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カテゴリ:環境心理学
![]() 「反密教学」 <1> 密教関連のリストをながめていると、チラチラとこの本のタイトルが気になる。反密教学。「反」の文字がなんとも輝いている。木田元の「反哲学」を連想する。1987年発行の本だけに、90年代以降の日本のチベット密教ブームとはやや異なる視点が新鮮。出版元のリブロポートはすでに倒産しているので絶版になっているが、古書は高値を呼んでいたという。その本が、この10月にも書き下ろし一編を加え、増補版として春秋社から再出版されることになったという。 この本、必ずしもチベット密教をメインに据えているわけではないが、インドや日本の密教など比較しながら、密教全体の構造を、独自の視点で解きほどこうとする。この本が再版されるということは、密教全体に対する一般の理解が進んだとともに、彼の視点の貴重さが認識され始まった、ということなのだろうか。 人間が三阿僧祇劫かけて成仏する過程は、自己に内在する菩提心(菩薩を求むる心)を修行によって質的に向上させ、やがて精神性としての究極的実在たる宇宙的な菩提心(菩提そのものとしての心)に帰入させようとするものであった。菩提心が古来、般若と方便の合一したものとされ、また般若は女性に、方便は男性に譬えられていた点に着目したタントリズムは、般若は女性の〇液、方便を男性の〇液に比定した。〇行為によって男女両性の〇液が合したものが菩提心に他ならない。それを菩提心の宇宙的運動対応過程にさせて構想した人体内の経路にそって、身体的工夫(即ち瑜伽)によって巡行させれば、個人存在を究極的実在と相似に運転し得たことになり、即身成仏は可能である筈である。これが彼らのタントラ的発想であった。p148(〇印の部分は楽天の倫理規定に抵触するので伏字となった) 密教は、すぐれた弟子の中から、師の認めたものだけが潅頂を受け、その奥義を授かるものとされているので、私のような門外漢が、断片的な教義をとらえて部分的にどうのこうのというのは、それこそ時間の無駄だが、どこまでが公開されていて、どこまでが師なしで理解できるものかを探検する作業は、危険をともなう領域はあるが、魅惑的冒険でもある。 筆者はここで、密教、「金剛頂経」以後の純然たる密教、と大乗仏教とを、稜線をはさんだ対蹠的なものとして位置づけたのであるが、ここで用語を多少変えてそれらを<ヨーガの宗教>と<利他行の宗教>と呼ぶことにしたい。p264 チベット密教関連本をおっかけていくと、実に煩雑な用語に辟易としてしまう。母タントラ、父タントラ、生起次第、究竟次第、密教、顕経、ゾクチェン、マハムドラー、その他、大きな区分けでさえ、便宜上で大きく右往左往しているように見える。ましてや、人名や地名をはじめとして、さまざまな修行方法や観想すべき神々の名前たちも、初心者のつけ刃的読解力ではどうにも太刀打ちできない密林のごとき状態となっている。 もっとも、そういう密教の歴史だったからこそ、その時代時代にガンポパやツォンカパのような大哲人たちが現れて、ひとつの体系にまとめてしまうのだが、その時に削られてしまったり、無視されてしまったりする系譜が発生してしまうことも事実のようである。 仮にチベットの一寒村において伝統として伝えられる系譜ような存在であったとすれば、その教義が独特の表現方法や修行法をかかえていたとしても、必ずしも障害となるものではない。しかし、当ブログにおいて、未来的世界宗教としての、地球人スピリットを探究するとするなら、やたらと煩雑な言いまわしなどは、その真意から外れないようにしながらも、もっとわかりやすい言葉やシンボルに置き換えられもいいのではないだろうか、と思う。 この「チベット深読みリスト」を一巡したら、もう一度わがマスターOshoの一連の言葉に立ち返ろうと思っているので、ちらちら併読しているのだが、例えば、Oshoはタントラとヨーガは、一種の対立概念として使っている。ところが、伝統的密教経典では、タントラヨーガとか瑜伽タントラとか、二つの言葉が一語として使われている部分がある。言葉とシンボルを、かなり無造作にメルティングして、そのカオスの中から、ダルマとしてのマンダラ図をつくりだそうとさえしているかに見える。 でも、今は、まだ細かい部分にまでこだわるべきではない。全体像をとらえた上で、しかも自分が抜け出るべき方向性が見えた時点で、自分なりに(あるいはより一般性をもった形で)この辺の言葉のABCを使い分ければよいだろう。 戒律が厳しいと言われるジャイナにも、ジャイナ・タントリズムというものがあったということであり、タントラはインドで仏教の後期密教仏教として誕生したのであり、また日本に伝わった密教も、チベットに伝承される教義と著しい違いがあったとしても、空海や大日経などを含めた形で、仏教全体としてとらえなおす必要がある。 この本の初版がでた1987年においては、まだまだチベット密教関連の書籍が出そろっておらず、著者の意欲的な試みのみが突出した形で現れているが、さまざまな形でチベット密教についての視点が形成されつつある今、新しい視点としての「反チベット密教学」というべきものも、丁寧に育てられていく必要があるのだろうと思う。
Last updated
2008.11.29 10:13:49
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