というのは、いつも辛い命題というか質問というか、実はどうでもいことだ。結局は、生きてはいたが、その存在はその後消えるので、消えるために生きているようなものだ。先日の、こうやって、植村直己は暫く語り継がれていくだろう。私が名前を知っている人は、分からないが身近な人から歴史上の人まで数えてみても何万人もいない。キルギス人に知っている名前はアイトマートフとアカエフ、バキエフと3人しか知らない。ほとんどは、存在を忘れられていく運命だ。消えるために生きるが、後に続くため、直接何かを残す、あるものは子孫、あるものは教え伝統考え方、あるものは資産、あるものはハナクソ、借金、なんものこさんかったなあ、という忠告、戒め。
人は、聞きたがる、成功談,、しかし、ビジネスの成功、投資の成功、うまくなるための技術、といった具体的なもので、あまり人生の成功は聞きいても面白くない。人生は失敗談でなければならなく、失敗談が多いほど面白く聞きたいわけだ。失敗や挫折のない人生、平凡な人生を聞くのは面白くない。平凡な人生は、ほどほどに幸せだというのに。恋愛の話なんか、生涯一人しか付き合わず幸せに暮らしている(うまくっている)人の話より、失敗を繰り返している人の話のほうが愉快だろう。失敗回数=現在の人-1。ははは。まあ、ビジネスも、親から次いだ人の話より、何度も失敗や倒産やピンチの後に今の地位がある人の話のほうが面白いか。成功=失敗-1か、んー、あんまりおもろないな。人の不幸好きだねえ。ってことか。
ポポポポーン、結構ばーじょんでてるじゃん