カテゴリ:【如水・壺公慷慨】
★忘備忘却録/きょうの過去帳・狂★ ☆ オラガ大将の新居が完成するものの、僅か4ヶ月で昭和天皇に追い出される(1929年)。 ☆ 明治村が開村し、明治時代にタイムスリップが可能になる(1965年)。 &so、識者よ、視野を広く!!! この年に、ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオノフが宇宙船ヴォスホート2号から離れて、史上初の船外活動を行った。 ☆ 名古屋で勝手に帝王切開をされた妊婦が死亡、執刀医が失踪したまま事件は迷宮入りに(1988年=名古屋妊婦切り裂き殺人事件)。【彷徨癖者/如水の愛犬 “ハクとココ”が悲嘆・感嘆 / 令和5年03月18日 】 ロシア人はなぜプーチンを支持するのか? 元商社マンが見たプーチン誕生後のロシア社会見聞録(下) =前節= =Wedge_Online 【古希バックパッカー海外放浪記】 2024年3月17日 高野凌( 古希バックパッカー) =前節(上)=に続いてプーチンがなぜ多くのロシア国民から支持されているのか考えてみたい。 2002年10月、ロシア初のミュージカルという触れ込みの『ノルド・オスト』を鑑賞。当時モスクワ市内ではミュージカル『シカゴ』も上演されていたがロシア初に惹かれて『ノルド・オスト』に決めた次第。第二次大戦中の北極圏での飛行機冒険談というようなストーリーだった。 劇場は1000人近い観客で満席。欧米先進国に劣らない純ロシア国産本格的ミュージカルであるとして観客は大いに愛国心と栄光のソ連邦へのノスタルジアを掻き立てられたようだった。終演後のカーテンコールも万雷の拍手だった。 そのわずか1週間後の10月23日に『ノルド・オスト』上演中の劇場はチェチェン独立派武装勢力により占拠され900人以上が人質となった。最終的にはプーチンの決断により特殊部隊が強行突入して人質を解放。犯人42人は全員射殺されたが人質129人が犠牲になった。 その後2004年にも学校占拠事件が起こり銃撃戦で約400人(半数は子供)の人質が犠牲になった。度重なるチェチェン独立派のテロに対してぶれずに強硬策を継続したプーチン政権は最終的に治安を回復した。 事件当時プーチンの強硬策には賛否両論あったが、時の経過とともに治安を回復したプーチン政権の功績のみが一般ロシア国民の記憶に残った。家族がプーチン流強硬策の犠牲になった不幸な人々はロシア国民全体からみれば数字的には極めて少数だ。それゆえ泥沼のチェチェン紛争とテロ事件からの短期間での治安回復だけがプーチンの功績として広く記憶されているのだ。 米国映画のハリソン・フォードに嗚咽するモスクワっ子 2002年冬。新作米国映画『K19』の看板に惹かれて映画を見ることにした。モスクワ市内の映画館はほぼ満員で意外にも中高年の姿が目に付いた。 物語は1961年東西冷戦の最中、潜水艦からの弾道ミサイル発射実験をするためにソ連海軍の最新鋭原子力潜水艦K19が処女航海に出て原子炉事故を起こした実話であった。 ハリソン・フォードが艦長役の原潜はカナダ沖で原子炉事故を起こす。しかし艦長は機密漏洩を恐れて救援を求めず、自力で修理することを決断。修理チームの決死の作業で応急修理に成功したが、放射能被曝によりチームメンバーは次々と死亡した悲劇だ。 この決死隊の作業が始まるころから映画館内は異常な雰囲気に包まれ、あちらこちらですすり泣く声が聞こえ始めた。原子炉修理のクライマックスでは観客席から悲鳴や応援するような掛け声が相次いだ。 映画が終わってからもハンカチを握りしめて嗚咽している人々が残っていた。軍隊だけでなく役所や職場など様々な立場でソ連邦を支えてきたであろう中高年の人々の複雑で鬱屈した感情、ノスタルジックな愛国心を感じた。プーチンは巧みにこうしたロシア人の愛国心に訴えて求心力を保っているのだ。 クルーズ船の名前はソ連のスパイ『リヒャルト・ゾルゲ』 2003年初夏、週末のモスクワ川クルーズを楽しんだ。当時はプーチン大統領の剛腕により治安も回復し経済も漸く安定し始めた時期であった。モスクワ川のクルーズ船発着ターミナルには大小様々なクルーズ船がひしめいていた。 金曜夕刻出発して日曜日午後モスクワに戻る2泊3日のクルーズ。金曜日夕食から日曜日昼食までのフルコースの食事つきで二段ベッドの4人部屋でクルーズ代金が100ドル弱であった。これは外国人料金なのでロシア人客は半分以下であろう。 モスクワ川と運河や湖沼をつないでボルガ川支流に至るルートでありスズタリ、ウラジミールなど『金の環』と呼ばれる美しい古都に寄港する。ロシア正教をロシア国民統合に政治利用せんとするプーチン政権の支援で古都の由緒ある教会・聖堂・修道院は金ぴかに修復されていた。 クルーズ船は500トンくらいで上甲板デッキでは夕刻になるとバンド演奏に合わせてロシアンダンスが始まる。初夏の白夜の森林や湖沼を眺めているとウオッカの酔いも手伝ってロシアの大地に溶け込んだような夢心地となった。 至福のクルーズが終わって下船する時に、船長室の横に飾られている真新しい1メートル四方もある肖像写真に気付いた。横に掲示されているクルーズ船の命名の由来(ロシア語と英語の併記)を読んでビックリ。なんとクルーズ船の船名は『リヒャルト・ゾルゲ号』で立派な肖像写真はゾルゲであった。 ゾルゲはロシア系ドイツ人。1933年~1941年までドイツの新聞社の東京特派員という身分を使ってソ連共産党の司令の下で諜報活動をした伝説のスパイである。最後は特高警察に逮捕され処刑された。 ゾルゲが日本にはソ連侵攻の意図はないという情報をスターリンに送った結果、ソ連はシベリア・極東の師団を対独戦線に送って勝利することができた。ちなみにソ連邦時代から現在に至るまで駐日大使が東京に着任すると東京多磨霊園にあるゾルゲの墓に墓参するのが習わしとなっているという。 ・・・・・・・・明日に続く・・・・・ 古都 老翁がいた。 翁は愛犬を愛で朝夕の散歩に伴う。 翁は大壺を持ち、夕刻 酒を片手に壺に躍り入る。 くぐもる声で語る傾国の世辞は反響し、翁の安息を妨げ、翁はなす術も無く自笑。 眠りに落ちた。 ・・・・・・・・・・ ---------前日記載への閲覧は下記のURL -------------- ---------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい-------------- ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024/03/18 05:10:07 AM
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