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カルカッタ1(1986)
六年前と変わらない風景。フィルターを通した「歴史」「悠久」「哲学」といった美しい言葉とは裏腹に絶対的な現実が、肌にのっぺりと圧し掛かってくる。絶対的現実って何だろうか。ひとつは「剥き出しの生と死」ではないだろうか。「死」が掘っ立て小屋やお茶を立ち飲みする人、ごみ、路上のポンプ、乞食、排気ガス、汚れた建物の壁、瓦礫、鳥、何度も剥がされたポスター、映画館の前に群がる人々、胡座をかいて煙草を売る主、パパイヤを刻み売りする少年、音の割れたスピーカーから流れてくるインド音楽、壁に直接描かれた広告、人力車、そういったものの中に埋もれている中に「死」が隣合わせになっている。死にむかって生がまっしぐら。日本で唯一、残存するタブーである「死」でさえ、隠蔽されずに現実にある。 建物は、厳しい気候と爆発的人口増加と激しいインド的使用方法によって急速に老朽化している様にみえる。インド髄一の栄華を誇ったの植民地時代の建物と、その後その上に積み増しして建てられた建物、相変わらず仲良く破壊的な経年変化。 しかし、人は変わったような気がした。相変わらず剥き出しの生は見せてくれるものの、死の影は薄く隠蔽されつつあるような印象を受けた。私がすぐにカルカッタに慣れたのか、私の立場が変わったのか、実際に変わってしまったのか、一介の旅行者には分からない。都市は生き物で生物(なまもの)だから、多分、ありとあらゆる方向で変わっていっているのであろう。その土地をいつかは逃げられることができる鈍感な者が、思い出を変えて欲しくないと愚鈍する。 ガンジス河の支流フーグリ河に架かるハウラー橋を歩いてた。大袈裟な髑髏に似た橋だ。その髑髏に蟻が這う様に人や物が行き来する。この街はこの河で分断されているというのに、近年できた有料の橋とこの橋しかないので、この五百メートル程に人も荷物も車も集中し、歩道を越えて人やリキシャーで渋滞を常に起こしている。橋を渡り終えたところで、、駐車中の車や荷台を擦り抜け、路上で体を洗っている人の水飛沫を避け、道の真中でお茶を飲んでいる人にぶつからない様にし、寝ている乞食を踏みつけない様に注意しなければならない。信号待ちや渋滞で停まっている車はエンジンを切るので、運転中なのか注意し、クラクションに悩まされ、暑い排気ガスの滞った空気を肺に入れなければならない。こちらがお茶を飲めば、歩いてくる人に気を配らなければ、お茶を汗まみれの服に零してしまう可能性もある。この異様な力のベクトルはどこに行くのだろうか。個人は小さくまとまっているのだろうか。ただ、バラバラな中で、いわゆる雑踏の孤独という感じには襲われず、不快極まりない散歩も結構愉快なのである。これは、私が一介の生活者でない訪問者に過ぎないからか、ここが私との現実の生活と乖離しすぎているからかも知れないし、ベンガル的な風土のなせる技なのかも知れない。 ただ、今だけでもどっぷりこの世界にはまり込んで彷徨できるものと思っていたのに、不意にこれが仮の姿に過ぎないということを思い出してしまった。港を捜し求める小舟に過ぎない。今、この瞬間がどこであろうと現実であると考えてが、堕落分子である。私は手を挙げて、タクシーという個室空間に逃げ込んだ。 カルカッタ2(十九歳) 1986年2月に18歳大学1年だった私は、インド、コルカタ(カルカッタ)のダムダム空港にいた。 エアインディア、香港、バンコク経由カルカッタインデリーアウトのチケットは16万円であった。勿論、最安値の格安チケットであり、そのため香港、バンコクで1時間のトランジット。 今もあるのだろうか、DSTツアーというのがあって、主催は「地球の歩き方」であり、それはこの飛行機のチケットにカルカッタとデリーでそれぞれ1泊ついている(空港送迎つき)のツアーで、実は、このエアインディアには100人以上の学生がこれを利用しており、まさに貧乏学生飛行機といったおどろどろろしい若気の漲ったフライトであった。 