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2021.02.22 コメント(3)
全108件 (108件中 1-10件目) マーケットプレイス
カテゴリ:マーケットプレイス
この本で私が伝えたいこと、それは私たち一人ひとりは誰もがかけがえのない存在だということです。p9 という出だしはそれでかまわないが、 私はそうした硬直した左翼には、かなり前から見切りをつけてしまった人間です。p79 と、前言とまったく矛盾するボヤキ節が延々と続く。まるで左翼は「かけがえのない人間」ではないような「使い捨て」感覚。麻原集団にはあれほどの救いの手を伸ばすのに、左翼にはこの方、ことのほか手厳しいようだ。ご自身の体験のトラウマがなせるわざか。ダライラマとの対談が何度も引用されるが、その対談は何度も使いまわしできる便利なネタ箱にされているような感じだ。商売の道具にしている。
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2008.05.22 09:11:35
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2008.05.21
カテゴリ:マーケットプレイス
数すくない体験だが、Oshoの前に座って質問するチャンスが何度かあった。Oshoは私に尋ねた。「なんか質問あるかね?」 もちろん、ある。いっぱいある。 ああ、これじゃぁ、詐欺師じゃぁないか。まいった。この名うての詐欺師に私はまんまと引っ掛かってしまったのだった。 「生きる意味」など、本当はないのだ。それに答えはない。ただ生きるだけなのだ。意味を求めてはいけない。 上田紀行の「生きる意味」をぺらぺらとめくりながら、上田のいとこの春風亭小朝のことを思い出していた。最近はなにやら林家三平の娘と離婚したとかで話題になっているらしいが、彼の落語にはあまりくわしくない。しかし、上田が自己紹介するように、確かに風貌といい、語る口調といい、似通っているところはたしかにある。 はてさて、当ブログにおけるこの「マーケットプレイス」カテゴリもあと一個でおしまい、というところまで来てしまった。最初の意図とは別な方向にさまよい出でて、いつのまにかこのカテゴリは、他の並走するカテゴリにはまりきれないエントリーの避難所になってしまっていたようである。 まぁ、しかし、それがまた、娑婆世界の意味でもあるのだが。今後は、このカテゴリに避難するのではなく、既存のカテゴリに押し込めていこうと思う。あまりにカテゴリを乱立させるよりはそのほうがいいだろう。そして、いつかまた、意図が明確になってきたら、「マーケットプレイス2」に類するカテゴリを作ろう。 そういえば、本書でトーマス・フリードマンの「レクサスとオリーブの木」p62に触れていた。それに対する上田の記述はともかくとして、フリードマンは二度ピューリッツアー賞を受賞しているという。先日めくったジャレッド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」もまた同賞作品であるという。ノンフィクション物が当ブログには一番あっているようだが、すぐれたノンフィクションは読むのも大変なヘビーな作品が多い。読むのは疲れるが、いつかは、このピューリッツアー賞とやらのおっかけをしてみるのも面白いかな、と思った。
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2008.05.22 03:03:23
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カテゴリ:マーケットプレイス
最近は「仏教ルネッサンス塾」や「ボーイズ・ビー・アンビシャス」とか主宰だそうだが、実態がよくわからないのでなんともいえないが、なぜに「仏教」にこだわるかな。共著者の町田宗鳳といい、お二人とも、なんとも威勢はいいが、結局はお寺と大学に逃げ込んでいる姿が、どこかちぐはぐに見える。 私たちの社会は、『法華経』に出てくる理想の存在、地湧の菩薩のように、しっかりとした個我、個性から成り立つ共同体を構築しないといえないのです。p131 「生きる力」。どこぞの生命保険会社の商品にこのようなネーミングがあったように思うし、学習指導要領にもこのような文言が盛り込まれていたようにも思う。言葉は言葉としていいだろう。だが、どこか陳腐だ。本当に「生きる力」が湧くのだろうか。 最近は硫化水素ガスを発生させて自殺することが多発しているらしい。ごくごく最近、私のすまいから歩いてすぐのところでも、20過ぎの若者が、この方法で命を落とした。まったく他人ごとではない。
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2008.05.22 01:28:45
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カテゴリ:マーケットプレイス
「身軽にいきましょうや」・・・・・ うん、なるほど。そういうことだよね。まずはこの本からいこう。「中年からスピリチュアル・ライフ」。サブタイトルも、似合っているのか、冷やかされているのか。10の桁を四捨五入すれば、私もすでに100歳。中年というのもはばかられる齢となってしまったが、中年からのスピリチュアリティ、まぁまぁ、言い得て妙ではある。 この人の本、とくにここをこうと語るべきよりも、著者のキャラクターを好きになるかならないかで、評価はだいぶ違うのではないだろうか。少年時代から禅寺で暮らし、人生なかばの30代でアメリカにわたり、16年滞在したところで帰国した日本について語る。ともすれば、通常の「日本人」のスケールからはずれており、それが痛快に感じられる向きもあれば、ちょっと荒削りに感じる向きもあるはずだ。 要所要所にでてくる瞑想法や健康法、これら総体がSOHO禅とやらにつながっていくのだろう。とくに際立ったものを感じさせるわけではないが、アリハンタとボーディサットバのたとえ通り、どうやらこの方は、よそ様へのおせっかいを焼くのがお好きなようだ。 なにはともあれ、「身軽にいきましょうや」・・・・。このお言葉、いただいておきましょう。 ![]()
