地球人スピリット・ジャーナル1.0

地球人スピリット・ジャーナル1.0

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環境心理学

2008.10.23
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テーマ:心の病(7589)
カテゴリ:環境心理学


「仏教が好き!」
河合隼雄 /中沢新一 2003/08  朝日新聞出版  単行本  261p  文庫本化2008/06
Vol.2 No.343 ★★★★☆

 「がんばれ!」と言われてみたり、「くたばれ!」と言われたり、仏教もなかなか忙しい。今度は、「好き!」と来た。もっとも、河合隼雄 /中沢新一、という当代でも相当に口の悪そうな二人に「好き!」と言い寄られても、そのまま言葉通りに受け取ってはならない。この二人の対談は、「ブッダの夢」というものがあるが、今回もまた「週刊朝日別冊小説トリッパー」に連載(2001冬~2003春)されたものの合本=単行本化である。

中沢--- (中略)ナーガールジュナもインド人の全哲学者を向こうに回して闘った人なんですよ。それで「ナーガールジュナ」と聞いただけでも怒り出すような人もいて、どうもその弟子のアーリヤデーヴァは暗殺されたみたいです。
河合---あなたも気をつけたほうがいいな(笑)。
中沢---そうですね。論争相手が何か言うと、ナーガールジュナは即座に相手のテーゼを「否定」してしまう。そうすると相手は怒り出すでしょう。ナーガールジュナという人を見ていて危険だなあって思うのは、そこのところなんですね。
河合----「ナカザワルジュナ」とか言って(笑)。
中沢---それそれ。初めてチベット人に会ったとき、「名前は何だ」って聞かれたから、「ナカザワ」って言ったら、「おーッ、ナガルジュナ?」って、そこで「ナガレジュナ」「ナガルジュナ」ってすごくえらい人になっちゃったんですね(笑)。
p143

 最初の掴みでうまく掴まれれば、中沢ワールドもそうとうに面白いが、そこがはずれると、つっこみどころ満載の隙だらけの世界が現出してしまう。まともな批判にも真正面から答えようとはしない人だが、それでもやっぱり面白いことは面白い。

中沢---(中略)あらゆるものを「否定」していく精神の運動と、それから親鸞のような大肯定の精神は背中合わせです。何しろ「大日経」では、大日如来ご自身がしゃべり出すわけですから。
河合---「華厳経」ではしゃべらないですもんね。あれは感動したなぁ。徹頭徹尾、最後までしゃべらへん。
中沢---あれはむしろヴィトゲンシュタインですよね。 
p165

 当ブログにおけるこの「環境心理学」カテゴリは、この書き込みをもって108に達する。もともとは環境心理学シンポジウムの後追いのつもりで作ったカテゴリであったが、はやばやと失速した。そのあと、ほかのカテゴリに収まりきれない書き込みの逃げ場となっていて、最近はチベット密教のやや外向きエネルギーの受け皿となってきたが、今回、この書き込みを持って終了とする。

 最後の一冊となることは、この本にとってもふさわしいところがあるのではないか。ここで語られているウィトゲンシュタインや大日如来については、次なる「インテグラル」「アバター多火手」でつないでいくことにする。

河合---マトリックスはまさに曼荼羅です。「腿蔵界曼荼羅」、英語にしたら「マトリックス」。
中沢---数を縦横に並べたあれを、数学者がどうして「マトリックス」と命名したのか、不思議でなりません。
p228

 この辺のテーマは、後段にゆずる。

河合---曼荼羅に胎蔵界と金剛界があるでしょう。あれはどう考えたらいいですか。
中沢---日本でだけ、それが問題になるという性質の話なんです。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅は、もともとのインドでは出身が違うもので、インド人はそれをセットにして考えるということをしませんでしたから。それぞれの系統の曼荼羅を考えだしたグループも違うし、時代的にも、場所的にも、文化伝統も違うところでつくられたものです。ところがこれを中国で不空や恵果が同時代に同じ場所でセットで学習するようにして、そしてそれを継いだ空海が「胎蔵・金剛」というふうに思想として統一的に組織したんです。これはすごい発想なんですよ。
p236

