カテゴリ:【如水・壺公慷慨】
★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂★ ☆ 遠山の金さんが北町奉行に着任。刺青を入れた不良が町奉行になるのは前代未聞の快挙(1840年)。水野忠邦の抜擢によるのだが、海賊ドレークがエリザベス女王からナイトの爵位を受けるた(1581年)史実は凄い。☆ かたや、先月起きた婦女暴行殺人事件の容疑者として出っ歯の植木屋の親父が逮捕され、瞬く間にスケベの代名詞となった(1908年)史実などは・・・・・。 ☆ 全世界のパソコンばかりかITシステムの構築・果てはインターネットまで多大な影響を与える元凶が、大学をドロップアウトしたビル・ゲイツとポール・アレンの2人によって創立(1975年)。 【彷徨癖者/如水の愛犬 “ハクとココ”が悲嘆・感嘆 / 令和4年04月04日】 「最低」選手だった栗山英樹がなぜ世界一の監督になれたのか =後節= 『栗山魂』(栗山英樹著)、『スカウト物語』(片岡宏雄著)ほか = WEDGE REPORT 《スポーツ名著から読む現代史》 2023年3月29日 中島章隆 (元毎日新聞運動部長・論説委員)/ <23歳からのスイッチヒッター転向は、無謀なことなのかもしれない。逃げ出したくなるぐらいの練習が待っているだろうし、ひょっとしたらモノにならないかもしれない。でもな、と僕は思うのです。(略)僕がプロになることだって、普通に考えたら難しいことでした。(略)難しいことを難しいと言ったら、何もできない>(『栗山魂』111頁) そこから猛特訓が始まる。<とにかくバットを振って、振って、振りまくりました。手のひらにマメができ、マメが潰れて血だらけになっても、練習量を減らすことはできません。2年目のシーズンをスイッチヒッターとしてスタートするためには、左で打つ感覚を秋季キャンプでつかんでおくのは必須です。痛みでバットが握れなければ、バットと手をテーピングでぐるぐる巻きに固定して練習を続けました。ご飯を食べる時のハシも、左手で使うようにしました>(『栗山魂』112~113頁) 病魔との闘い 1軍と2軍の往復が続いた2年目の5月、原因不明の病魔が栗山を襲った。<その日はイースタンリーグのゲームがあり、ゲームは最終回を迎えていました。僕はセンターの守備位置につき、外野手同士のキャッチボールをしていると、いきなり目の前がグルグルと回り始めたのです。ボールが二重にも三重にも見えて、足元が左右にグラグラと揺れる。すぐに吐き気にも見舞われました。>(『栗山魂』115頁) 異変はその後も予告なしに栗山を襲った。最初は週に1度ほどだったが、やがて頻度が高まっていった。 シーズン終了後、大学病院を受診した。診断は「メニエール病」という、原因不明の病気だった。2度の長期入院を経て、症状は軽くなったものの7年間の現役期間中、メニエール病が完治することはなかった。 病気の不安と闘いながらではあったが、スイッチヒッターとして定着し、外野守備も俊足を生かして存在感を高めた栗山は、年ごとに1軍の出場機会を増やし、入団6年目の1989年には125試合に出場、犠打はチーム最多の37をマーク、初めてのゴールデングラブ賞を受賞した。 プロ野球選手として、これから絶頂期を迎えようとしていた7年目、またも不運が栗山を襲った。何かと栗山に目をかけてくれた関根潤三監督に代わり、野村克也氏が新監督に就任した。 野村は「アットホームでぬるま湯体質につかっていた」チームの体質を根底から変革するため、大幅なメンバーの入れ替えを図った。野村の目に、病気治療のため春季キャンプの参加が遅れた栗山は「旧体制」と映ったのか、急激に出場機会が減った。 名将・野村とは異なる考え方 栗山は、7年目のシーズン限りで引退を決断した。そのことは親しいトレーナーにしか伝えていなかった。 現役最後となった試合は10月10日の横浜大洋戦(横浜スタジアム)。九回1死後、監督から「次の打者の代打で行くぞ」と指示され、準備をしていたが、前の打者が内野ゴロ併殺打でゲームセット。栗山の「現役最後の打席」は消滅した。 野村監督と栗山の相性は良くなかったようだ。余談だが、野村は後に日本ハムの監督に就任した栗山について、著書でこんな酷評をしている。 <最近はどういう基準でプロ野球監督を選んでいるのだろうと首をかしげたくなることが多々ある。北海道日本ハムは昨年、評論家の栗山英樹を監督に迎えた。私は栗山の監督就任の話を聞いた時、正直言って「えっ、栗山で大丈夫か?」と思った。彼は監督どころかコーチの経験すらない><彼は尊敬する監督として、長嶋茂雄や戦後の知将、三原脩さんの名前を挙げていた。私の影響はないと言いたかったのだろう>(『監督の器』2013年イースト新書) では栗山は「監督」という仕事について、どう考えていたのだろうか。日本ハムの監督に就任して4年が過ぎた2015年に上梓した『未徹在』(KKベストセラーズ)の中で「「監督の役割」について考察している。 <監督は偉いという間違った認識と同様、もうひとつ誤解されていることがある。それは監督が指導者であるというものだ。大学以下の若い世代のアマチュア野球であれば、監督が指導者であるケースは多いと思う。だが、プロ野球は、そもそもアマチュアでやっていたトップレベルの選手たちが集まってくる世界であり、彼らを技術的に指導しようと思えば、もっとカテゴリーを細分化したエキスパートが求められる>と指摘したうえで、芸能プロダクションのマネジャーのように、個々の選手について「どのように努力させたら伸びるのか」「どのように起用したら輝くのか」を考えているという。(『未徹在』58頁) そのために必要なのは、選手を信じることだ。今回のWBCでも、不振に苦しんだ昨年の三冠王、村上宗隆を起用し続け、最後の最後に本来の力を発揮させた。マネジャーとして選手の力を信頼し、結果に結びつけた実例と言える。 成し遂げた「最高のチーム」づくり 「監督の仕事は選手を輝かせること」。栗山は2016年のシーズンで初めて日本シリーズを制し、日本一を達成した直後に出した『「最高のチーム」の作り方』(KKベストセラーズ)の中で、1章をもうけて監督と選手の付き合い方を書いている。 自他ともに「実力最低レベル」でプロの世界に飛び込んだ栗山監督。苦しい状況を、周囲に支えられながら克服し、多くのことを学んできたからこそ指導者としても選手を信頼し、成長させるすべを知っている、ということではないだろうか。 今回のWBCで「侍ジャパン」に招集した選手全員に栗山監督は自筆の手紙を手渡したと報道されている。選手を信頼し、ともに戦うことを手紙に託した栗山監督。テスト生からプロの階段、努力で監督にまで駆け上がり、著書の書名の通り、「最高のチーム」を作り上げた。 古都 老翁がいた。 翁は愛犬を愛で朝夕の散歩に伴う。 翁は大壺を持ち、夕刻 酒を片手に壺に躍り入る。 くぐもる声で語る傾国の世辞は反響し、翁の安息を妨げ、翁はなす術も無く自笑。 眠りに落ちた。 ---------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい-------------- ・・・・・
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023/04/04 05:30:07 AM
コメント(0) | コメントを書く |
|