだ見えてこないのでまだひと雨期待できそうだ。
2004年07月10日
楽天広場に日記を登録してからまもなく1ヶ月となる。カウンターは500を越した。自前のホームページは月100にも届かない。いったいどんな人がどんな目的で見に来てくれているのだろうか、さっぱり見当がつかないが、大島の日記を見てくれていることは確かなことなので、続けてやって行きたいと思っている。
2004年07月02日
パソコンが動かない、変ったことをした訳ではなかったが、動かないというより動かせなかった。もともと機械オンチなので何をどうしたら良いのかさっぱり判らず、援軍が立寄るまで待って一日が過ぎてしまった。ホームページを作りたくてはじめたので基本的なこと以外はさっぱりわからないが、それでも少しでも見やすいものにしたくて今リニューアルに取りかかっている。
2004年06月22日