 すこしづつこれらのテーマにつないでいく準備をしているところ。

河合---そのように考えると空海は偉大ですね。
中沢---胎蔵界は、字を見てもわかるように、女性の子宮でしょう。金剛界は、不動で変化しないものというわけですから、外の世界の変化とか不安定な生命現象とかから比較的自由になった、脳のなかの活動のことをさしているのだと思います。脳がおこなう形而上学への傾向を、そう言っているわけですし、金剛のように堅いものといったら、柔らかなヴァギナに対して男性のペニスのことも意味します。ですから、空海は胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅をセットにすることで、男性と女性をめぐる土着的な二元論を、とてもダイナミックなかたちにつくり変えようとしたと言えます。
p237

 この辺、日本人としてなら理解しやすいが、チベット密教を学んでいくなかでは、かなり注意を要するところ。

河合---ノーベル賞に対抗して「空海賞」か何かをつくらないといけない。
中沢---おっ、いいアイディアですね、長官。
河合---「何をくれる」と聞かれたら「中空の」・・・・(笑)。
中沢---煙がでてくるだけですかあ(笑)。
河合---それで「食うかい?」とか言って(笑)。
中沢---出た(笑)。 
p245

 河合隼雄は小泉政権のもと、2002年1月より5年間に渡って、文化庁長官を務め、2007/07に亡くなった。享年79歳。合掌。







Last updated  2008.10.23 18:38:34
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カテゴリ:環境心理学


「男一代菩薩道」インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺
小林三旅 2008/01  アスペクト  単行本   291p 
Vol.2 No.342 ★★★★★

 当ブログの初期的新書、胎蔵界マンダラに置いて、その中心に座したのが「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」にふれていた、ツルティム・ケサンと正木晃の「チベット密教」だったとすれば、金剛界マンダラの中心に座ったのは、アンべードカルのブッダとそのダンマ」「アンベードカルの生涯」ではなかっただろうか。それだけ魅力にあふれた新書たちであった。

 この本もまた、一度開いたら閉じることができずに一気に読んでしまうような内容だ。本のタイトルには「佐々井秀嶺」の文字が大きく書いてあったので、本人が書いたものかと思ったが、実は、彼をテーマとしてドキュメンタリー番組を作った独立プロ系列のディレクターの、その取材ストーリーを一冊にしたものだった。

 「男一代菩薩道」というテレビ番組を私もみた記憶がある。初回放送は2004年の12月28日、深夜の3時10分だった。そしてその後、何度も再放送されている。

 「ちょうど夜中の2時頃だったと思います。突然、何かでガーンと頭を叩かれた。すると私の後ろに額をピカピカに光らせた鋭い眼光の老人が、目をカッと見開いて立っておったんですわ。白髪が肩まで流れていて、眉毛も真っ白、口ひげも足の方までザーッと流れている。右手には剣とも杖ともおぼつかない持って、それで私の肩をパッと押さえつけているんです。そして左手には巻物を持っていました。
 私は恐怖で身動きがとれず、汗が流れ出た。私は『あなたは誰ですか!』と叫んだけど声が出ない。心の中でさけんでおった。そこではっきりと、その老人は日本語で、日本語でですよ、こう言ったんです。
『われは竜樹なり。汝すみやかに南天竜宮城にゆけ。南天竜宮城はわが法城なり。わが法城は汝が法城。汝が法城はわが法城なり。南天鉄塔もまたそこにあらんか』
 私は恐ろしくて上の空のように聞いておった。心の中で『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・』と唱えると、体がすっと軽くなって、老人が消えた」
p115

 本書の最も劇的な場面であり、佐々井秀嶺上人、波乱の人生の中においても、もっとも転換点となった出来事であろう。1968年8月8日、上人33歳の時とされる。このエピソードを語る場面はかのテレビ番組においても、きわめて印象的に映し取られていた。

