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カテゴリ:マーケットプレイス
いくつかの廻り道をして、ようやくこの本にたどり着いたというべきか。解説本や、物語風伝記を何冊か読んだあとでは、かなりな先入観が出来上がっていたが、それでもなお、わずか100ページに満たないこの本を紐解いてみなければわからないこともあった。 インドのディアナが、中国で禅那になり、日本において禅になったことも、インドのチャイが、中国でテ(だったかな)になり、日本においてチャになったというこのも、すでに、Oshoの本、たとえば「草はひとりでに生える」などで知っていた。しかし、日本に来たことのないOshoが日本の禅や茶の文化にそれほど詳しいのは、きっと、天心(覚三)の本を読んでいたからではないか、とさえ思う。 禅はインドで生まれ、中国で育ち、そして日本で開花した。この道程全体がまったくめずらしい。 日本に禅を求めて行くものがあるとしたら、空っぽの手でまた戻って来るしかない。今では禅はここ(インド)にある。日本からは禅は消えてしまった。あの国は花を咲かせるのには役立ちはしたが、今では花たちは消え、土の上に散り落ちた。そこにはもう何も残っていない・・・・。Osho(同上)p30 人生七十 力囲希咄 吾が這の宝剣 祖仏共に殺す 秀吉に自害を命ぜられた利休の辞世のこの句を持って「茶の本」は終わっている。 「七十年も生きた もうどうということもない 汝、永遠の剣よ 私と共に、達磨も釈迦も貫くのだ」 ある人は、この句をそのように訳している。 ドラマはドラマとして、雑事、俗事もそのままとして、人生の真実とは何か、最後の最後まで、一期一会の人生だった利休。51年の天心の人生、そして58年のOshoの人生は、長かったのか短かったのか。それを問うのは、彼らに対してではなく、我が身、我が命に対してであるべきであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.17 00:56:14
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