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2008.05.21 18:59:51
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2008.05.11
カテゴリ:マーケットプレイス
今回、Osho本を多数翻訳をしているモンジュ氏の推薦文を読み、再読してみることにした。著者については、「宗教と現代がわかる本(2008)」で一度触れている。著者の文章はたぶん、数ページのものでそれほどの長文ではなかったはずなのだが、ダライ・ラマについて触れており、Oshoのダライ・ラマについての進言を読んだ直後でもあり、当ブログとしてはすこしひねた感想をつけ加えていたようだ。著者はこの本でも短文だが、チベットやダライ・ラマに触れている。 ダライラマは今や世界の寵児となっているが、もともとチベット仏教には熾烈な宗派間の対立があった。中国がチベットに侵攻したのも、そのスキを突いたという一面もある。スリランカやミャンマーでも、仏教徒は武力抗争の前線に立ってきた。これらの事実からも、仏教を必ずしも「非暴力の宗教」とは呼び得ないことがわかる。p146 さて、今回、再び本書に目を通して第一の感想は、まぁ、よくここまで言ってくれているな、という、一種の快感がともなうものである。タイトルやサブタイトルも挑発的ではあるが、著者は決して、一神教がダメで、多神教がよい、と言っているわけでもない。「宗教」が終焉しなくてはならない、と言っているのだ。それを名づけて、「無神教」という。 文末にいたって、日本の天皇制などへの言及は、当ブログの態度とは異にするものだが、非和解的に対立するような内容ではない。ある意味、この立場でこのような意見を持つということのバランスのよさを感じるほどだ。最近はSOHO禅というオリジナルな瞑想を実践したりしているp262らしい。 このネーミングから見ても、この著者はなかなかの洒落者で、ウィットにとんだ文をよくする人物と見える。SOHOというのはSmall Office Home Officeの略だろうという先入観があり、コンパクトに自宅でできる瞑想かな、と思ってみたが、たぶんハズしていそうだ。つまりはこのネーミングは、町田宗鳳(まちだそうふう)という著者自身の名前に由来しているものだろう。つまりは宗鳳(そうほう)禅ということだろう。仔細については本書には掲載されていない。 はてさて、この本、当ブログとしてはおすすめ本の一冊だが、難がないわけでもない。Osho門弟としては、どうしてもひとつの基準をOshoにおいてしまう悪癖があるのだが、たとえば、Oshoの最後のZenシリーズと並べて読んだ場合、最後のNo-thingnessへの導入がないところが気になる。それはともかくとして、ここまで世界の魂へのマフィア達をあばきたてておきながら、いわゆる安手の「陰謀論」に陥っていないところは、見事といえる。まさにぎりぎりのところで踏みとどまっている感じがする。 逆にすぐれている点は、宗鳳氏はこの21世紀を生きている現代人、そして年齢的にも、まさに私たちと同時代であるということである。Oshoの門弟であることを自らのアイディンティティにしてしまって、しまいには免罪符にさえしかねない自らを省みた場合、この時代にこのようなはっきりした論旨で発言を続けることは見事であるといえるだろう。 この一冊をもってこの著者を一面的に評価するのはまだ早いようだ。類書が盛んに出版されているようだから、機会があれば、読みすすめてみたい。
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2008.05.11 10:03:22
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2008.05.07
カテゴリ:マーケットプレイス
![]() 「2012 地球大異変」科学が予言する文明の終焉 それも、スリ・カルキ・バガヴァンが数年前に登場し、彼の遁世僧院をこれまたマドラス/チェンナイ郊外に建てるまでだった。そこは実は、1991年にラジヴ・ガンディが贈り物を差しだされた場所からさほど離れていない。爆発のあと見つかったものは、彼のテニスシューズだけだった。 カルキ---彼はそう呼ばれるのを好んでいる---は、自らをヴィシュヌの10番目で最後の化身だと称し、黄金の時代は、多くの苦しみと動乱のあと、2012年に始まると宣言している。カルキはマヤの予言を信じており、宗教的支配層であるバラモンからは大いに不評を買っている。彼らは、この元保険会社員を詐欺師とする裁判を支持した。裁判はインド最高裁まで争われたが、カルキはひるまない。世界各地からの100万を超える信奉者---その多くは彼の急速に拡大する施設に詰め掛けている---の助けを借りて、彼と妻のアンマはゴールデンエイジ財団、ワンネス大学を経営し、ワンネス寺院を建設している。これはアジア最大の柱のない建物になると言われている。幅広い世界を対象とした彼のグローバル・ワンネス・ウェブはワールドワイドウェブのサイトのなかでも最大規模のものだ。 カルキは2012年に関する彼の予言を金星の通過と結びつけている。金星が太陽を通過するのは、つまり、地球から見て太陽面を横切るのは、一世紀に二度以下である。最後に通過したのは2004年6月8日の6時間ほどで、次にそうなるのは2012年6月6日だ。-----(後略) p305