 さてその南天竜宮城たるナグプールにおける竜樹ゆかりの寺院を発掘するにいたり、アンベートカルの後継者たる佐々井秀嶺の人生は固まった。

 さて、男一代菩薩道=佐々井秀嶺は、波乱の人生を送ってきているので、突っ込みどころがたくさんあり、どこからでも突っ込みどころがある。だが、その突っ込みは、彼の行動や人生を超えた形で、こちら側の生きざまとしてしか存在しえないだろう。彼の人生を考えることは、即自分の人生を考えることにつながる。

 しかしまた、冷静に考えれば、いろいろな問題点を克服しないことには、この新仏教徒運動も未来の地球人スピリットにつながっていかないことも確かだ。Oshoは1988年の段階でこのような発言をしている。

 アンベドカル博士は、自分の影響下にあるこれらの人々を、まずキリスト教に改宗させようとした。だが考え直した。キリスト教に改宗したら、人々はキリスト教会に吸収されてしまい、自分は指導者の地位を失ってしまう。そこで考えを改めた。彼にとっては、イエスやキリスト教などどうでもいい。一番大事だったのは、自分の影響力を保つことだった。
 彼はイスラム教への改宗も考えたが、状況は同じだった。やはり影響力がなくなってしまう。そこで目をつけたのが、インドには仏教徒がいないということだ。だから仏教に改宗させれば自分の影響力も保てる。つまりこれはまったく政治的な改宗だった。
 このように政治的に改宗させられた愚者たち、悟りについて何も知らない者たちが、今私を批判する。
Osho
ノーマインド 永遠の花々」p277

 私はこの辺の経緯について整理する立場にない。ことの経緯、ことの善悪を判断することは不可能だ。しかし、この段にあたって、竜樹=ナーガルジュナが登場することには感動せざるを得ない。チベット密教におけるナーガルジュナの影響も計り知れない。

 ゲルク派の宗祖であり、ブッダ以来、2500年におよぶ仏教の歴史における最後の巨人であったツォンカパ(1357~1419)は、「秘密集会タントラ」が究極の仏教なのだと主張した。特に、ナーガルジュナ(龍樹)とアーリヤデーヴァ(聖天)という二人の人物がこのタントラにほどこした解釈と、そこからみちびきだされた実践法こそ、悟りへの最も優れた修行法であるとみなした。これを「聖者流(聖父子流)」という。「増補チベット密教」p114

 佐々井秀嶺本人が、自分自身の少年期から青年期までにおこった語りきれないほどのさまざまな出来事を「めちゃくちゃ」であった、と表現している(p157)。

 ------ほかにもいろいろご苦労されたと聞いていますが・・・・・・。
佐々井 女の話ですか(笑)。坊さんになったら、きっぱりかと言えば、きっぱりじゃないですよ。いやいや皆さん笑うけれど、色情因縁っていうのは大変なものなんだから。もう女をみれば、みんな好きになっちゃうんだからね。そういうことはあまり言いたくないし、言ってもつまらんことだから言わんけど。ハハハ。今でも苦しいですよ。
p261

 ここで上人は、色情因縁と言ってしまっているが、この辺にまた、タントラ密教へとつながる因と果があるはずだ。

 佐々井さんは突然、歌をそらんじはじめた。伝記映画「力道山物語・怒涛の男」(1955年、日活)、美空ひばりが歌った主題歌だ。p282

 いやはや、ここで力道山がでてくるとは思わなかった。私もこの前「力道山と日本人」をよみながら、Youtubeの「力道山物語、怒涛の男」を見ていたのだった。

男一途にやるぞと決めて 切った意気地の
もとどりを 何が涙で 汚してなろか これが男の 生きる道
義理にゃ負けても 無法にゃ負けぬ 若い生命の 血のあつさ
捨てたこの世にゃ 未練はないさ なまじからむな 夜の風
雨も嵐も 笑顔でうけて 起たにゃ男の名がすたる
やるといったら 生命のかぎり 行くぞ怒涛の 人生を
  p282

 佐々井秀嶺を扱った本には、山際素男著「破天 一億の魂を掴んだ男」(南風社2000)などがある。

 

南無







Last updated  2008.10.23 11:40:34
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2008.10.22
カテゴリ:環境心理学


21世紀のブディストマガジン「ジッポウ」(6)平和なれチベット
ダイヤモンド社 /仏教総合研究所 2008/06 単行本 140p
Vol.2 No.341 ★★★★☆

