「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ116
何故(なぜ)に、人間が存在其のものの発現であるものを思考するのか。寧ろ(むし)ろ、「無」にこそ「存在」の発現の素因があるのではないか。ハイデガーはこの問いと全生涯をかけて関わったが、如何(いか)なる解答も用意するはおろか解答への提案さえしていません。どのようにしたら解答に近付けるのかを示すための指針を示すこともなかった。何故なら、ハイデガーはスピノザの云う絶対者そのものの解答を究明するわけではなく、スピノザが自然である世界を根拠にして何故に人間が在るのかを実証主義的、客観主義的に答えようとしたのに対し、ハイデガーは存在其のものに答えを求めていたわけではなく、「存在の意味」を答えるべき問いと捉えていたためです。言い替えれば、ハイデガーは存在其のものに答えを求めていたわけではなく、人間が存在を思考する原理、即ち、「存在論」の根拠に解答を求めているのです。此のことが我々「存在と無」を読解するときには肝要となります。ハイデガーの著書「存在と無」の表題から著書を買い込んだ読者は煙に巻かれるのは此の事実があるからです。ハイデガーは「存在」と「存在論」の差異を「存在論的差異」と呼称しています。彼は後期思想にあっては、何故(なぜ)に、人間が存在其のものの発現を思考するのか。寧ろ(むし)ろ、「無」にこそ発現があるのではないか。」の問に関しては、普通の意味での解答は不可能であるけれども、この根本的な謎と向き合う「態度」は否定しません。寧ろ、其の態度を認容し、必要であるともしています。「神の見えざる手」の出番です。然し乍ら、ハイデガーはスピノザの云う絶対者ではなく、初期ギリシァのホメロス的発想の詩的神々若しくはギリシァ初期の唯物哲学に近いものに理想を求めています。
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