ヴェネツィアのパオロ・サルピ(その2)
『今までに出逢った、一番のエンサイクロペディアだ!!』と、交流のあったナポリの著名な物理学者ジャンバッティスタ・ポルタに評された、パオロ・サルピですが、彼の主な経歴(一部)をまとめてみます。〈1552年〉 8月14日、父で商人のフランチェスコ・サルピ、母のエリザベッタ・モレッリの間にヴェネツィアで生まれる。父は幼少の頃に死亡。〈1566年〉 11月24日、14歳で「マリアの下僕会」に入信し、僧衣を着る。そこで、哲学者、神学者、数学者として高名な修道士、ジャンマリア・カペッラに出会い科学の道へ誘われる。ギリシャ語、ヘブライ語から数学、化学などあらゆる学問を吸収。〈1567-1574年〉 弱冠15~18歳で、数々の哲学論文、神学、科学論文を、成熟した論文で支持、又は反論し注目を集める。彼の広大な知識だけでなく、厳格な品行と信仰心に惚れ込んだマントヴァ公に請われ、20~22歳頃まで、マントヴァ公国の神学アドヴァイザーを勤める。 サルピが14際の時に入信した「マリアの下僕会」は、「イエズス会」や「フランシスコ会」などと同様のカトリック修道会のひとつで、13世紀にフィレンツェで創設されました。 サルピの学問、とりわけ科学への入り口となった、ここの修道士ジャンマリア・カペッラは、ヴェネツィアの街で天才少年の噂を聞きつけて、「スカウト」したのでしょう。優秀な人材を確保することは、修道会の将来のためには不可欠であったからです。 そこで、それほど時間が経たないうちに、『「残念だが、君に教えることはもう何もない」と教授が言ったほど、このかぼそい少年は、凄まじい記憶力と深い思考力を兼ね備えていた』と、のちに弟子のミカンツィオが伝記の中で書いています。〈1575年〉 23歳。ミラノのカルロ・ボッローメオ大司教にも目をかけられ、ミラノ滞在を懇願される。が、しばらくして彼の所属する修道会上層部から、ヴェネツィアで哲学を教えるよう要請され、ヴェネツィアへ帰る。 〈1578年〉 26歳。神学の大学講師となる。同年5月15日、パドヴァ大学で神学の学位を取得。〈1579年〉 4月。わずか27歳で、所属する修道会のヴェネト支部長に選出される。 〈1582年〉 30歳。修道会の基本理念を見直す、法学者の一人に選ばれる。〈1585-1590年〉 33歳。6月8日、ボローニャで開かれた、修道会参事総会で、法律長官に任命される。このためローマに滞在し、修道会がかかわるあらゆる訴訟の弁護を担当。この時期、ローマの古文書館、図書館へ通い、古典教義や学説を研究する。 「マリアの下僕会」は当時、13の支部 (フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ヴェネツィア、パドヴァ、マントヴァ、ジェノヴァ、ナポリ、サルデーニャ、バルセロナ、マルセイユ、コルシカ、インスブルック)で構成されていました。 修道会という細かいヒエラルキー社会で、サルピのキャリアは、会社で例えると、400年近い伝統を持つ、海外にも支店のある会社で、27歳で取締役、30歳で常務、33歳で専務という昇進ぶりのようなものです。 推察される彼の人柄から、「人の上に立つこと」やりっぱな肩書き等に、興味はなかったと思われますが、明白に他とは抜きん出た能力をもってしては、好むと好まざるとにかかわらず、当然な経緯だったのしょう。(その3に続く。写真は、サルピの伝記の本)