 へぇ、いつの間に、こんな本が創刊していたのだろう。って、ホームページをみたら去年の4月でした。版元がダイヤモンド社、というのがなんだか不思議。

 「ジッポウは、十方。東西南北に四隅と上下を加えた全方位をあらわします。生きとし生けるものをあまねく照らす仏の智慧と慈悲のように、いま、仏教を生きるすべての縁ある人々を、ジッポウは応援しています。」

 だとか。このタイトルで検索したら、オイル・ライターの情報がいっぱいでてきた(笑)。

 第6号は本年6月20日発行だから、話題は当然のごとくチベット。中沢新一ロバート・サーマンがインタビューを受けている。中沢は、日本人のためのチベット経典はほとんど翻訳されつくしていると述べているのに、サーマンは、詩や解説書などまだまだ翻訳されていない貴重なチベット経典がやまほどある、と述べているのが対称的。

 チベット問題は、一筋縄ではいかないが、あわてずに関心を持ちつづけることが唯一の解決法、という声があちこちから湧きあがっている。当ブログもその点は同感。







Last updated  2008.10.22 23:08:04
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カテゴリ:環境心理学


「聖ツォンカパ伝」 <1>
石浜裕美子 /福田洋一 2008/02 大東出版社 単行本 299p

Vol.2 No.338 ★★☆☆☆

 大学図書館の図書館蔵書リストの中にこの本を見つけたので、さっそく出かけて行った。ツォンカパはどうも私向きではないようだし、私のようなトンチン漢にはなかなか手ごわい存在であるようだ。だが、その教義書はともかくとして、伝記からでも入れば、いくらかはこのチベット密教界の最高峰と言われる聖哲に迫れるのではないか、という期待があった。

 しかし、通常、この手の書物はほとんど他に借りる人がなく、いつもキチンと存在しているはずなのだが、この本だけは貸出の記録がないのに、書棚にもなかった。ひょっとするとバックヤードの書庫にあるのかと調べてもらったのだが、なかった。今年の2月にでたばかりの本なので、誰か他の人が閲覧しているのかもしれない。まぁ、本日のところあきらめた。

 そして、書店に行ったところ、思わぬコーナーにこの本を見つけて、立ち読み。かなり厚い本でもあるが、なかなか伝記とは言え、葉が立ちそうにない。むむむ、はっきり言って面倒くさそうな本。わぁ、どのようにしたら、ツォンカパを好きになれるのだろう・・・・。

<2>につづく







Last updated  2008.10.26 01:11:58
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カテゴリ:環境心理学


チベット密教の祖「パドマサンバヴァの生涯」
ウォルター・Y.エヴァンス・ヴェンツ /加藤千晶 2000/07 春秋社 単行本 197p 、原書The Tibetan Book of the Great Liberation 1954
Vol.2 No.337 ★★★★☆

 チベット密教の祖と言われ、ニンマ派の祖と言われるパドマサンバヴァ。その生涯は、神秘な神話に包まれているが、チベット人たちはグル・リンポチェと呼んで多いに親しんでいる。仏陀の予言通りに生まれたとも言われ、何百年も生きていたようにも表現される。今から1200年前に、インドに生まれ、チベットに渡って、チベット密教の基礎を作った。彼が創立したサムイェー寺は、マンダラ思想に基づいて設計されたとされる。

 マンダーラヴァーがパドマに家系や祖国に関することを尋ねると、パドマは答えた。
 「私には親はいない。私は空性の賜物である。私は観音菩薩と阿弥陀仏の本性そのものであり、ダナコーシャ湖の蓮華から生じた。そして本初仏の持金剛と、またブッダガヤーの釈尊と本質を同じくし、よって、これらの仏たちすべてから神秘の内に生じた蓮華である。私はすべての衆生を済度する。
p73

