ヴェネツィアと十字軍(その7)
イタリア語の “bizantinismo” “bizantino” には、「ビザンティン様式」、「ビザンティンの」という第一の意味の他に、比喩的な使い方があります。 「結論を先送りして、のらりくらりする態度」「屁理屈好き」「人を欺くようなやり方」などです。言葉になるという事は、それがイタリア人の偽らざる感覚なのでしょう。 どの地域のイタリア人よりも、ビザンティン人と関係の深かったヴェネツィア人は、彼らの性質を熟知していたはずです。やはり彼らの経験に基づく危惧は的中します。 金角湾に泊まっているヴェネツィアの船に、火が付けられたのです。民衆の不満に迎合し、人気の回復を図ろうとしたアレクシウス4世が、十字軍を裏切ったためでした。 何とか火は消し止められ、被害は最小限ですみましたが、十字軍側からすると、これは事実上の宣戦布告に他なりません。帝国内の、ラテン人居住区も焼き払われ、もはや命を守るには戦う事しか残されていないようでした。 そんなビザンティン、十字軍双方ともに張りつめた状況の中、旧老皇帝と息子のアレクシウス4世が殺害されるという事件が起きたのです。権力の座を、これまた奪い取ろうとした、アレクシウス5世(4世の従兄弟)が謀ったことでした。 十字軍にとってこれでいよいよ、キリスト教国ビザンティン帝国襲撃の理由がそろいました。 1204年4月12日朝、コンスタンティノープルへの攻撃が開始されました。 初日こそ、それなりの抵抗を示したビザンティンの大軍隊でしたが、皇帝がくるくると変わる中、戦うモチベーションも指揮系統も失い、翌日の朝には、街の南部が十字軍により制圧されました。そこかしこで火の手が上がり、ビザンティンの住民が逃げ惑う中、コンスタンティノープルは十字軍の手に落ちたのでした。 そこで慣習により、十字軍兵士の三日間の略奪が行われました。緊張の後の勝者の興奮に、舞台は世界一の華やかな都。美しく貴重であればあるほど、彼らの征服欲と破壊欲を満たしたことでしょう。それが宝物であっても、宮中や貴族の女達であっても。 コンスタンティノープルの街は、目も当てられないほどに荒らされ損なわれました。 ヴェネツィアの男達がそれに加わらなかった、という証拠はありません。しかし彼らは、兵士というより商人であったので、貴重な写本やイコン、モザイク画、屏風などなどあらゆるものを持ち帰るのに夢中だったのです。 と言っても、後で転売して儲けようというよりも、ヴェネツィア人にとって、ビザンティン芸術は彼ら自身の誇りだったからです。古代ローマの栄華を継承する唯一の文明として、憧れと同時に彼らの「ルーツ」のようなものを感じていたのです。 この後、広大なビザンティン帝国の、領土の分割が行われます。(その8に続く Gustave Dore コンスタンティノープルの入場)