カテゴリ:メディア論
著作物というのは、法律による保護がなければ存在しえない。
とくに、コンテンツとメディアが切り離され、コピーが容易になった現代においては。 コンテンツは、その種類と配信、流通方法が異なることによって、ビジネスモデルがまったく異なる。 たとえば、文章と音楽では、その効用の変化がまったく異なる。 コンテンツの仕組みとしては似ている映画と演劇でも、流通方法が異なることによって収益のシステムがまったく異なっている。 既存の著作権という制度は、そういった個々の事情を、 (まったくではないが)わりと無視した作りになっており、 どのコンテンツ業者にとっても公平感があるように 権利システムを改善していくことは、ほぼ不可能だろうと思う。 あるメディア業者が著作権の改革を語るとき、 知らず知らずに、彼ら自身のビジネスモデルにとっていちばん都合がいいように改善すべきだと答えていると思う。 簡単に言えば、所詮はみなポジショントークなのだ。 たとえば、文章でも、雑誌屋と書籍屋とウェブ媒体の人間では、まったく違う、という主張をするだろう。 音楽業界でも、アーティストと原盤の権利を持つ企業とレコード屋・レンタル業者、ネット配信業者とカラオケ屋では、理想とすべき形は異なるであろう。 また、メディア企業の経営者とプロデューサーでも違うだろうし、有名クリエイターと無名クリエイターでも違うだろう。 フリーランスのライターと、企業に雇われたサラリーマン記者でも、まったく違う意見を言うだろう。 消費者にとっても、娯楽の一つ、と考えている人と、必需品と考えている人では違った結論になるだろう。 そして力関係はこの数年で、時代とともに一気に変わってしまうだろう。 だからこそ全員の立場の意見を聞く必要があるし、 その一方で、全員の立場の意見を「無視」しなければならないのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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