 この本、西欧に「チベットの死者の書」(バルド・ソドル)を紹介したエヴァンス・ヴェンツが1954年に書いた本の中から一部抜粋の形で翻訳されている。バルド・ソドル同様、この本についても様々な異論があるのかも知れないが、初学者には、ただただカタカナ人名の羅列をみていてもなかなか実態がつたわってこない。だが、このようにして、ひとりひとりについての伝記やエピソードを知ることができると、だんだんと親しみも湧き、チベット密教の立体感を味わうことができるようになる。

 極楽浄土へのは、観音菩薩や阿弥陀仏のために行った利他行のカルマの結果により行くことができる。観音菩薩は大慈悲の菩薩であって、衆生を解脱へと導くために、自身は涅槃に入ることを放棄しちる。また観音菩薩のマントラ(真言)である「オーム・マニ・パドメー・フーム」(オーム、蓮華の中の宝珠よ、フーム)を唱えることは、観音菩薩にじかに訴えかけることである。p179

 

 

オーム・ニ・パドメー・フーム







Last updated  2008.11.07 22:07:37
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2008.10.21
カテゴリ:環境心理学

「チベットの死者の書-サイケデリック・バージョン」
ティモシー リアリー / リチャード アルパート / ラルフ メツナー(著)、 菅 靖彦 (翻訳) 1994/04 八幡書店 原著 「The Psychedelic Experience: A Manual Based on the Tibetan Book of the Dead 」1964
Vol.2 No.336 ★★★☆☆

 

 「チベットの死者の書」と言っても、他の原典訳や、その宗派で伝統的に守られてきた経典と考えてはいけない。これはあくまでサイケデリック・バージョンだ。いや、直訳であれば、「チベット死者の書に基づくサイケデリック体験マニュアル」とでも翻訳されるべき本だ。あえて他の本との比較で、その最初をピックアップしてみると・・・。

おお(航海者の名前)よ
新しいレベルのリアリティを探究する時がきた
あなたの自我とそのゲームは終わろうとしている
あなたは光明(クリアーライト)に直面しようとしているのだ
光明を実際に体験しようとしているのだ
自我から自由になった状態では、万物が雲のない空虚な空に似る
そして焦点をもたない裸の知性は透明な真空に似ている
この瞬間、おのれ自身を知り、その状態にとどまれ 
 p145

 この本が日本に翻訳紹介されたのは1994年だが、もともとの英文の原著がアメリカで出たのが1964年。実に30年前のことであった。もっとも、このブログを書いている2008年から見れば、すでに半世紀近い時間のギャップが存在していることになる。

 リチャード・アルパート(のちのラム・ダス)と、ティモシー・リアリー、そしてラルフ・メツナーの三者による本書は、LSDが話題をさらっていた1960年代初頭に書かれたものであり、まだ非合法化されなかったかの薬物の効能と実験についての、積極的な提言であった、と、とらえることができる。

 ちなみに、ビートルズの「リボルバー」と呼ばれるアルバムの中に収録されている「トゥモロー・ネバー・ノウズ」という曲は、ジョン・レノンがLSDによってハイの境地に浸りながら本書を読んだときに沸き上がってきたインスピレーションから生まれたものだと言われている。p233

 たしかにビートルズにはそのように噂された曲は、いろいろあるが、[Revolver / Beatles」の中の「Tomorrow Never Knows」もその一つだ。このYouyubeのapple制作の動画を見ると、なんとなくそんな雰囲気を暗示しているような感じがしないでもない。もっとも、レノン自身は「回想するジョン・レノン」などを読む限り、必ずしも、そのように明言はしていない。

 60年代のアメリカ文化を理解するには、その「サイケデリック・シンドローム」を背景とした、ジミー・ヘンドリックスジャニス・ジョップリンなどの活躍などを念頭に置かなければならない。1973年に出た、おおえまさのり訳「チベットの死者の書」はこのような経緯を踏まえたうえで理解しないと、なぜここでこの書がでてきたのか、いまいち分からないことになる。そして、さらに、1989年になって、川崎信定がわざわざ「原典訳」と銘打って、この「チベットの死者の書」をチベット語から直接訳出したのも、そのような流れに抗する立場からであっただろうと、推測される。

 これらの「バルド・ソドル」ではないが、ゲルク派が独自に「チベット死者の書」(「クスムナムシャ」)を押し出してきたのも、「いいかげんな」チベット密教経典の解釈が横行することを懸念したからだったかもしれない。