カルカッタに着いたのは夜中であり、建物に掲げられたヒンドゥ語のオレンジ色っぽい電光文字が暗闇の中におぼろげに浮かんでいる。そのツアーの正体を知らなかった私は、「うわー100人以上が空港で寝る訳なの?」などと考えたのであるが、100人は、バスに順次乗っていき、先ほどのどよめきが一気に消えた。 空港で残され、寝袋を敷いてごろ寝をした我々学生は、東大生、東北大学生、早稲田大学大学生、一ツ橋大学生、そして私に、大阪芸術大学生であった。 はなぢが出そうな頃、カルカッタ郊外のダムダム空港に。夜中。建物に掲げられたヒンドゥ語のオレンジ色っぽい電光文字が暗闇の中におぼろげに浮かんでいる。頭の中に未解読の音楽が流れ、タラップが開いた瞬間、生暖かい空気が澱んでいた。まず、迎えてくれたのが「わしらマラリアもっとるけんね」とでもいいたげな眠た気な蚊が数匹。体が重くて仕方ないらしい。力なく漂っている。「きっと、日本の蚊やゴキブリは殺虫剤の免疫耐性ごっこを繰り返しているから、やたらすばしっこくて、やたら頑丈なのだよね。ね、ね」といい、「インド初めてだから、そう理解してもいいよね。ね、ね」と慰める。 両足で、大地の一歩を。 今宵を空港でごろ寝。数人を残し、国際空港とは思えぬ閑散さ。 長く、震える夜を過ごした。北インドが結構この季節冷えるとは情報を仕入れていなかったなあ、思った瞬間、ほとんど何の情報も仕入れていなかったことに気がついた。ただの田舎出身無防備野郎だったのだ。サリーを来た女性が歩いて行った。「おおお、空港の中までサリーなんてサービス満点」などと思っていたのであった。ヒンドゥ教の女性は上流階級から土木作業員までほとんどがサリーだったのだ。汚れきったサリーを着て、頭にレンガを乗せるのさ。私は、風土に合った服、つまり着物論者に単純に転向したのである。 朝靄。ちょっとインドを垣間見てやろうと、空港と扉をエッチな気分で少し開けてみた。痩せこけた牛が一匹止っている。牛は視線を感じたのか、一応こちらを見たが、焦点が定まっていなかった。「なんだ。人間か。食えねえな」 タクシーの中からカルカッタ郊外をビデオでも見るようにお上りさん感覚で眺めている。牛乳缶を自転車で運ぶ人。川沿いにいつまでも続く貧民街。路上生活者にムシロ。路上のポンプで体を洗う子供達。褐色の痩せて棒のような手足。光った体。はっきりしている。視覚的に。よく見える。理解など、できないが、日本よりは隠されていない。エネルギッシュだ。 タクシードライバーとも目的地に着けば、交渉決裂。店のおやじや通行人や乞食も集まり、何やら大声でわめき散らす。どうやら、我々乗客の味方は我々だけらしい。救世主か、チャイ屋のおやじがチャイを両手に持ち現れた。「さあ、疲れたろう、これでも飲んで交渉ゆっくりしたまえ」空港から二十七ルピー。 公園の中にあるお茶屋。子供に勘定を頼む。子供は初めての外国人に戸惑い、少し考えたふるをしておどおどしながら指を三本出す。こちらも何もいうつもりはなかった。騙される楽しみもいいじゃないか、と。隣で一部始終を見ていた老人の客が、子供を叱った。子供はすぐさま二本の指を折りたたんだ。老人は頷き、「一ルピーだよ」と笑顔でいった。 カルカッタ 3 空港から六十ルピー。 裸電球の明かりに照らされて、彫りの深い顔が更に顕著に浮かび上がる。人を何度も引きそうになってタクシーは進む。影は美しくはっきりしているが、照らされた風景はおぼろげである。人々は蠢く。 おおよその思考が頭の中で想像する描写についていけなくなり、自分の意志を持って思うことがあやふやになっていき、思考は歪み、画像だけが自動的に進んでいく。描写は私の意志からどんどん乖離してゆき、飲み込まれ、滅裂になってゆく。ついに意識が突然消える。熟睡。 そして、朝。カラスの大軍。屋上で眠っていた。肌寒い。屋上から路上を見ると、歩く人、人、人。カラスが群がるゴミ捨て場にばあさんが壮絶に挑んでいる。じいさんも。擦り切れたシャツを着た子供も。救世主は来世まで。牛は参加していない。牛は。 迷子の愉快。 管理されることに慣れすぎると迷子になる為の地図でさえ必要になってしまう。もし、荷物がなければ、そこに戻る理由が薄らいでしまう。