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カテゴリ:読書日記
さて、昨日読んだ白洲正子の「かくれ里」に、「木地師の村」という章がありました。 白洲家ではふだん使いに江戸期の「朽木盆」「朽木椀」というものを愛用していたそうです。材料は橡か欅の木で、黒と朱の漆塗り。近江の朽ち木谷には木工を専門とする集団がいて、こういう食器を大量に生産していたそうです。 彼らは木地師、木地屋、ろくろ師、こま屋などと呼ばれ良い材料を求めて諸国を旅する流浪の民だった。日本全国に分布していたが、彼等の本拠地は近江の愛知県小椋谷にあった。 小椋谷には、神社の「氏子狩帖」というものがあって、徳川初期から明治までの木地屋の戸籍があり、彼等はそれをもとに全国の仲間と絶えず連絡をとっていた。 興味深い歴史ですね。白洲正子も毎日使っている食器から情が移り、人も通わぬ彼らの村に思いを馳せる。それに拍車をかけたのは、釈超空の「木地屋の家」の歌だったという。 *高く来て 音なき霧のうごき見つ 木むらにひびく われのしはぶき *山々をわたりて、人は老いにけり。山の さびしさを われに聞かせつ *山びとは、轆轤ひきつつあやしまず。 わがつく息の 大きと息を *木ぼっこの目鼻を見れば、けうとさよ すべなき時に わが笑ひたり 大正11年に超空折口信夫が、近江の小椋谷を訪ねた時の連作。 「木ぼっこ」はこけしのことで、木の子供ということ。 白洲正子は小椋谷の能面や惟喬親王の伝説に惹かれて小椋谷を訪れる。渓谷に沿って狭い山道を登ると、山中の至るところに小さな庚申塚や石塔があり、「人も馬も道行き疲れ死ににけり」という超空の絶唱が身に染みる白洲正子だった。 このあたりの木地師の集落は「六ケ畑」といい。畑という地名がついている。黄和田という地名もある。文徳天皇の第一皇子、惟喬親王が弟(清和天皇)に先を越され世の無常を感じてこの地に籠り、人々にろくろの技術を教えたという。 惟喬親王にまつわる無数の伝説がこの地に残る。畑というのは、山を切り開いて作った農地と、「端」他の(山人と里人との)部落との境界、という意味もありそう。 突然ですが、千葉の君津市の山奥に「黄和田畑」という場所があり、なんとか天皇の皇子の伝説が残っているのですが、この白洲正子の「木地師の村」と、遠く離れているのに、なんと似ていることよ、とびっくりしました。 黄和田畑の奥には「四方木」という集落があり、渓流に沿って登っていく、文字通り四方が木に囲まれた山奥なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.10.07 09:57:16
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