アリエッタ
言葉というのは面白い。どんな多言語空間にいても、大抵はそれぞれの言葉へ置き換えてある概念を伝達することが可能だ。ただ稀に、他の言語に相当する概念が見つからず、認識の共有ができないこともある。細やかな感情や抽象的な概念を表現する時に味わうちょっとした苦しみ・・・ある音楽家の友人は「楽しい」とか「ワクワクした高揚」という表現を使わずに、「ほら「ト長調」みたいな気持ち」というのだった。恐らくそれは彼にしか分からない、言葉として他にはたとえようのない感情なのだろう。また彼は、自分の悲愴や孤独感を表現する時は“アリエッタ”だった。ベートーベンのピアノソナタ ハ短調作品111番第二楽章“アリエッタ”の心情。難しかった。私は彼の本を翻訳すことはできなかった。その気持ちにわずかながらに触れることができたとしても、適切な表現に言い表すことはできなかった。自分のボキャブラリーの限界に、言語表現の限界に苦悩した。そんな風に、私にも記号化された独自の概念が存在する。それは思考にならずに音や光やイメージになってしまう。言葉そのものがそこまで未発達なのだから、すべての言語が他の言語に対応する言葉を持つなんてことはありえない。例えば、トルコ語での“Yavsak”って言葉。とっても嫌な響き。日本語でも英語でも一言でしっくりくる表現が見つからない。卑屈で卑怯で媚びへつらいの塊みたいな人がいたら、ただ一言"Yavsak"という記号が私の口から発せられる。それからアゼル語の“Yahsi Yolu"という表現。多分私の一番好きなアゼル語だ。類似表現としてトルコ語では“Iyi Yoluculuklar"英語では“Have a nice trip,"日本語では“道中お気をつけて”“良いご旅行を”などが一番近いのだろうけど・・・どうもどれもしっくりこない。私にとって“Yahsi Yolu”は“Yahsi Yolu“なのだ。アゼルバイジャンの幹線道路で車を走らせていると、ある行政区から行政区の境目に必ず大きく看板が掲げられているのを目にする。「Yaxsi Yolu!」どんなに疲れた帰り道でも、なぜかこの文言を目にすると私の背中が温かくなる。その響きのせいなのかもしれないけれど、なぜか心に染みる言葉。温かい思いやりに満ちた表現だと思う“ヤフシュ・ヨル”って・・・。「悲しみ」はどうだろう?言葉に表せない「悲しみ」は?悲しみというよりSorrowといったほうがまだ近い、いいや、Griefといったほうがまだ近い、いいや、そんな言葉もどれもその悲しみの極限にたどり着く力を持っていない。私にとっての“アリエッタ”はまだ対応する言葉を持っていない。 9月初旬に、断食明けの休みがあり、ほんの数日のために日本に帰国しました。そこで私を待ち受けていたのは悲しい現実。私の最愛の猫がすでに他界していたのです。誰も私に伝えてくれませんでした。遠方で悲しむと思って気を使ったのでしょう・・・ただ私としては、家の鍵を開け、猫の姿を探して、そしてふとその不在に、違和感に気付いた時のショックの大きさのほうが打撃だった。まるで自分自身の半分が壊れて機能しなくなるくらいの絶望的な喪失感でした。たかが猫一匹のために大げさかもしれません。自分でもどうしてなのか分かりません。ただ、その猫は10年以上もの間、私と一緒に生きてきた、自分自身の一部のような存在だったのです。猫は、ある日突然私の人生に訪れた。今となっては著名なトルコの女流作家と当時付き合いはじめた友人が、彼女の気を引くために飼いはじめた猫だった。まもなく、ひどい振られ方をして捨てられた彼は、猫を連れてうちにやって来た。「もうこの猫にも意味がないからもらってくれる?」と・・・。その無責任さに友情は決裂し、しかし放ってもおけず猫は私が引き取ることとなった。その友人は傷心のままスイスに移住し、それから消息は知らない。自分から振ったくせに女流作家は彼についての本を書きベストセラーになった。作品のネタにするために一過性の恋愛をしたのかもしれない。当時は常識を逸脱した個性的な人達が周囲に多かった。それから、猫は、私の、私達の人生の一部となった。あの頃、私は色々大変だったけど、楽しかったし幸せだった。とても優しい人達に囲まれて笑い、泣き、憤り、ちっぽけで何一つ持っていないくせに、何一つ卑屈に思うことなく、仲間達と共に目まぐるしく変化する時代を生自分らしく生きてきた。猫はいつも私の横にいた。置いていった日から思い出さなかった日はない。心配し、胸を痛め、そして自分を責めなかった日はない。猫がもういないという事実を知った時、すべての自分の良い思い出が、美しかった日々が、まるで波にさらわれるように消えてしまうような気がした。離れ離れになっても、まだいつでも同じように愛情を注いでくれる仲間達も、猫とともに、もう私の前から姿を消してしまったような気がした。何もかも前と同じではない。もちろん。人間は所詮独りだ。もちろん分かっている。しかし実際、思った以上に私は弱く脆い人間らしい。この悲しみの表現が見つからないまま、そのまま数日の日本滞在は友人達の善意に身を任せ甘やかされ現実逃避し、しかしまるで空を飛んでいるような自分自身の実在感のなさを覚え、ふと目にする猫の餌、猫の玩具等の残骸がいたたまれず、できる限りのものを捨て、処分しながら、涙を流し、自分自身の置かれている心理状況を分析していた。私は感情的でウエットでありながらも、どこかで自分自身と一線を引き、患者を診察するように自分を吟味している。しかし、なんだろう、この悲しみの重さは?時間が経ってもいっこうに立ち去らない。これが私の“アリエッタ”悲しみを隠そう、忘れようと敢えて努力はしない。今でも私の心の半分は稼働していないまま。