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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2008.01.20
XML

<5>より続く
newage.jpg
「ニューエイジについてのキリスト教的考察」<6>

 て、大体の全体像がおぼろげながら見えてきたところで、第一章からすこしづつ再読してみる。個人の嗜好性によるところが多いので、つまみ食いのしかたがマチマチになってしまうことは承知の上だ。ただ、再度、明確にしておかなくてならないことは、私はキリスト者でもなければ、ニューエイジを自称する立場でもない、ということだ。あえていうなら、自らがプラットフォームとして使いたい、と思っているOshoについての再認識と検証につながるものがあれば、なお良いとは思う。しかし、飽くまでも個的な思索でしかない。

 ニューエイジは、現代文化(とくに西洋文化)に訪れた、この歴史の瞬間にもつ意味に関する多くの説明の一つです。同時に、ニューエイジのどこがキリスト教の教えと相反せず、どこが相反しているのかは、はっきりと分りづらいことです。そこで、今は、ニューエイジの考え方とニューエイジ運動全体をキリスト教的に評価するために適切な時期だと思われます。p12

 なにをもってニューエイジというかは、さて置こう。結果的に、この本が言わんとするところこそが、バチカンにとっての「ニューエイジ」なのであって、それ以上のものではない。むしろ「ニューエイジ」側にとってみても、これが「ニューエイジ」だ、と自己規定することはほとんど不可能だろう。

 本来であれば、キリスト者にとっても、これが「キリスト教」だ、なんていえるはずはないのだ。いかに地球最大の宗教団体とは言え、バチカンが「キリスト者」をすべて代表し、一口に「キリスト教的」などと表現など、できるわけはないのだ。それは、仏教的とか、イスラム的、とか、共産主義的、とか、どの団体も代表していえないのと、同じことだ。言ったとしても必ず、包括しきれない例外が出るということは、覚えておかなくてはならない。

 1970年代の代替的共同体の無秩序で混沌とした生活は、規律と構造への探求に取って代わられました。明らかにこうした規律と構造が、大流行のさまざまな「神秘主義」運動の中心的な要素となっています。ニューエイジが人々を引きつけたおもな理由は、ニューエイジが提供する多くのものが、既成の制度によって満たされないことが多かった渇きにこたえたことにあります。p13

 これはバチカンから見た世界であって、「ニューエイジ」が、「規制の制度によって満たされないもの」を次々と提供したのではない。「規制の制度によって満たされない」渇きにこたえた動きを、バチカンは「ニューエイジ」と名づけているにすぎない。だから、バチカンが認めるものは「キリスト教」的であり、認められないものには「ニューエイジ」というスティグマを貼り付けて、差別しようとしているだけなのである。

 ューエイジの大部分は現代文化への反動ですが、同時に多くの意味でニューエイジは現代文化の落とし子ともいえます。p13

 上記の推測から、この部分は、現代文化の落とし子でありながら、現代文明に反動的である動きを「ニューエイジ」と呼ぶことにします、と言っているにすぎない。地球最大のカルトであるバチカンは、この部分においては積極的な「現代文明」の主体者を自認しているようである。つまり、バチカンが生んでしまったようなものだが、バチカンに反対しているものを「ニューエイジ」と呼ぶ、と言っているにすぎない。つまり、いくら丁寧で慇懃な言い方に見えようとも、バチカンは、最初から「ケンカ口調」なのである。

 間性が崇拝されたために、宗教は内面化され、ついには自己の神聖性を賞賛する基盤を準備するまでになりました。だからニューエイジは、企業文化や「成功の福音」(略)が信じる諸価値や、消費文化が信じる諸価値の多くを共有するのです。p14

 たとえばOshoはその「十戒(笑)」のなかで、
1、内部から来るもの以外どんな命令にも従うべからず
2、唯一の神は生そのものである
3、真理は内にある、それを他のどこかに探すべからず
と書いている。
 バチカンにとっての「神」は人間の外にあるものであるし、その「神」とつながるには「聖職者」が必要である、とい論法になるのであろうか。もしそうだとしたら、こちらのOshoのほうもまた、かなりな「ケンカ口調」であることは間違いない。

 意すべき大切な点は、ある種のニューエイジの実践において、個人の成長を高めるために、神がないがしろにされるということである。p14

 注意すべき大切な点は、バチカンが言わんとしている「神」は、ユダヤの神でもなく、天照大神でもなければ、ヒンズーのブラフマンでもなければ、イスラムのアラーでもない。キリスト教における神、しかもバチカンが認めた神でなくてはならない。つまり、バチカン的神をないがしろにしている実践は、すべて「ニューエイジ」として切り捨てるぞ、と言っているようさえ読めるのである。

 ったいニューエイジとの関連において「スピリチュアリティ(霊性)」とは何を意味するのでしょうか。この問いに対する答えが、キリスト教伝統と、ニューエイジと呼ぶことのできる多くのものとの間のさまざまな違いのいくつかを解く鍵となります。p14

 ここにおいて、翻訳者である日本の「秘書室」とやらは、スピリチュアリティと霊性を訳し分けられないでいる。もともと一つのpiritualityなのだが、バチカン的な理解を「霊性」、「ニューエイジ」的なものを「スピリチュアリティ」としたい。当事者たちは躍起となっている。そんなに一生懸命になるのはなぜか。

 くの場合、ニューエイジは完全に運命論的です。一方、キリスト教は、自分の外、また自分の上を仰ぎ見るように招きます。それはわたしたちに愛の対話を生きるように呼びかける神の「新しい到来」への招きです。p15

 「多くの場合」+「完全に」とは、形容矛盾である。「多くの場合」とは100%ではないという意味だ。「完全に」とは100%という意味だ。つまり、ここでバチカンは、100%ではないけど、100%だ、と決め付けている。困ったもんだ。翻訳が悪いのか、原文がわるいのか。

 「キリスト教は、自分の外、また自分の上を仰ぎ見るように招きます。」 
さぁどうする。バチカンのいうところの「現代文化」においてさえ、この部分は、どう映るであろうか。よしあしはともかく、こう素直に「自分の外、また自分の上を仰ぎ見る」ことをできる人間とは、現代文化においてはいかなる存在であろうか。

 「ニューエイジ」に対置して、バチカンは「新しい到来」という言葉を用意した。これはヨハネ・パウロ二世の1986年(p143参照)言葉とされる。ここにおいては、後出しじゃんけんで、むしろ、バチカンは、ニューエイジという言葉を借りて、自らの古くからの「意図」を、「新しい」到来、という言葉に忍ばせただけなのではないか。本当に「新しい」のだろうか。

<7>につづく






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Last updated  2008.01.20 15:23:00
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