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gamzatti

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シェイクスピア

2017.04.19
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カテゴリ:シェイクスピア
いったい何種類の「ハムレット」を観てきたことだろう。
最初に観たのはテレビ。
何もないスタジオの中で、「尼寺へ行け!」の部分だけを一人芝居のようにやっていた。
黒のタートルセーターを着たあの人は誰だったか。
若き近藤正臣だったような、違ったような…以来50年くらい経つ計算となる。
蜷川幸雄が鬼籍に入った今、
これからのシェイクスピア劇はどうなっていくのか。
ジョン・ケア―ドの「ハムレット」を見に来た人は、みなそんな
「ポストNINAGAWA」を占う気持ちを少なからず持って劇場に集まってきたのだと思う。

ジョンの演出が、俳優たちに「考えさせる」演出であることは、よく知られている。
ワークショップを通して自分の演出プランを丁寧に説明するが、
基本は役者に任せる。
役者はジョンの意図を理解しながら、役者としてシェイクスピアのセリフと向き合う。
セリフの向こう側に生身の人間の感情を見出し、汲み取れるか否か。
それを今生きる観客の人生と共鳴させられるか。
それは、役者の力量にかかってくる。

シェイクスピアはコトバ・コトバ・コトバだ。
今回、全体的に俳優たちはセリフに追いかけられ、早口に詰め込むのが精いっぱいな人が多かった。
冒頭、輝きを放っていた内野ハムレットも、後半は疲れて来たのか何度も言い直す場面があった。
言い直してしまうと、観客はそこにハムレットではなく内野聖陽という役者を感じてしまう。
(「ガラスの仮面」風にいえば、「仮面がはずれる」??)
観客の緊張の糸がそこでふと緩んでしまうのは、非常にもったいなかった。

クローディアスの国村隼、ボローニアスの穣晴彦という2人のベテランが、
期待に反して存在感が薄かったのも残念だった。
政争の泥の中を泳ぎ進む鉄の鎧に覆われた狡猾な外の顔と、
ナイーブで子煩悩、あるいは愛を求めて迷う内面と、
二面性は際立たず、善人なのか悪人なのか、どっちつかずになってしまった。

その分ベテランで気を吐いたのが村井国夫だ。
役者としてギリシャ悲劇の一節を語るところは、
ハムレットに「to be or not to be」を突き付ける非常に大切な場面。
ここからすでに威厳に満ちている。
そしてクローディアスの悪事を暴くための劇中劇で、
クローディアスにあてつけた王の役。
彼がクローディアスの方がよかったのでは?と思うくらい。
そして墓堀り。セリフの中のウイットをしっかり自分のものにしてから声に出している。

セリフが示す情景をしっかりと落とし込んでいた俳優がもう一人。
レアティーズ役の加藤和樹だ。
オフィーリアに恋の危うさを説くときの心配な様子。
家族3人で幸せに笑う様子。
妹がなぜ正式に埋葬されないのか。くってかかる抗議と哀しみの爆発。
それは「レアティーズ」ではなく「今そこにいる妹思いのお兄ちゃん」の姿だった。
だから心に沁みた。
「僕を殺したことがハムレットの罪になりませんように」
心から神に願う最期の美しさが際立った。

ところで、
ジョンの今回の演出の特徴として、
「一人何役も務めること」が挙げられている。
しかしこれは演劇ではよくあることで、演劇ファンなら折り込み済み。
とはいえ「ヘンリー六世」で大竹しのぶが
前半ジャンヌダルクとして死んだのに、後半王妃マーガレットとして元気に登場したときは、
わかっていても「え…?」って思ってしまったのだが(笑)。

蜷川にとって最後の「ハムレット」となった藤原竜也の2度目の「ハムレット」でも、
平幹二朗が先王とクローディアスの二役をやった。
それと今回と、どこが違うのだろう?

ハムレット役の内野がフォーティンブラスも演じる。ここだろうか。
パンフレットを読むと、これは単なる「二役」ではない。

「ハムレットは自分がなるべきだった王=フォーティンブラスになって蘇り、
 オフィーリアは浅はかなオズリックとなってハムレットの死に立ち会うのです」

これがジョンが仕掛けた「二役」の意味なのである。

……それがどのくらい、
俳優たちに伝わっていたのかどうか。

フォーティンブラスの最後の演説に、私はハムレットを感じなかったし、
オフィーリアに至っては、
「なんでこんな一本調子のオズリックなんだろう?」が頭について離れなかった。

たしかに、
通常のオズリックのように愚かな追従者の道化役をやったしまってはジョンの演出に反する。
オズリックの姿をしたオフィーリアでなくてはならない。
オズリックの瞳の中には、オフィーリアがいなくてはならない。
ハムレットが「暑い」といえば「暑い」、「寒い」といえば「寒い」というオズリックは、
オフィーリアとしてハムレットと対峙した長い廊下の問答のときと同じように、
ハムレットの言っていることがよくわからない、不安の中での受け答えを彷彿とさせなければ!

