何を隠そう、関西空港は3つの市町村からなる。そのうちのひとつである、田尻町なんかは、関空ができたために、町の面積が一挙に2倍になった程である。
それはさておき、関空対岸から、超高級車を駆使して、更に、南下していく私様御一行様であった。
まず、対峙したのが、ピチピチビーチである、死にたてぴちぴちの魚だけでなく、夏には、ピチピチギャルも浜辺に繰り出しており、私は、まるで、カサノバの如く振舞うのであった。
ピチピチビーチで大きな仕事を終えた後、更に南下して、次は、トキメキビーチである。夏には、ときめいたギャルたちが大量に採れるのである。私は、まるで、好色一代男のように華麗に振舞うのであった。
もはや、イヤラシイ表現ではあるが、ズボンの乾く暇もなく、アンテナに干すしか能がない如くである。一応、意味なく、カレンダーを道行くヒトに見せびらかすために窓際に貼っておいたが、いかがであろうか。
遂に、泉佐野市から田尻町、泉南市、阪南町、岬町と煌びやかに、通り抜け、遂に、不意にも迂闊にも不覚にも和歌山県に入ってしまった。まるで、ゴミゼロ状態である。
和歌山に入ると、加太である。加太の海の目の前に広がるのは、瀬戸内海の東の終点、海上には、友が島が浮かぶ。その向こうには、淡路島、四国と続くのである。友が島は4島から成る島である。
私の住んでいた近くの須磨海岸などからは、淡路島が見えるのだが、和歌山の端のほうも見え、和歌山と淡路島がつながっているように見える。高校の時、青春しに海に行ったときに「淡路島ってでかいねんなあ」というと、隣の人が、「あれは、友が島だよ、皆間違えているんだよねえ」といい、齢16歳ぐらいにして、共が島の存在を知ったのであった。まさしく、存在の詩である。
まあ、そういう私が友が島を知った由来は、置いといて、友が島と共に、この加太は要塞だったのであった。ここを通って大阪神戸に船が入られると困るのである。この海峡で何とか、ややこしい軍艦を食い止めなければならなかったのである。
しかしながら、あまり、その跡は紹介されておらず、ひっそりと、国民休暇村の敷地内の奥の方に、深山を入ったところにあるのであった。
山を登ってきたので、汗が噴出し、蚊にやられるのであるが、階段を下りると、急にひんやりするのである。それは、気色悪いほどで、臭いも変わり、怨霊の気配さえ感じてしまいそうなぐらいで、グニュっとなってと思ったら、床がぬかるんでいた。常に、湿気を含みながらも、気温が急低下する場所なのである。
要塞の中は暗く、奥が見えないが、フラシュを焚くと壁で塞がれていることが分かった。
それにしても詳しくはこの深山地区を参照である。。
それにしても、考えれば、昔、加太の知り合いがいたが、元気にされてのだろうか。道を歩きながら不意に不覚にも迂闊にも思い出してしまったのであった。
しかし、弾薬庫はこうやって、まだまだ日本にも多く残るのである。そういえば、小さい頃、近くに一箇所、防空壕跡があったなあ。一度だけ、友達と潜り抜けたが、確かに怖かった。スゴイ風が吹く抜けており、中はゴミだらけであった。空気がセピア色だったような思い出だ。防空壕の土の壁が黄色っぽい砂岩だったことも関係するのか。
友が島に渡ってみるかという気もしたのだが、時間と予算とスポットと恋の関係上、またいつの日かの宿題としたのであった。