終戦の日に「火垂るの墓」
今日は終戦の日なので、先日購入したDVD「火垂るの墓」を鑑賞した。ご存知の通り、この高畑勲の名作アニメを観るには覚悟がいる。テーマが重いだけでなく、高畑勲の徹底した表現が人間の感情に強烈なダメージを与えるからだ。 …が、今回は少々違った。完全保存版ということで収録された特典を見たり、読んだりしてから観たので、かなり印象が違うのだ。以前なら、節子の声を聞いただけで涙があふれそうになっていたのだが、今回はいたって冷静にドラマを観ることができた。 その理由は、高畑勲の「思い」を知ったからである。高畑勲は、製作の途中で「この話にはリアリティがなさすぎるから作れない」と言ったらしい。原作が成立しているのは、心中ものとして小説が書かれているからとか…。結果、兄妹の霊が自分たちのドラマを見ているという表現をアニメに採用したのだという。 また、インタビューで高畑勲は「兄・清太に現代の子どもを重ねている」と答えている。「お金があれば何でもできると思っている現代の子どもが、戦時下に置かれたらどうなるか」。あの時代の記憶のある高畑は、あの兄妹よりひどい状況で生きてきた子どもたちの存在を知っているのだ。当時の子どもたちは、それでも大人や社会と折り合いをつけながら、なんとか生きてきたと…。 だから、高畑勲にとっては、観客があまりに兄妹の境遇に同情しすぎるのが、意外だったらしい。あの時代、子ども2人だけで生きるということは心中を選択したことだと思う観客が、もっといてほしいと思ったらしい。 確かに、ボクも彼らの境遇の不運に涙を流したクチである。高畑勲が言うように「お金があれば子どもだけでも暮らしていける」と思った清太という存在も、ボクにとっては「生き方のヘタな少年」にしか見えなかった。 高畑勲の話を聞いてから観ると、確かに高畑勲の意図したであろう清太像が、いろいろなエピソードで語られている。しかし、そうした理性的な観方を消し去ってしまうほど、節子の愛らしさが見るものの心を悲しみで満たしてしまったのだろう。 感情のままに観て涙する「火垂るの墓」も素晴らしいが、こうして情報をもとに理性を持って観て作品の意味を再認識する「火垂るの墓」も良い。多様な観方ができるのも、この作品が時代を超える傑作であるからだろう。