ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー
「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実第二部 質疑応答 ドルナッハ 1920年3月31日 答弁後半:拡張数学続答弁:私たちが今日、西洋文化の中で経験するところの退廃の大部分は、制御したいという私たちの欲求を力学的な観点からのみ満足させることに関連しているということに繰り返し人々の注意を引くのは何らかの意味で有意義なことでしょう。この点で、私たちは非常にうまくやりました。私たちは鉄道、電報、電話、そして、無線や複合電信さえも発達させたばかりではなく、この大陸の多くの部分を舗装し、そして破壊しました。私たちの制御への欲求を完全に満足させるということが破壊へと導いたのです。制御したいという私たちの純粋に技術的な欲求から始まった発達を直線的に追求するということが破壊へと導きました。この破壊的な側面は、私たちが病的に拡張する物理的な現象についての機械論的な観点を別の観点、すなわち物理現象の詳細を単に機械論的な考え方で包み込むことによって根こそぎにしてしまうことのない観点で置き換えるとき、完全に取り除かれるでしょう。機械論的な観点は、確かに非常に良好な生理学的説明を産み出しましたが、私たちは物理的な現象の詳細に対する機械論的な観点から離れていくことでしょう。私たちの新しい観点、そして、それについては一時間でその最後の結論に至るまで議論することはできませんが、それはまた現実に基づく数学の拡張へと導くことになるでしょう。私たちが気づかなければならないのは、過去30年か50年にわたって、混乱した機械論的な考え方が、いわゆるエーテルに関するあらゆる種類の意見を可能にしたということです。以前、別の文脈で触れた物理学者プランクは、多大な努力の後、次のように記述するに至りました。もし我々が、物理学の中で、とにかくエーテルについて語りたいのであれば、それにはいかなる物質的な性質をも帰属させるべきではない。それを物理的な意味で想像するべきではないのだと。プランクは物理学がエーテルに物理的な性質を帰属させることを控えるようにさせたのです。エーテルについての考えや概念が本来的に有している間違いは、あまりにわずかの数学しか含まれていなかったとか、あるいはその種類のことがらが原因ではありません。それらのことがらが生じたのは、エーテル仮説の支持者たちが、物理学の個々の問題をカバーするために数学を拡張しようとする傾向によって、完全に消費されてしまったからです。彼らの数学が間違っていたのは、エーテルの効果が役割を演じる定式の中に数を持ち込んだとき、まるで重みのある物質を扱っているかのように振る舞ったことによります。私たちがエーテルの領域に踏み込んだことを知るやいなや、数学的な定式の中に通常の数を持ち込むことはもはやできないのですが、私たちは数学そのものを本当に拡張することを求める必要をも感じるようになるでしょう。この点についてはふたつのことがらだけをはっきりさせておく必要がります。物理学者のプランクは、もし、我々が物理学の中でエーテルについて語りたいのであれば、少なくともそれに物質的な性質を帰属させることは控えなければならないと言いました。そして、アインシュタインの相対性理論は、あるいはその種の相対性理論であれば何でもそうですが、私たちにエーテルから完全に離れることを強要します。ここでは、簡単な示唆を与えることができるだけですが、主な点は、私たちがエーテルに移行するときには、物理学の定式、つまり物理的な現象に適用される数学的な定式に負の数を持ち込まなければならないということだけです。これらの数は負でなければならないのですが、それは、ちょうど形式物理学において正の数から負の数へと移行するときのように、正の物質からゼロを通って反対側に移行するときには、エーテルにおいて私たちが出会うところのものは、アインシュタインが信じているように無でもなければ、プランクが言っているように純粋な負でもなく、ちょうど負の数が正の数の反対であるように、何か正の物質の反対の性質を有するもの(*反物質)として想像すべきものであるからです。負の数とは何であるかを議論することになるかも知れませんが、数列を負の数にまで純粋に数学的に拡張することは、私たちが負の数の性格を明確に理解する前であっても、現実にとって意義深いものとなります。もちろん、私は、19世紀における重要な数学論争、正と負の記号の中に質的な側面を見た人々と負の記号を単に負の被減数を欠く減数として見た人々の間の論争をよく承知しています。この論争は特に重要というわけではありませんが、物理学が、質的な効果からエーテル的な効果へと移行するときには、私たちが正の数から負の数へと移行するときに形式数学において辿る道筋と同じ道を辿ることを強要されるということに気づくことは重要です。私たちが数をこのような方法で取り扱うと決めたならば、式の結果をチェックする必要があります。形式的な虚数の概念を正当化するために、形式数学において多くのよい仕事が為されました。物理学においても、私たちは、ある地点においては、正負の数を虚数で置き換えることを強いられることになります。この地点において、私たちは自然に適した数と相互作用することを始めます。私は自分がこれらのことすべてを非常に簡潔に描写し、わずかの言葉でそれを総括したということを知っていますが、皆さんには可能性ということについて意識しておいていただかなければなりません。私たちが重さのある物質から生命の力へと移行するときには、私たちは、物質の量的な側面の反転を示すために、私たちの式に負の数を持ち込まなければなりません。そして、私たちが生命を越えていくやいなや、私たちは負の数から虚数へと移行しなければならないのですが、それは単に形式的な数なのではありません。それは、ちょうど虚数列が正と負の整数の数列に関連しているように、正や負の数からではなく、質的かつ本来的に、エーテル的な側面もしくは負の物質と、質的な側面もしくは正の物質の両方に関連する実質的な側面から導き出された性質を有する数なのです。このように、形式数学とある種の現実の領域との間には、本当に結びつきがあるのです。もし、自然を制御したいという人間の欲求を満足させることにおける真に理性的な申し出が単なる機械論、物理学、あるいは生理学よりも効果的ではないというつまらない思いこみのために、私たちの考えを現実に近似させ、あるいはそれを現実の中に沈めようとする試みが失敗するとしたら、それはとても残念なことでしょう。実際には、それらの考えは私たちがあれほどまでに栄光あるものとしたところのテクノロジーに機械論的な世界観を適用するよりもさらに効果的であるはずです。この機械論的なテクノロジーは、確かに人類の文化的な発展にとって偉大な結果をもたらしました。けれども、通常の物理学的な計算の結果としての自然科学の栄光ある発達についてとめどもなく語る人たちは、私たちの関心が全く技術的な領域に向けられた結果としてその他の領域が被った苦しみを心にとどめておくべきです。単なる技術的な理解や自然の制御によってもたらされた退廃から逃れるためには、私たちの機械的、機械論的な知識とは異なり、ものごとの本質的な性質を認めることを拒否できない生理学や物理学を頼りにすることができるかも知れません。お分かりのように、この機械論的な領域はものごとの本質的な性質を簡単に退けてしまうのですが、それは正に、この本質的な性質が、我々の周囲の空間すべてに広がり、入手可能であるからに他なりません。物理学の分野全体が、機械論の分野が発達したような仕方で発達するのはそれほど簡単ではありません。ものごとの本質的な性質を認めようとしない議論のすべてはこのことから来ています。物理学者が純粋に機械論的な観点から考えることを選ぶときには、存在を理解することを安易に拒絶するかも知れません。今日、数学的な言葉で機械論を表現するために用いられる定式の背後には存在は存在しません。存在が始まるのは、私たちがもはやこれらの式を単に適用するのではなく、数学そのものの本質的な性質へと探求を進めるときだけです。これが、重さのないものをカバーするように数学の分野を拡張するためにはどうしたらよいかという質問の答えになっていればよいのですが。(了)哲学・思想ランキング