 さて、サイケデリックな旅とチベット密教や瞑想とを類似なものと見るかどうかは難しいところだが、Oshoは1971年にすでに「LSD : A Shortcut to False Samadhi」 において、LSDは、悟りへの間違った近道、と厳しく糾弾している。当ブログもこの点において、師の教えに従うことをよしとする。

 さて、このサイケデリック・バージョンが、ニューエイジ系の翻訳者・菅靖彦を得て1994年に日本で出版されたというのは、象徴的であるように思う。出版元は八幡書房。当時売出し中の電脳サングラス「メガ・ブレイン」や、その効果音としてのCDの販売とのメディア・ミックスで、この本が売られたということは留意しておく必要がある。この本が出た当時の時代背景がわかる。その翌年に、あの忌々しい事件が発覚するのである。







Last updated  2008.10.21 22:25:01
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2008.10.20
2008.10.19
カテゴリ:環境心理学
<4>よりつづく


「裸形のチベット」 チベットの宗教・政治・外交の歴史<5>
正木晃 2008/07 サンガ 新書 279p

 いちばん最初にこの本を読んだのが、2008.08.22、巻末についていた「チベット<歴史>深読みリスト」の本をとりあえずひととおり追っかけてみたのが、2008.09.19まで。ほとんど一か月かかったことになる。その後、「再読モード」に入って、その第一段階がようやく終了したのが、本日。さらに一か月かかったことになる。

 今もういちどパラパラと目を通してみると、最初にこの本を手に取った時よりは、かなり読解力はついたと思うが、それでも、あれ、こんなところにこんなことが書いてある、と気がつくところがたくさんあった。それはどんな本を読んでもあることなのだが、この本はとくにそういう部分が多かった。

 その理由を考えてみると、1)とても興味深いことが書いてある。2)なかなか覚えきれないチベット語などが続出してくる。3)もともと込み入った内容が書いてある。4)新書一冊のなかにかなりの量の情報が入っている。5)読み手として、読解力がない。6)もともと一回では理解できるような内容ではない。7)もっと深く知りたいと思わせる誘導がされている。などなどの理由を挙げることができる。

 この本のなかでは、「ツォンカパの著書」を再読することはできなかった。読み手としてもう体力が残っていない。チベット密教を知るには、避けて通れない部分ではあるが、本当にこれ以上、自分はチベット密教を知りたいと思っているのだろうか。これ以上、知ることが必要なのだろうか。知るための方法は、本を追いかけることだけなのだろうか。などなど、疑問もいろいろ湧いてくる。

 今後は、まずは、この本は一旦終了して、「増補チベット密教」の巻末についている「より深く『チベット密教』を知るための読書案内」の中の「マンダラをさらに深く知るために」を読みすすめてみようと思う。チベット密教の中には、特徴的に発達したマンダラの世界がある。経典の文字だけを追うのではなく、マンダラに対する理解を進めることによって、また、また「裸形のチベット」に戻ってくることができるかもしれない。







Last updated  2008.10.19 18:50:19
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カテゴリ:環境心理学

ゲルク派をよく知るために <まとめ>


 

ゲルク派をよく知るために.jpg

  

 一般的な密教の入門書には、「ダライ・ラマの密教入門」があり、ゲルク派を率いるダライ・ラマ自身が、大乗仏教としてのチベット密教という点を強調する解説を書いている。「ゲルク派版 チベット死者の書」は、ニンマ派の「死者の書」に対抗して書かれたゲルク派の「死者の書」で、両者を比較すると、宗派のちがいが浮上してくる。
 本格的な修行法をぜひ知りたいというのであれば、「秘密集会タントラ聖者流」の生起次第をツォンカパが解説した「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」、おなじく究竟次第をガワン・パルデンが解説した「大秘密四タントラ概論」がある。
 世界の宗教者のなかでもっとも禁欲的かつ厳格な生活を保っているといわれるゲルク派僧侶の日常を知りたい方は、「チベットの僧院生活」をお読みいただきたい。
p273