今回のテーマはそいつで、私の荷物はショルダーバッグひとつ。貴重品と着替えのシャツパンツがひとつづつ。タオル一枚。歯ブラシ歯磨き。ノートとペン。荷物はそれだけだ。人生そのものが所有の限りなく少ないものならば、そこに留まる必要がどこにあるのだろうか。流れ行くことが日常になってしまう旅行。何と、気楽なんだろうか。バナナを一房買い、次に来たバスに乗り、喉が渇いたら降りる。ここはどこだ。悟りも悲しみもない、ただの路面電車君。バス君。 ただ、いづれ、どうせ私は、そこへ帰るのだ。 路上生活者と知り合った。というより、私がぼんやり彼らの生活ぶりを眺めていたら食事に招待してくれたのだ。「食べるかい?」こんな時外国人にタブーはない。それに得体の知れないものでもない。青年は「これはチキンカリーだ。五ルピーした。これで家族五人分だ」といいながら、飯のついたチキンを汚れた手でかざした。彼はバングラディシュから仕事を求めてカルカッタにやってきて路上生活者となった。十八歳と主張する彼の頭髪には白髪が目立ち、顔の表情や皺から見て四十歳を超しているように見える。チキンを私が齧ると彼は微笑んだ。彼は裏にある博物館に行かないかと私を誘った。案の定、私達が館内に入ると見学者は我々を奇異の目で眺め、そして避けた。穴があちこちに開いた薄汚れた服に片足の青年が、腰巻き巻いた外国人と歩いている。彼は民族別地図の前で立ち止まり、民族衣装の人形を指差し、ベンガル我が故郷、といった。 私とて、ニューマーケット内で一コンマ五ルピーのカリーを食っていたが。 私とて、安宿の屋上の床の上に寝ている。それも便所への通り道ときたものだから、寝ている頭の横三十センチを時折人が通るのだで迂闊にも熟睡できないのだが。 ただ、優柔不断のまま、好きでやっているのだが。 カルカッタ再び 空港からタクシーに乗るが、もめて、空港に戻ってもらう。金は払わない。もめる。 「うーん。インドだなあ」と思う。 タクシーに乗り直して街に向かう。 車や通行人ギリギリの所を猛スピードですり抜け、安っぽいスリルを味わうことができる。安全の中に隔離された遊園地のスリルを味わうアトラクションに乗っているようだ。空港から百ルピー。 タクシーを降り、すぐさまうろついているおっちゃんと知り合いになり、ぶらぶら歩きながら会話をする。 「先日、カルカッタで大きな祭りがあったんだ」 「へえ、そういえば、俺もバラーラスでホーリー祭のときに行ったなあ」 「あそこは良くない。町中色を掛け合うなんて汚れて最低じゃないか」 「今回はBBDバッグ地域に宿を取ったけど、昔はサダルストリートに泊まっていたんだよ」 「あそこは汚くて最低だな」自分の住んでいる地域が一番なのである。 「うーん。インドだなあ」と思う。 そして、ふと気がつく。予定調和と確認作業のためにここに来たのだろうか。かつての印象から抜けることができないのだろうか。いきおい、ヒルトンホテルの様に、部屋の中はどの国に行ってもそんなに変わらないというマニュアル化したホテルチェーンに安堵を覚えてしまうのではないだろうか。そのうちハワードヒューズみたいに世界中どこへ行っても机の配置から同じにさせることに安心感を覚えてしまったらどうしよう。 少しでも富める者は、貧しい者に布施をするという考え方はインドだけでなく、結構多くの世界で見ることができる。ただ、その貨幣価値を崩壊させる様な行為はタブーである。短期間では、そのあたりがよく分からないのである。 つきまとわれた乞食の子供に粉ミルクを買ってあげる行為。乞食とて、たいていプライドを持ってやっているので、あまりに小額だと怒り出すこともある。私が粉ミルクを買ってあげたことを、その女性は「いいカモだった」と忘れてくれることを願う。一過性のものなのだ。 ここにいると背広は乾燥して寒い季節での服つまりヨーロッパのための服なのだと感じる。 日本の真夏の冷房は背広向けのものだ。 まだ冷房が高級であるという意識から抜け出せないでいる。東南アジアの寒くてたまらないデラックスバスと同じである。豊かさは高級化贅沢化を産み、更に金がかかる。マグロを食うために何匹のイワシが必要か。