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2008.05.07 21:37:09
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2008.04.22
カテゴリ:マーケットプレイス
ところがそのころ、なぜか、当ブログはGoogleには引っかからなくなった。検索方法もいろいろ変えてみたが、単体としてはGoogleから姿を消した。幸いに、リンクを張ってくれている人たちのページから逆リンクして戻ってくることはできたが、一瞬、ぎょっとした。 そのセンスで言えば、やはり、一休のセンスは、当ブログで扱うには、ちょっと突っ込みすぎ、のイメージがある。
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2008.04.22 09:15:11
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2008.04.21
カテゴリ:マーケットプレイス
<上>巻よりつづく 自賛 自戒 自戒 慙愧す、狂雲、名刹の前。 一夕一朝、日月の蝕 終分明白日晴天。 ただただ、積翠庵の黄竜慧南の禅に敬服する、 まだ名刹に囚われている自分を、朝夕に恥じる。 日蝕も月蝕も、やがては終り、 ついには晴天白日の空になることは明らかだが。p111 一休は、自らの出自もあって、天皇などには敬意を払っているが、一部の階層や職業には、差別的な用語も使っている。しかし、その旺盛な批判精神から考えれば、ひとつや二つの言葉使いを超えたところに一休は行ってしまっているかのようでもある。でも、やっぱりヘンな奴だなぁ。そうそう簡単にはTake It Easyとはいえない。 この本、2008年3月発行ということだから、一休関連では最新の本ということになろう。著者の石井恭二氏は1928年生まれの八十翁である。
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2008.04.21 23:28:32
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カテゴリ:マーケットプレイス
上下二巻の、上巻の三分の二ほどは「一休和尚の生涯」が、時に触れてしたためられた書画の中に残された詩歌によって構成されている。一句ぐらいは転記しようとも思うが、旧仮名遣いのうえに漢語の羅列。ワープロ文字では追いつかないほどで、さらにそこにルビを振り続けては、なんの詩歌かわかったものではない。この本の著者である石井恭二の読み下し文でようやく意味を追い続けることができる。 読み下し文だけおっかけていては、一休って野郎はあまりに下衆野郎でしかないが、たまにその詩文に目を移すと、これがなかなかいい。室町時代にあって、なおかつ皇族につらなる血筋のうわさもあるという。 一休は皇族の出自である。母方は南朝の藤原氏の貴族の血筋であるが、北朝の後小松天皇に仕え、側室として寵愛され身ごもったことから周囲に妬まれ、彼女は南朝方の刺客であり、天皇を殺そうと謀っていると讒言する者がいて、宮廷から追放され、身分を庶民に落とされた。そして、一休は生まれた。人々は、知らなかったが、一休には、自ずと貴人の相が具わっていた。p19 この上巻も後半になると、一休のブッダの部分が顕現してくる。 拈華微笑 達磨忌
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2008.04.21 23:30:28
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2008.04.16
カテゴリ:マーケットプレイス
しかし、今回の立花「読書」三部作(続刊中だろう)を読んでみて、これは気高く孤高を保とうとする人ではないのだな、と感じた。むしろ、このような批判や突っ込みを期待している向きさえ感じる。ただ、そうとうに練習量の多いボクサーを連想するような、気迫に圧倒されて、なかなか挑戦状を叩きつけようという猛者は現れないのかもしれない。 立花隆は、特別なジャンルをもたず、ありとあらゆるテーマについて突っ込んでいく。その手法は、とにかく書店まわりをして、ひとつのテーマを徹底的に読み込み、さらにはジャーナリストという立場を活用して、関係者への直接インタビューを試みる。そして、週刊誌や月刊誌などの一般大衆の目に触れやすい場にその成果を提供するスタイルだ。ちょっと見には、通常の人間にもできそうなスタイルだが、立花にして初めてできる力技であろう。 さて、この和田VS立花のノンタイトル・マッチはどんな結果であったのだろうか。立花が踏み入る多様さを反映して、この「挑戦本」が触れているジャンルは多岐にわたる。インターネット、人工知能、宇宙開発、環境ホルモンと遺伝子組み換え問題、などなど興味深そうだが、全部をおっかけるのは、私には無理だ。さらには「まだまだあるぞ、こんな間違い・あんなミス」p151と、挑戦者は追い討ちをかける。そして最後には「立花思想の本質的な欠陥は何に由来しているのか」p185と引導まで渡す。
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2011.01.30 20:15:40
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