「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ126
人間精神に於ける神秘主義的思想には「魂」や、人間が自己の持つ五感で捉えられ得る形而下の現象学や経験主義及び実証主義等々、更には人間の五感では捉えきれない思考に依ってのみ捉えることが可能とされる見えざる世界を根究する形而上の「霊魂」の霊魂観、物理科学を駆使しての「霊性」の発見、何故にあなたは今現在、考え・悩むのかに解答を与えんとする宗教。全ては人間が進化段階において「知」を獲得したときから始まります。人間にとって初めての「知」は、自らの身体の血脈を伴にした胎盤から誕生した、或いは、胎盤内でも母と意識を通わせたかもしれない段階の胎児」、そして嬰児段階、本来は「緑児」と書くが、現在では「嬰児」が一般的な表記ですが、 古くは「緑児」(みどりご・みどりこ、と末尾が清音が本来的表記ですが、701年(大宝1)に制定・施行された大宝令で三歳以下の男児・女児を「緑」と称するといった規定があったことに由来するします。推測するに、おそらくは此の段階に置ける母との対話とは言えませんが、自己の泣き声に反応した母の言葉が、人間に霊魂、此の時点で言えば自我を醸し出す働きを成すと考えられます。其の知を獲得したが故に、人間は先ず生存の観念を獲得します。其の生存観とは本能的なものではなく、明日にも母の声を聞きたい「人間本性」の自我の顕れです。人間は誕生した時点で「天上天下唯我独尊」ととなえた釈尊とは程遠い生き物です。但し、此の仮想の逸話は信じられません。ゴータマ・シッダッタ或いは仏教の始祖であるゴータマ・シッダルター、此の名はゴータマは「最も優れた性」、シッダッタは「目的伽噺説」という意味からして後に名付けられた筈です)は 身の境涯に矛盾を観相したらこそ、釈迦国の王位継承者の地位を棄捨して、王城からの脱衣の道、王城には十重二十重の警察門が構えられており、いかな釈迦国の王位継承者の地位を持つシッダルタといえども、其れ其れの門口に立つ門番顔見知りがある筈もなく、門を通過するためには賄賂が必要です。其の度々に彼は身につけた釈迦国王子の身飾品を賂として一つまた一つ門番に手渡します。
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