 他の流れなら直観的に理解することができることも、ことゲルク派となると、なんとも難渋で理詰めで時間をかけて理解しなくてならないことが多そうだ。そこがまた、チベット密教の屋台骨を背負うことになった所以であるだろうし、ゲルク派のトップのみならず、チベット仏教界のトップとして、ダライラマがダライラマたりえている理由でもあるだろう。

 しかしながら、地球人スピリットをおっかける、おっとり刀の当ブログとしては、ゲルク派やツォンカパの事細かな脇道に入り込んでいくのは、ちょっと労多くして益少なし、という感がつよい。菩提心をおこし(これについては異論はない)、師につき(個人的には師はいるわけだけど)、潅頂を受け(いろいろなスタイルがあるが)、経典を学び(さまざまありまっせ)、修行を体験し(センスの問題がある)、時を待つ(何十年、時には何生も、何百生も・・・)、というスタイルが、はて、「現代人のための」道たりえるのかどうか、は現在のところ判断はつかない。

 なにはともあれ、「チベット<歴史>深読みリスト」で始まった当ブログの旅も、この辺でいちど、収束の方向へ向かうことにする。現在当ブログでは5つのカテゴリが走っており、ちかぢか2つのカテゴリが定量となる。そして残り3つのカテゴリが収束すると、ちょうど20のカテゴリが満杯になったことになる。そして、最後の21th カテゴリ」の108つのエントリーを持って、当ブログの当面のコンセプトの終了としたい。

 そのような枠組みの中で、確かにその重要性については異論がないものの、チベット密教やゲルク派、あるいはツォンカパを深追いすることは、当ブログにおける現在の最大課題とは言えない。現代のチベット密教を深追いすることで、どこかでOshoとのつながりを見つけようとしてきたが、あえて言うなら、Oshoにとってのタントラは、サラハであり、ナーガルジュナであり、アテーシャであり、ティロパからミラレパまである。ガンポパやツォンカパ以降の現代までにつづく流れは、必ずしもOshoタントラとの共通項を見つけるうえでは、避けて通れない、というほどのことはない。

 当ブログ全体として見た場合、他に、もう一度おさらいしておかなくてはならない流れもあるので、いわゆる「チベット密教」の流れからは次第次第に次のステップに移っていくことになるだろう。

 「ダライ・ラマの密教入門」
 日本において流通しているチベット本は、タイトルが乱立していて、私のような門外漢においては、その本の成り立ちや重要性は、なかなかつかめないところがある。この本もタイトルからすると、見過ごしてしまいがちになるが、実は、この本は、チベット密教の奥の院である「時輪(カーラチャクラ)タントラ」を解説しているきわめて貴重な本で、絶対に見逃すことはできない一冊だ。しかし、この本をどのように読めばいいのか、ということになると、私などには、ほぼお手上げということになる。

 「ゲルク派版 チベット死者の書」
 この本のタイトルも、必ずしも適切なタイトルとは言い難い。「チベット死者の書」というタイトルにしないで、もっと別な形で紹介されてもよかったのではないだろうか。ゲルク派がゲルク派たるゆえんは、それなりにあるわけなので、あえて「ゲルク派版」とつけることによって、インパクトを強めようとした意図は十分わかるのだが、なにかパンディッタたちが、すこし出過ぎているのではないか、という印象をもつ。

 「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」 
 この本をこそ読みたかったのだが、もともと稀少本の上、現在絶版なので、今回当ブログでは読めなかった。ただ、そのかなり正確なダイジェストと思われる「チベットの『死の修行』」は、そのイメージを補って余りある。むしろこちらの本でさえ、なかなか一読するだけでも大変だ。無上瑜伽タントラの最深部とされる経典であり、おっとり刀の当ブログのようなところで、生半可な書かれ方をするような本ではない。学ばれ方自体が研究されるべき一冊であろう。

 「大秘密四タントラ概論」 
 この本も読めなかった。本当に読もうと思えば、この本が存在している研究室までは突き止めたので、閲覧は可能である。しかし、上の「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」と対をなすと思われるこの本にも、まだまだ手が届かなくてもよい、という納得感がある。読むべき時期に読むべき形での出会いがあるだろう。代本として「増補 チベット密教」をあげておいた。

