ヴェネツィアの孤児院
ヴィヴァルディ(ヴェネツィア生まれ1678-1741)が、ヴァイオリンや作曲、合唱などを教えていたことで有名な、ピエタ教会付属の音楽院ですが、それより以前から教会付属の孤児院がありました。 その孤児院があった側には、写真のように、子供を置き去りにする人間を強く非難する内容の、大理石の掲示が、今でも残っています。 ここは、経済的な理由で、どうしても親元では育てられない子供のための慈善院でした。しかし、15世紀から16世紀にかけて、財力があるにもかかわらず、子供をここへ置き去りにする人々が急増しました。 赤ん坊が巻かれている上質の織物や入れられたカゴ等ですぐに分かったのです。 この時期は、ヴェネツィアが国として最も繁栄している時代と重なっています。貴族や財を成した商人たちが、愛人の間に出来た子供らを、ひそかにここへ連れて来ていたのです。 これに業を煮やしたヴェネツィア政府は、このような掲示をしました。 「嫡出であれ非嫡出であれ、十分に養育する財産、能力があるにもかかわらず、ここに子を置き去りにすることは、法王パウルス3世の教書にもあるように、許しがたく、破門に処され、必ず天罰がくだるものである。1548年11月12日」 ローマ法王庁とヴェネツィアは、決して良好とはいえない関係にあったし、この法王パウルス3世(1468-1549)も、反宗教改革に乗り出す等、ヴェネツィアの方向性とは違っていました。が、使えるものは何でも使うというか、あらゆる権威を駆使してでも、この裕福な家からの捨て子を減らしたいという、意志があったのでしょう。 当時はそれが普通とは言え、結婚が許されないカトリックの聖職者のトップでありながら、その法王パウルス3世自体、自分の孫たちとともに肖像画に収まっているし、その幼い孫たちにも、枢機卿というような高位を与え、同族主義との批判は免れません。だから、という訳ではありませんが、教書の「効き目」は、ほとんどなかったのではないかと思います。