20代前半、私は、仕事の関係で天理市に行った事があった。そのときの異様な印象を忘れまい。5,6階建の切り妻の瓦葺の建物が、市内のあちこちにあり、そこに、「おかえりなさい」の垂れ幕が連呼されていたのであった。
それまでの私の天理教のイメージは、駅前で踊っている、陽気なおじさんおばさんってな感じで、何だか、関わらないけど楽しそうな感じだなあという印象ではあった。勿論、中山ミキさんが貧乏のどん底で神がかりになったことは知ってはいた。その後、何となく気になる宗教のまま今日に至り、今も、特に偏見も深い理解もないまま、一応とりあえず、自分の人生を続けている。
天理教が生まれたのは、幕末末期で社会が混乱した頃で、同時に金光教や黒住教、如来教などが同時多発的に誕生している。のほんの新興宗教はこういった幕末期に生まれたとする説と、大本が誕生した頃を発生時期と考える説がアル。その他にも説はあるが、それは、宗教の発生時期と拡大時期にお往々にしてズレがあるからであろう。天理教も同じで幕末に発生したとはいえ、大正や昭和に信者が増え、宗教都市天理市ができていったわけだ。
勿論、天理教も戦時中は宗教弾圧を受けた。「じば」が人類発祥の地である神話が存在し、古事記や日本書紀と異なるからである。それに、当時は医者にかからず、神に一条やと言われて薬や治療を拒否して、祈祷や呪いに頼ったからであろう。
教祖中山みきはその神がかりの振る舞いからカリスマではあったが、ついついなのか、自分は115歳まで生きると公言してしまっていたのであるが、実際は90歳に亡くなった。予言は外れたが、勿論、早すぎる死に新たに宗教的に解釈することで、危機を脱したのであった。寿命を自ら縮めてでも信者を救済すべく肉体を捨て、本当の神になったのであった。
何と言うか、これは、キリストの死も同じである。イエスキリストの処刑によって奇跡は起こらなかった。そこで、3日後の復活説という信仰を新たに生み出していったこととおなじである。とにかく、天理教の特徴は分派が多きことだ。誰もが天理王命の啓示を受けることが主張できたからであろう。
まあ、そういった簡単解釈はさておき、天理市の建築指導要綱には奇妙な条文がある。簡単に言えば、建物を建てるのは自由だが、近隣の人ではなくても、誰もが口出しできるようになっているのである。天理市で建物を建てようとしたら、誰が現れるかは明白であろう。
子供達には、聖地「じば」の祭りがある。
本堂です。人間には等身大に心地よい広さというのがある。例えば、天安門広場、あれは、もはや広すぎて心地悪いほどだ。天理教の前の敷地の広大な広さ、我慢のギリギリの線をついていた。
茶しばくけ?
オートバイを輸送しています。
電車の中で、若いカップルの前におばさんが来て「あれ?今からお二人教会?」と尋ねた。もじもじしながら、「いえ、今日は・・・」と若人は答える。
とにかく、参考にしたいときにはここ。
とにかく、陽気である。
歴史アル高校です。
海外にも盛んに行ってまして、各大陸の建物もあります。
にっこり寮
商店街だって、ウエルカムだぜ
思わず飲兵衛の触手が激しく反応する。
陽気出版に、はらぼらすもう。
本屋も専門家し、本の表紙が原色でキレイです。
稚拙な漫画絵の笑顔が怖い感じがします。
勉強になります。jtb
おしまいに、天理教ハッピ見返り美人。とにかく、天理市を歩いていると、私だけがふざけた観光客に思え、私以外のすべての方々が天理教の方々に思え、何だか怒られそうな気がしないでもないが、そこは、インドに行ってはヒンドゥ教やイスラム教ばかりに囲まれ中東に行けばイスラム教に囲まれるような程度かもしれない。天理教も勿論、他宗教や無宗教にも寛容だ。寛容さは好きだ。栄光のためでなく、ただお客様のためだけに!
お金を下ろすハッピ女性もいます。
つるし柿勤務のハッピさまもおられます。
雨に濡れてもハッピ。
専門店脇を通ってもハッピ。
happiハッピー
高野山
ケーブルカーで高野山へ
企業のお墓
どこかポンチな高野山
金剛峯寺
ビルマ寺
おまけ 宗教都市天理
おまけ 生駒宝山寺
おまけ 生駒宝山寺2