私は、残念ながら正直者を絵に描いたのに毛が生えたような人間であるので、なかなか壮大な嘘がつけないのであるが、それは、悪い表現をすれば、殺人は犯罪者だか、革命を引き起こしたら英雄みたいなものであろうか。
今日は、東京に出張に来ている郡山ハルジ氏にインタビューしに出掛けた。最近いろんな日記を読んでふと思う、「中年の寂しさ、つぶやき」についてである。私もこう意味もないことを書き綴っているが、間接的に見て、人間関係の面倒な独身ボケ中年の寂しいイジケ日記になっているのではないかと危惧しているからであった。
その後、名古屋に寄り、こそっと、とあるアクセサリー屋さんに寄って店を買いたいと申し出てみたのであるが、実質的オーナーである放浪達人さんに、「作業はオマエがやれや」ということを言われ、尻込みするのであった。それでも作業したあとは、ねぎらいとして、何か見たこともないハーブをくれた。「これで神と出会いな」と言われ、何故かミズパイプもくれた。ありがとう。
植木等が亡くなったが、それについては、また無責任シリーズの見直しを図りたいと思うのだが、先日網走に行ったので、思わず子供の時に見たきりの「網走番外地」を見直した。結局憶えていたのは、あの手錠を列車でかき切る有名なシーンだけであった。昭和40年(1965年)の作品であり、南原宏治、安部徹、田中邦衛、丹波哲郎なども出演していたのであった。それにしても、みんな若い、高倉健も今や75歳ぐらいである。しかし、若いというより、ほがらかなのである。網走駅から、皆、縄でつながれて仲良く出てくる。トラックの後ろに乗せられて運ばれる。野外作業も、一般市民とすれ違う・・・
しかし、ふと気がついた。私が生まれた頃、すっかり戦後かと思っていたのだが、戦後20年少々しかたっていなかたのだ。今は戦後60年前後ということを考えれば、今から見て、戦後の方が近かったのであった。1980年代に、1960年代の文化や空気に憧れた訳だが、今は2000年代である。1980年代がほんのこの前のような気がする。しかし、1980年代は、1960年代は遠い遠い過去のような気がした。1960年代に学生だったらどんなに楽しかったかと思ったし、1960年代のインドやタイに行って見たかったと思っていたが、今、2000年代の学生は1980年代にインドやタイをブラブラした私とかのことをどう思うのだろうか。ネットの発達によって旅行こそ格段に便利になった。
インドネシアのバリ島の何かのパンフレットの案内分の1行だけ、スマトラ島のメダンからマレーシアのペナンに船が出ていると書かれていたのを頼りに、2000キロ離れたスマトラ島メダンまで行ったのであった。誰に聞いても分からない。船があると確実に分かったのは、スマトラ島メダンの手前500キロのトバ湖でであった。反対に、インドネシアのパダンからジャカルタまで船が出ているという情報もあったのだが、これが週に1,2便しかでておらず、結局パダンの港にある船着場まで行くまで分からなかったし、結局、2日も待たなければならないことが分かり、バスに切り替えたし、シンガポール対岸のビンタン島からジャカルタまで船が出ている情報というのも、現地に行ってみたら、数年前に火災で沈没してもうないとのことであった。インドでもフィリピンでも飛行機の空席待ちで、毎日毎日、時間を割いて航空会社オフィスまで通ったり、バスの乗り継ぎ待ち時間に何もない所で8時間も待ったり・・・随分効率的になったものだ。でも、同じキャンセル待ちの同志と飯を食うこともなかったろうし、8時間の間、現地の人に、言葉を学ぶこともなかったろう。