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カテゴリ:読書日記
![]() 当時、白洲正子の取り上げる事物に興味はあったものの、白洲正子本人については、その出自から「普通の人が望めない、良いものに触れる環境にいたから、ああいう場所に行けて、ああいう本を書けた」と思っていました。白洲正子に特別の才があったのではなく、今なら普通の人たちも同じようなものが書ける!と。ちょっと僻んでちょっと生意気だった私(恥)。 それで、何冊か白洲正子の本を所有しているものの、あまりちゃんと読んでなかったのです。 でも、「かくれ里」などを読むと、文章は素直で読みやすいし、周辺に良いアドバイザーがふんだんにいたことや恵まれた環境にいたことがあっても、やっぱりその興味のおもむく対象に物おじせずに向かっていく姿は余人をもって代えがたい存在なのかも、と思わせられます。そして、彼女が訪れた「かくれ里」=秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋から離れたところにある「真空地帯」=は、多分時間と共に当時とは変わってしまったところが多いのではないか、と思われるので、すごい貴重な記録を後世の私たちに残してくれた・・・と、その功績の大きさも今となっては分かります。 「かくれ里」は、京都の博物館で見た美しい面に惹かれて、甲賀の油日神社を訪れ、その近くということで櫟野寺にも行く話から始まります。 櫟野寺の様子はこういう風に書かれています。 =寺伝によると、延暦11年(792)、伝教大師が延暦寺の用材を求めて、甲賀地方を廻っていた時、この地で櫟(イチイ)の大木を発見し、霊夢を受けて十一面観音を生木に彫ったのが、この寺の始まりであるという。それが本尊ということらしいが、秘仏なので拝観することはできない。が、大そう大きな仏像で、3,3メートルの座像であるというから、十一面観音としては珍しいものだろう。その巨大な厨子を中心に、二十体以上の藤原期の仏像が林立している様は、場所が場所だけに壮観である。 丈六の薬師仏もあり、愛らしい菩薩の群れも並んでいる。この辺は今でも樹木が多く、うっそうとした感じの所だが、櫟野の名が示すとおり、かっては櫟の原始林におおわれた秘境であった。大仏建立の折も、叡山創立の際にも、用材は伊賀・甲賀の地域に求められたのである。= ☆ここで白洲正子は、立ち木に仏を彫るという立木観音が多いことに触れる。神木の大木を寺院の為に伐るのは民衆に受け入れがたく、都から来た僧侶たちは最新技術で美しい仏の姿を立ち木に彫り、神仏の合体を試みた・・・良い材木を手に入れるための方便として。 疑いの目で見ていた村人たちは、ある日、忽然と、新しい神が神木の中から現れるのを見て、納得して帰依した。立ち木観音の信仰は、神仏混淆のもっとも純粋な形ではないかと白洲正子は思う。 坂上の田村麻呂の彫ったという毘沙門天もあり、田村麻呂は延暦11年3月「木工頭」に任ぜられ、平安京のための用材を求めてこの地を訪れ、櫟野寺を後援したらしい。この寺で伝教大師と出会っていたことも推察できる。 田村麻呂は帰化人の子孫であったことも書かれていました。ヘイトスピーチの人に教えてやりたいですね。日本人のほとんどが帰化人の子孫だってこと!♪ 白洲正子は「朽木膳」「朽木椀」を日常使いしていて、そこから「木地師の村」を訪ねた1章もあります。長くなるので、これは次回♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.10.05 19:14:34
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