麻酔が効いていないというより、これは睡眠薬みたいなもので、夜中一時期起きた以外は12時間ぐらい眠っていたようである。
毎年書いていると書くこともなくなるのではあるが、2日前ほどから、ユーチューブにて、やたら阪神大震災のニュースなどをみているという状態であった。
奇しくも、震災の2日後、ボランティア目に、海外の報道機関のテレビクルーの運転手をしたのだが、この海外報道機関は、オーストリアだった。しかし、私は、お礼などいらないから、この報道番組が見たいと思いながら、もう14年の月日が流れた。
多くの報道機関は、被害のなかった神戸市西区に存在するオリエンタルホテルに宿泊しており、朝、迎えに行くのだが、街の中まで3時間以上かかるむねを説明して、電車が行っている所まで行き、そこから歩いていくか提案してみたものの機材は多く、それは、難しいことと分かり、じゃあ、昨日オーストリアから着ただろうから、寝て置いてください、と言って、渋滞に突っ込んでいくのであった。
それにしても、私は、緊急車両の邪魔をしているという気になって仕方なかった。報道っていうものは、人々に伝える使命ではなく、恥ずかしながら、報道させて頂くという卑しい仕事のような気がしてきてならなかった。メシの種なのである。
前日、不謹慎ながら、原付で、神戸市内をくまなく回っていたので、いきなり、被害の深刻な場所に行った。よくもまあ、こんなところ知っているねえ、と呆れられた。その時は、まだ、その場所が詳しく報道されていない場所であった。
しかし、私は、カメラを持つことができなかったんだ。従って今も1枚も持っていない。
避難所の体育館で、クルーは次々に質問していくのだが、(俺、通訳なんかできネーヨ、何で俺だよ)彼らの考え方なのか、今後どうしますかという質問を必ず最後にするが、皆、どうしていいか分かりません、と答え、日本人は、先のことを考えないのか?と私に尋ねる次第であった。
それでも、ミカンもって行きなさいと、こちらが届けなければならない立場なのに、ミカンを分けてくれ、申し訳ない気になった。
自宅の瓦礫の山で呆然としている青年に、インタビューし、今受験勉強中なんです、と言っていたが、報道インタビューって、相手の都合や心情をある程度ココロを鬼にして、ズバズバ聞かなければならない、苦しい仕事なのだなと感じるのだった。
私自身が被災者なので、ヌケヌケと質問に答えるのは、何だか、そんな気分になれねえよ、と思ってしまうのであった。
少し、離れたところで、昼食をとったが、食べるものは、おにぎりしかなく、それで、十分、どころか、電気が通っていたので、充電までさせていただき、ありがたいことだった。サービスで、ポットに入れられたコーヒーが五臓六腑に沁みるのであった。
人が埋まっているところで、インタビューするのも、自宅が、火事で燃えているのを呆然と眺めている人を、手伝いもせずに、インタビューするというのは、心苦しいのであった。カメラまわすぐらいやったら、手伝えや、といわれると何もいえないのだ。世界の人に、この事実を知ってもらうというのは、大義名分にしか見えないきがするのだ。
つまらないことだが、インドやタイに行って、車やリキシャーに乗って、乗り回すってときの、私の態度とそれらの国にいる運転手の関係が、今回、逆転しているような気がしてきて、アジア人サーバントを使うヨオロッパ人とう感じが何となくしてしまうのであった。彼らオーストリア人はそんなこと思っていないだろうが。
その日の宿屋については、確保できておらず、彼らは、一流ホテルのオリエンタルに戻りたいと言い出したがもう満室となっており、垂水区の海岸沿いにあるユースホステルに届け、そこは、水が出たので、私も自宅が断水のため2日間風呂に入ってなかったので、シャワーを浴び、明日の時間を確認して外に出る。
前から老人が歩いてきて、ここから明石はどのくらいですか、大阪から朝からずっと歩いてきましたと言った。途中のコンビニまで送ってあげてコンビニに入ると、棚の上段までぎっしりと弁当やおにぎりが積み上げられ、通路に大量のミネラルウォーターが置かれていた。
これから、街は、悲しみの中、逆にハイテンションになっていき、一種の幸福共同体を作っていくことになるのであった。
オーストリアに来たものの、彼らや会社を思い出すことがなく、今、思い出したのであった。それにしても、まだ音にすると、「ニョー」という便が出るのであった。