 「チベットの僧院生活」
 ヒマラヤに行かず、街にいること。瞑想を堅苦しい修行というセンスでうけとらず、瞑想をひとつのゲームのように受け取ること。いたずらに時間をかけることに苦心しないで、直観的に理解できるスタイルととること。教義や組織、時にはグルや師という形式に、依存度を高めすぎないで、自らの明かりを高く掲げてすすむこと。古き伝統やしきたりは、その本質を見失わない程度に、造り変えていくこと、などなど。私自身が、自らのマスターから受け取ったメッセージには、それなりの説得力がある。だから「チベットの僧院生活」にいたづらにあこがれる気分はまるでないが、それがどのようなものであったのかは、敬意を示しつつ学ぶことにも、多いに意義があるものと思われる。

 さて、このゲルク派をさらに深く知るには、一連の「ツォンカパの著作」にも深く学ぶ必要があるのだろうが、今回は、それらの書物が身近に存在し、必要とあらば、いつでもその給に付され得るということを確認したにとどめておく。







Last updated  2008.10.19 21:35:34
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2008.10.16
カテゴリ:環境心理学


「サキャ格言集」
サキャ・パンディタ /今枝由郎 岩波書店 文庫 210p
Vol.2 No.333 ★★★★☆

 定型的な四行詩だから、どことなくブッダの「ダンマパダ(法句経)」を連想する。しかし、どうしてどうして、書いてある内容は、かなり現実的な話が多く、いわゆる宗教ばなしからはかけ離れているような感じさえする。どうかすると、孔子やマキャベリさえタジタジとなるような寸言が集められている。この本、「ブータンに魅せられて」を書いた今枝由郎が翻訳している、というところが、どこかミスマッチで面白い。

功徳の蔵を持った賢者は
貴い格言を集める。
大海は川の蔵であり
川はすべてそこに流れる。
  p7

 700年前の、4500mを超える高原に花咲いたチベット文化に思いを寄せる。

貴人の功徳はたえず
賢者に賞賛される。
マレーの白檀の香りは
風で十方に広がる。  p21

 言葉の使い方、その語彙、誰に対して、何を言おうとしているのか、ひとつひとつ留意して聞いていく必要がある。

悪人は富んでも
行いが悪くなる。
滝の水をひっくり返しても
水は下に落ちるばかりだ。
   p33

 シンプルに、わかりやすく、ややもするとデフォルメされて、覚えやすい形に整えられている。

劣った者は財産があっても
落ちぶれた良家の者に威圧される。
飢えた虎の叫び声で
猿は木の頂きから落ちる。  
 p51

 チベットにおいては、猿は人間のご先祖さまだ。自然と共存する環境の中でこそ語りうる動物たちの営みもある。

ずるい人が耳あたりよく話すのは
自分のためであって敬意からではない。
フクロウが気持ちよく鳴くのは
悪い兆しをもたらす喜びからではない。
 p69

 どの社会においても、人間らしさには共通項があるものと見えて、他のどこかで聞いたことのあるようななつかしさを感じるときもある。

自ら長官になって
その役職を知る人は稀である。
他人を見る目はあっても
自分を見るには鏡が要る。
  p89

 もうこの辺は、地球上どこでも語られているような共通した現象だ。

傲慢な召し使い
きざな苦行者
法に従わない王
この三者は不応相である。  
 p115

 きざな苦行者、ですか・・・・・。たしかにそんな奴もいそうな感じがする。これはやっぱり不応相だ。

智恵のある者は小さなことでも
常に相談して行う。
うまくいけば何もいうことはなく
うまくいかなくても素晴らしい。 
 p135

 う~ん。

衆生の保護者仏がおわしますのに
他の師を敬うのは
八支川のほとりに
塩井を掘るのと同じだ。
   p175

 なんせ、日本でいえば鎌倉時代のことである。安易に現在のグローバル社会の寸法で推し量ってはなるまい。

 457編の格言が収められている。







Last updated  2008.10.16 21:19:48
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