肉を食うためにどれほどの穀物が必要なのか。日本は重くなっていく。 会社員になってから一度インドに行った。 で、会社員になったから、でもないけど、家庭もあったど、 やぱり、学生のときみたいに1日の予算が500円という 訳ではなかった。 そんな訳で、私は自分でも、そして紹介や招待でも、なかなかいいものを食べた。大変うまかった。 私は、途中、カルカッタに戻り、カルカッタのダムダム空港にインドを見てみたいという実の妹を迎えに行った。 そのとき、ふと気が付いた。まわりには何も商店や店がないのに、(空港内にはレストランの類はあるけど)タクシーの運転手なんかが炎天下の中で客待ちをしている。 「なあなあ、俺、腹減ってん。きみら、昼飯どこで食ってるの?」 と私は思わず声をかけた。 我が意を得たりと、タクシードライバーが、ついて来いとばかり、炎天下を歩き出した。 空港の端の溝沿いに、その店はあった。 というより、そこには日よけもない(時間によっては建物の影にはなる)なべを3つだけと皿コップ水を置いた店であった。 何人かの運転手らしき人が飯を食っていて、外人の到来に 目を丸くしているが、すぐに親しい目をしてくれた。 私も、溝に足を突っ込み、「なべは何?」と興味深そうに指差すと給士の少年は、なべを3つ私の持ってきて、魚、肉(チキン)、米といった。 私は魚を頼み、そして、ドライバー達の注目の中で食った。 からくてまずかった。 が、生きていた。 生きている実感があった。 俺はこれを求めていたのだ、なんて勘違いもした。 今日、無茶辛いインドカレーを食べながら、そのことを 思い出した。 勿論、腹を下すのに1日かからなかった・・・ カルカッタのハウラー駅は相変わらず今まで見た中で最もカオス的な駅であった。何度来てもどの番線から発車するのか、どのコーチ番号なのかを発見するまでにかなりの時間を要する。そして駅には、乗客以上に住みかとして構える生活者が床を占めている。 キオスクで購入したお菓子の余りを、足のひん曲がった子供の乞食に手渡した。その子は、大きな優しい目で輝くような純粋さを持って見つめてきた。私は神ではない。むしろあなた方のほうが神に近い。この世で世界の八割以上のものを、我々五パーセント未満の者が享受している。擦り切れた衣服とは対照に、目が澄んでいる。いまだ、貧しい者は美しい、を理屈で理解できないでいる。いまだ、こちら側から傍観している。甘い感傷にとどめを。子供は立ち上がることができない。目線が常に私の下にある。乞食達が一斉に何故か私を見た。駅構内でモグリの仕事をしている男達が、何か大声で叫び、私から遠ざけるために彼らを蹴散らす。 乞食は案外臭くない。毎日路上で水浴びをしているのかも知れないが、人間、何日も体を洗わないと臭くて不潔で気分が悪くなってくるものなのだろうが、案外体が純化していくものなのかも知れない。気候や湿度も関係するだろうが、不純物は昇華してしまうのか体の一部として取り込んでしまうのか。下手に洗濯を中途半端にしたり、体を洗うと余計に細菌がばら撒かれ、臭くなってしまう。そういうものなのかも知れない。 そして清潔や不潔に基準がないのと同様、臭いにも基準がなく自己設定しなければならない。そしてその標準は場所と時代によって変遷していくものなのだろう。臭いは視る聴く話すよりは生活には重要ではないが、もし見る聴く話す臭うで、一つ捨てるとすれば、案外、臭いは捨てがたい。 カオスは続く。 求道 (今は国内線となった)ドンムアン空港であるが、ここのよい所は、大きな道を挟んで、ドンムアン村があることであった。小さな村であるが、空港の近くに集落があるのは、嬉しいことである。いつも、帰国前には、ここで、最後の晩餐や昼食を採っていた。そこには、空港の非日常性と違い、庶民の生活が隣り合わせになっていて、空港との陸橋を渡った下にある食堂で、焼き飯を食った後、甘ったるいアイスコーヒーを飲みながら、ぼやぼやとしながら、歩いていく人々や、屋台でせわしく動く人々の風景を眺めるというのが好きだった。村は、5分も歩けば終わるが、立派なタイ式の寺もある。 