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カテゴリ:医療
現代医学の進歩により人の生と死とを定義し直す必要を生じてきました。代理出産、体外受精、離婚後の出生届の300日間制限などは議論を巻き起こしています。尊厳死を願う人も多くいます。ヒューマニズムでは解決しきれない問題です。
現代社会は生命の尊厳を最優先にしますが、生物学的な生と死と社会的な生と死とが乖離してきたからです。生物学的な生命の誕生は卵子が受精した時から始まりますが、受精卵を胎児にまで成長させる過程が複雑になってきました。 体外受精は卵子を摘出し、精子を受精させるのですが、受精卵の選別が可能になりました。受精卵は母親以外の子宮に戻しても胎児にまで育てることが可能です。これらを組み合わせれば遺伝母が代理母の子宮を借りることもできます。 代理母には具体的な支障が出ています。子供の親権を巡る争いが起きる場合もあります。代理母が子供を手放さない場合、遺伝母が子供を受け取らない場合が既に起きています。アメリカでは法廷で親権が争われるケースもあるようです。 代理母に与えるリスク、報酬が不透明になりやすいことにも問題があります。単なるボランティアであっても1年近く胎児を子宮内で育てるのですからそれに見合う謝礼が必要でしょう。いずれにしても綺麗事ではすまされないでしょう。 既に精子、卵子バンクができているようですし、代理母紹介がビジネスになりかねません。日本では血液の売買は禁じられていますし、親族以外からの生体臓器の提供も禁じられています。代理母も子宮の提供であり問題を感じます。 一方、医療器具を使用することにより肉体の死を遅らせたり、肉体だけを生かせるようにしたりしました。スパゲッティ症候群とも揶揄されていますが、肉体を生かすだけならば無制限に生かせられますが、尊厳死を求める人も多いのです。 医療技術の発達は人間の生物学的側面を忘れさせています。生と死は生物にとって重要な意味があるからです。生物の基本である生殖に人間が介入すれば予期しない結果がもたらされます。生物としての調整機能が失われかねないからです。 理論的には一人の遺伝母から代理母を使えば無制限に近い子供を得ることができます。ナチスドイツにこの技術があれば優生学的に選ばれた子供、遺伝母、父は優秀なドイツ人、代理母は健康なユダヤ人の組み合わせが考えられたでしょう。 遺伝子を選択する手段としても生殖技術は発展しています。体外受精させた卵子の遺伝子診断技術は先ず劣性の遺伝子を排除する方向に進み、その後優性遺伝子を保存する方向に発展するでしょうが、人為的な遺伝子選択は危険です。 人間社会を構成するのは生物である人間ですから、遺伝子の多様性を犠牲にして人為的な選択を可能にする技術は人類を滅亡に導きかねません。科学は科学の論理のみで一方的に発展し、人間の倫理の発展の遅れが最近目立っています。 子供が可哀想というヒューマニズム的な論理は一人の子供に対しては正しいのかもしれませんが、人類という尺度では間違っているような気がします。もし代理母が認められても実子にする必然性はなく特別養子にすれば良いだけです。 自らの遺伝子に固執するのも生物学的な本能ですが、人間という集団の中で個人を考えるべきです。人の生と死に科学が無制限に介入する姿は滅亡した恐竜の姿を連想させます。個人のレベルと集団のレベルとを分けて考えるべきです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007/03/25 02:36:02 PM
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