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001:九月の雪虫
釧路発網走行き電車の朝は、華やいでいる。塘路(とうろ)や茅沼(かやぬま)、五十石(ごじっこく)といった沿線の駅から、多くの学生が乗ってくるからである。電車は釧路湿原を縫うようにして走り、標茶(しべちゃ)駅で通学生をまとめて吐き出す。 標茶町は北海道の東に位置し、釧路と網走の中間あたりに存在している。広さは、東京都のほぼ半分。全国では、六番目の敷地面積を誇る。国立公園に指定されている釧路湿原の半分は、標茶町をしなやかな曲線を描いて流れている。世帯数は約三千七百。人口は約七千九百人と、過疎化が深刻な町である。 瀬口恭二はいつものように、駅前商店街の入口で友人を待っていた。恭二は標茶中学三年。本日は、二学期の始業式である。 標茶駅からは、百人ほどの通学生が出てきた。そのなかの一人が、猪熊勇太(ゆうた)だった。彼は二つ先の、茅沼駅からの通学生である。駅から中学校までは、徒歩で三十分ほどを要する。 勇太は「おはよう」とあいさつして、恭二と肩を並べる。恭二と勇太の背丈は、百七十五センチとほぼ等しい。しかしやせ形の恭二に対して、勇太はがっちりとした体格である。 駅前の通りは、閑散としている。通学時間に開いているのは、豆腐店と新聞配達所くらいである。九月になると空気はたちまち、ひんやりと張り詰めてくる。二人は制服の上に、コートを羽織っている。 「F高から入学までの、自主トレ・メニューがきていだだろう。毎日十キロのランニング、五百本の素振り、それに腹筋百回。たまらないね。学校へ行く前から、ヘトヘトだよ」 「ランニングと腹筋は一緒だけど、おれには素振りではなく、シャドーピッチング五百回が課せられていた。濡れタオルでやること、と書いてあった」 「恭二、ちゃんとやっているんだろうな?」 「やっていない」 「一流の野球選手になるためには、とことん自分自身をいじめる必要がある。中学までは、才能で何とかなるかもしれない。高校になったら、基礎体力が大切になる。だから恭二、悪いことはいわない。ちゃんと、トレーニングしなきゃ駄目だ」 「わかった。努力するよ」 二人は、野球部のバッテリーである。標茶中学を北海道大会の、ベストエイトに導いた立役者であった。そのため二人は、札幌のF高校への推薦入学が決まっていた。 川のない舗道に置かれた、朱色の派手な橋を渡る。しばらく行くと、とってつけたような石畳の急な坂道に行きあたる。さらに進むと今度は、時計のついた白亜の建物が現れる。すべてが最近建造されたものである。標茶中学校は、それらの先にある。 坂の上に藤野詩織の姿を認めて、勇太は肘で恭二の脇腹を突く。 「彼女のお出ましだ。おはようのキスでもしてやれよ」 「ばか」 恭二は勇太から離れて、詩織と肩を並べる。セーラー服は、ベストに替わっていた。二学期からは、冬の制服になったのである。 「セーラー服もかわいかったけど、ベストも似合っている」 恭二がそういうと、詩織は持っていたコートを着こんだ。 「恭二に見せようと思って、寒いのに我慢してたんだ。かわいいでしょう」 「食べちゃいたいほど、かわいい。ところで、日曜日の壮行試合は、応援にきてくれるよね」 「理佐もきてくれるって。彼女、勇太に気があるみたい」 突然耳元で、勇太の野太い声がした。 「リサって、転校生の南川理佐ちゃんのこと? おれも好きだって、伝えておいて」 後ろを歩いているとばかり思っていた勇太は、いつの間にか並んで歩いていた。 「何だ、おまえ、聞いていたのか。油断も隙もない」 「キャッチャーっていうのは、研ぎ澄まされた神経の持ち主でなければ務まらないの。理佐ちゃんか、おれにもついに春がきた」 コートの襟を立てながら、勇太は屈託なく笑ってみせる。こいつがいるから、おれの投げるボールが活かされていた。恭二は全道大会で、投げ抜いた日のことを思い浮かべる。 「恭二、ほら雪虫」 目の前を、白い綿毛のようなものが舞っている。 「勇太には春がきて、おれたちには冬の使者がやってきた、ってところかな」 詩織は笑った。大きな瞳が細くなり、左の頬にえくぼができた。中学校の玄関脇の噴水は、凍結防止のために、荒縄が巻かれて止まっていた。もうすぐ本物の冬がくる。 *『町おこしの賦』001~024までは、画面左の「フリーページ」で一挙読みできます。著者 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年07月08日 04時00分21秒
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