ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー
真相から見た宇宙の進化第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行-Ⅱベルリン 1911年11月14日 ある人が、内的・精神的な方法を通して、世界の中で何かを達成しようとしていると仮定してみましょう。その人は、まず自分の意志や望みを抑制することを学ばなければなりません。そして、物理的な世界の中では、よく食べ、栄養が行き届き、それによってよりエネルギッシュになると、より強くなるのに対して、精神的な世界の中で何か意義のあることを達成できるのは、断食を行い、意志や望みを抑制するための、あるいは諦めるための何かを行うときなのです。最も偉大で精神的な努力に向けた準備には必ず意志、望み、そして意志衝動を捨てることが含まれています。私たちは、意志することが少なければ少ないほど、人生が私たちの上に降りかかるのに任せる。あれこれのことを望むのではなく、むしろカルマが私たちの前にそれを投げかけるままにものごとを受け取るとますます言うことができるようになります。つまり、私たちは、カルマとその結果を受け入れることができればできるほど、つまり、私たちが人生において、そうでなければ達成したいと思ったはずのあらゆることを諦め、静かに振る舞えば振る舞うほど、ますます強くなるのです。このことが正しいのは、例えば、思考活動に関してです。憧(あこが)れに満たされ、とりわけ、良い食べ物や飲み物を好む教師や教育者の例では、その教師が生徒に向けて語る言葉はあまり多くのことを達成できない。それは生徒の一方の耳から入り、片方の耳からすぐに出ていくということが明らかになる。そのような教師は、それは生徒の責任だと信じるかも知れませんが、いつもそうであるとは限りません。人生におけるより高次の意味を理解し、慎みをもって生き、生命を維持するのに必要なだけ食べ、運命が与えることがらを意識的に受け入れるような教育者は自分の言葉が大きな力を有していることに徐々に気づくようになるでしょう。生徒にはそのような教師を一目見るだけでも大きな効果があります。実際、その教師が生徒を見る必要さえないでしょう。そのような教師は生徒の近くに居さえすればよく、勇気づけるような考えを持ちさえすればよいのです。その考えが言葉で表現される必要はありません、そんなことをしなくても生徒には伝わります。すべては、そうでなかったとしたら強く望まれるようなことがらに関して、人が行使する諦めと断念の程度にかかっているのです。諦めの道は精神的な活動における正しい方法であり、より高次の世界の中で精神的な結果へと導きます。この点に関して、私たちは多くの幻想に出会います。そして、たとえ諦めの幻想が外的には真の諦めに似ているように見えたとしても、幻想が正しい結果に導くことはありません。通常の生活において、禁欲主義、すなわち自ら課す苦しみと言われているものを皆さんはご存じですね。多くの場合、そのような自ら課す苦悩は、自己陶酔、あるいは自己満足のため、何かより大きな欲望、あるいはどこか別の源泉から来る欲望を成就するために人が選択するものである可能性があります。そのような場合、自己否定は効果的ではないのですが、それは、精神的なものに根ざした諦めを伴っているときにだけ自己否定に意味があるからです。私たちは創造的な諦め、創造的な断念の概念を理解しなければなりません。私たちが魂の中で実際に経験することができる諦め、或いは創造的な断念を日常的な生活からは遙かにかけ離れた考えとして認識することはきわめて重要です。そのとき初めて、私たちは、人類の進歩において一歩先に進むことができるのです。何故ならそれは、「太陽」の発達段階から「月」の発達段階に移行する進化の過程においてそのようなことが生じたからです。そのとき、何か諦めに似たことがらが、より高次の世界の存在たちの領域において生じたのですが、彼らはあの「地球」の発達過程に結びついた存在たちでした。このことを理解するために、私たちは、もう一度、古い 「太陽」における発達について考えてみる必要があるでしょう。けれども、その前に、私たちが既に知っているけれども現在に至るまである意味で謎めいて見えたような何かに注意を向けてみましょう。哲学・思想ランキング