ヴェネツィアと十字軍(その3)
さて、この時のヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロは、1107年生まれとあり、総督に選出された1192年に、すでに85歳。第四回十字軍の依頼があった1201年には、94歳ということになります。 この生まれ年が正確かどうかは、はっきりとは分りませんが、とにかく相当の高齢であり、なおかつ衰えを見せない判断力、決断力の持ち主であったことは間違いないようです。 この経験豊かな「老巨人」は、その大規模な十字軍側の計画を知り、輸送準備をするだけでなく、ここはひとつ自分たちも船と人を出して参加し、今後の交易にさらに有利になるよう開拓しようと、ヴェネツィア政府首脳とともに考えたのでしょう。 十字軍の依頼とは別に、ヴェネツィアの費用で、50隻のガレー船と人員を出すことを決めます。 そしてその十字軍の依頼とヴェネツィア政府の決定が、サンマルコ寺院に集まった一万人のヴェネツィア市民に承諾され、国を挙げての準備が始まりました。 一年後の1202年春、ヴェネツィアはすべての契約内容を果たし、たくさんの新しく作られた船が、出航を待っていました。しかし十字軍側といえば、集まるはずだった兵士の数も、お金もまったく足りていなかったのです。 85000マルクのうち34000マルクが未払いのままでした。このままではヴェネツィアの大幅な赤字になるため、船を出す訳にはいきません。十字軍側は資金集めに奔走しますが、やはり足りない。さて、どうするか。 総督エンリコ・ダンドロが、打開策としてある提案を十字軍側に持ちかけます。アドリア海南下の途中で、イストリア地方の街と、最近ハンガリー王国に占領されたザーラの街を取り戻すのを手伝ってくれたら、不足分は後で結構です、というものでした。 アドリア海に面したイストリア、ダルマツィア地方(現在のクロアチア沿岸部)の街は、ヴェネツィアにとって、商船の通行上譲れない重要なポイントのため、以前よりヴェネツィア共和国の支配下にあったのですが、時折反乱することがあったのです。 十字軍側は考慮の末、この提案を受け入れることにしました。ヴェネツィアに集合してから資金不足のため出発のめどが立たなかったのが、これでようやく動き出せるからです。 1202年10月、総督ダンドロをはじめ、多くのヴェネツィア人を含む十字軍は、二百隻以上からなる艦隊でヴェネツィアを出航します。「世界」「巡礼者」「天国」と名付けられた3隻の大きなガレー船は、長さ60メートル幅10メートルで、一列に25人ずつ左右各二列で計100人の漕ぎ手と、そびえ立つ3本のマストが見るものを圧倒しました。(その4に続く)