この屋台で一度、酷い目にあった。足の裏を何か、ムカデか毒蜘蛛のような蚊ではないものにやられたのである。やわらかいゴムぞうりでさえ、歩くと、足の裏が腫れて盛り上がっているのが分かる。痛さを更に痛さで誤魔化すため、大地を蹴りながら歩いて空港に戻ったのであった。 飛行機の離陸する時刻まで1時間を切る頃に、ゆっくり腰を上げ、近代的で冷房の効いた空港建物に向かうのであった。 求道 数時間後、中級であるが、心なしかお湯が出ないホテルに既にチェックインしている。しかし、いつものインドの通り、ここまで来るのに前途多難な道であった。 最初に、機内で、隣に座ったインド人が、断りもなしに、私のシート前のポケットに自分の新聞紙や私物を入れたり、ゲロ袋を持っていったりして、目が点になった。 そして、税関で空港からなかなか出られない。いつもの非効率。並ぶ入国者たち一人一人に、「私へのお土産は?」と尋ねているのだから仕方ない。 次に、タクシーに乗れば、いきなり料金で喧嘩、空港へ帰れ!といい本当に帰りだし、金も払わず、途中の村で降りて、乗り換えた。 そして、車内から、やがて視覚をはじめ五感に響く強大なエネルギーにいつも圧倒される。 道に続く掘っ立て小屋 何度も剥がされたポスター跡の壁 喧騒クラクション 道端での食事 パパイヤの刻み切り売り 靴磨き屋 破裂したポンプ 乞食 屋台 クーリー 演説 直接壁に書かれた宣伝 胡坐をかいてタバコを道端で売る人 パーン売り 米屋 インド音楽 排気ガス 人 都市が巨大な映画セットのようである。シティオブジョイ(歓喜の町カルカッタ)やサラームボンベイといった社会派インド映画を思い出したが、遥かに映画セット的である。 更に、ホテル横の靴磨き屋が、瞬時に、自称ガイドになり、靴を磨きにきた人を断っていた。頼んでもいないのに、私のガイドになるという。「おい、隣の靴磨き屋には5人も並んでいるぞ」といったところで、「5時になれば、雨が降る。靴磨きは意味がない」と嘯き、職務放棄し、私にしつこくつきまとい、無視しながらも歩きながら、30分程でまた私はホテルに戻る。彼は、後ろから30分勝手について来ただけなにの、ガイド料を寄越せと、喧嘩する。勿論、ビタ一文払わなかったが、もう表の門から出ることができなくなった。 そうして、この植民地時代に建てられたホテル内を歩くもすごい人である。フロントに私の相手をする人間が4人はいいとしよう。ポーター、エレベーター操作おじさん、エレベータ内掃除人、各フロアに立っているホテルマン、部屋に入ってくると、ノックがしてまた別のホテルマンが入ってきて、水を運んでくる。各フロアとは別に、数室ごとに何か待機しているホテルマン。チェックインからベッドに座るまでに、10人ものホテルの人と相手したのであった。 ここまでは、前途多難な道であった。 バンコクから近いのに、インドに来ると、遠くに来たなあといつも思う。そしてタイに戻ると、まだ日本まで飛行機で6時間というのに、もう帰ってきたな、と思う。 求道 やっとシャワーを直してもらい、少し休息して、ライトの美しい夜を歩こうと思い、それまで少し横になると、本格的に眠ってしまい、起きると、夜中の0時であった。何が何だか分からなかったが、視聴覚はインドエネルギーにやられていたようである。 求道 0時半、ロビーに下りてみると、レストランは開いていた。薄暗く、客はいないが、24時間のようであり、椅子に座る。しかし、従業員は全員、テレビに夢中である。警備員もテレビに夢中である。高いが、外ではもう食事はできないので、仕方なくしばらく座っているが、一向に注文も取りに来ない。 テーブルには、人を楽しませるために存在している枯れ掛けの薔薇。 業務用大型扇風機が、レストラン全体のテーブルクロスの端をひらひらさせている。 ビディは、6本目、薄暗いレストラン、まだ注文は取りに来ない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.11.01 22:18:32
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