臨済録 <3>
<2>からつづく 「臨済録」 <3>Osho OshoがこのZenシリーズの中で、用いたジベリッシュやレットゴーの技法は、やがて、ノー・マインド瞑想となった。あるいは、連発されるジョークは、一冊の本となってまとめられている。この「臨済録」のなかでは、「No Mind瞑想」の部分も「TAKE IT REALLY SERIOUSLY」のジョークもカットされている。それだけに、臨済の不合理な面がより強調されている。 臨済が繰り出す「喝」は、もともと伝統的な禅の中にない私には、理解しがたい。いや、その理解しようとする行為自体が、臨済の「喝」を受けているのだろう。この本をどのように楽しむかは、ひとりひとりの嗜好と才能にかかっているのだろうが、日本語と英語をない交ぜにしながら進む私の読書では、臨済もRinzaiも、私の網の目をくぐり抜け、にわかごしらえの枠組みから、簡単にはみ出していく。 このシリーズの中で生まれたノー・マインド瞑想の前には、ミスティック・ローズ瞑想が作られたし、ノー・マインド瞑想の後には、ボーン・アゲイン瞑想や、ホワイトローブ・ブラザーズフット瞑想が残された。 OshoのZenシリーズ28冊の中の日本語訳は、残り「ノー・マインド」で全6冊。これを読み終わったあとは、残りのZenシリーズの英語版を読み進めるのもいいだろうし、あるいは、Osho・Zenタロットの中のZenを追っかけてもいいだろうし、さらには玉川信明のリストを追っかけてみることも興味深い。しかし、Oshoは、その思いこそ、お前が何にも読んでこなかったという証明になりかねない、と一撃をくだす。 彼は三年のあいだ師を見ていたが、欲望で一杯になっていたせいで、師の弓がまったく違うことを見抜けなかったのだ。価値は的にはない。価値は仕草のなかに、あなたの中にある。あなたはくつろいでいるだろうか? あなたは全一(トータル)だろうか? あなたの心(マインド)は完全に静かだろうか? 異なる態度・・・・なぜなら、弓そのものが重要なのではなく、瞑想が大切だからだ。そして瞑想の人は、的のことなど気にもかけずに、簡単に的に当ててしまう。力を抜き、静かで澄み切った無心の境地で。p241 日本語版にはない要素が英語版にある。ひとつは「ノー・マインド瞑想」、そして、「TAKE IT REALLY SERIOUSLY」なジョーク集。さらには、英語版の巻末には、書道の墨蹟群と、そして、ドラゴンの巨大な縫いぐるみ(まるで獅子舞のようだ)のスナップ画像がついている。。私はこのドラゴン獅子舞には、ちょっとした因縁を感じている。 最後に、英語版は、次の言葉で完結している。Come back,but come with the same serenity,silence, grace, beauty,and sit for a few momentsremembering the space you have been in,remembering the path, the golden path,that you have followed to reach your center.Remenber that at the centeronly witnessing is the truth.Everything dies, only witnessig remains.Witnessing is our eternity,but live it in your actions, in your words,in your responses, in your silences,in your songs, in your dances.We can create a world of great splendor,in spite of all the idiotswho are determined to destroy it.Okay, Maneesha? Yes, Beloved Master. 「Rinzai」p185<4>につづく