貫地谷しほりのオフィーリアは出だしがとても素晴らしかっただけに、
その後の不安→狂乱→オズリックという変化を深いところで演じきれなかったうらみが残る。
まあ、オフィーリアは本当に難しい役なので、初役の人については次に期待です。

皆、蜷川さんに演出「される」ことに慣れちゃったのかもしれないね。
彼がイギリスRSCの役者たちと「リア王」をやったときに、
とにかく彼らがセリフにこだわり、論理的に、言葉で役を理解しようとしていたことに
カルチャーショックを受けていたっけ。

ジョンもイギリス人。そしてシェイクスピアはイギリスの文化。
彼と何度も仕事をした村井国夫がもっとも
彼の元で自分が何をすべきか、
彼の演出の中で俳優のなすべきことの大きさをわかっていたのかもしれない。

パッションを引き出されるのを待っているのではなく、
テキストから自分で像を結んでいく真の本読みの力が
役者には必要なのだとつくづく思いました。






Last updated  2017.04.26 10:18:14
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2015.09.13
カテゴリ:シェイクスピア
市村正親のマクベスを見たくてチケットを取りました。
が、私が観た回は多少精彩を欠いていたように思います。
市村さんはセリフが単調で、
早口でセリフをこなすのに精いっぱいな感じ。
初日からまもないからでしょうか。

マグダフ役の吉田鋼太郎のほうが、存在感がありました。
それは「共感できるか、できないか」なのだと思います。
マグダフは誠実だし、言ってることが正論だから、
感情移入しやすいのです。

マクベスという人物は、ただでさえ考えや行動が性急すぎ、道義にもとる。
それでも主人公として成立しうる魅力、あるいは魔力のようなものが
マクベスに見えなければ、観客の心は主人公から離れるばかりです。
いつもであれば、どんな登場人物の「矛盾」も「欠陥」も
いったん市村さんが料理してしまえば魅力的になるはずなのに…。
残念でした。

「NINAGAWAマクベス」という1980年の演出の再演については、
いろいろと考えさせられました。
彼の「洋ものを和のテイストで」の原点としてのリスペクトはある。
仏壇の扉の向こうに繰り広げられる光景の美しさには目を見張る。
魔女の踊りに仏教の声明どころかキリスト教の讃歌がかぶるところも意義がある。
しかし、
シェイクスピアの翻案という意味では黒澤明の「蜘蛛ノ巣城」に、
時期的に先駆けるものでもないし、迫力でも美しさでも及ばない。
質的にも、私は疑問を感じるところがいくつもあった。

誤解を恐れずに言うと、
この「NINAGAWAマクベス」は、その様式において、マクベスの歌舞伎化なのだ。
歌舞伎には様式があり、歌舞伎役者には基礎がある。
おそらく1980年の初演時には、歌舞伎のような様式美を支える基礎的な力が
出演者全体にあったのだと想像する。
あのころ、
時代劇はテレビでもたくさん放送されていたし、
その前の時代劇映画全盛のころを知っている俳優さんたちがこれまたたくさんいた。
俳優でない私でさえ、それを「見る」目は養われていたくらいだから、
「質」はそういう「過去の遺産」によって担保されていたのだと思う。

2015年の現在。
同じことをしても、同じようにおさまらない演技がそこにある。
いくら武士の恰好をしても、武士のたたずまいを知らない人間に武士役は務まらない。
いや、武士じゃなくてイギリスの兵士なんで、っていうなら、武士の恰好をする必要がない。
伝令の立ち居振る舞いから口上、入城する武士たちの仕草、
ベースのない人間の無駄な動きや滑舌の悪さによって、すべてが台無しになる。

そのなかで、
もっとも印象に残ったのは、
田中裕子のマクベス夫人でした。
たしかな科白術、身体能力、
彼女は、
別に歌舞伎調に台詞を吐くわけでもないけれど、
マクベス夫人として超越してそこに存在し、光り輝きました。
夫マクベスを出世させたい気持ち、
夫の気弱なところ、それを支えるところ、
気丈であっても内なる恐怖には打ち勝てぬところ、
しかし「マクベス夫人」らしく恐れるところ・・・。
「マクベス夫人」として一貫しながら、ほころびから心情に変化をきたすところに
大いに共感し、納得できました。

その上、打掛を翻すときの裾さばき、腰をかがめて挨拶するときの膝の曲げ方、
くまなく所作がいきとどき、流れるごとし!
そうかと思えば、大胆に脚を開いて、すべての様式を一瞬にして打ち壊す
和の所作と洋の動作の見事なチェンジ・オブ・ペース!

「まれ」で能登のおばあちゃんやってる人と同一人物とは思えない!
「ペリクリーズ」でも「藪原検校」のときも思ったけれど、
この人は作品に合わせて別人になれる人なんだなー。
蜷川さんがやってほしいことを一番呑み込んで形にしていたのは、
田中さんだと思います。

ただ、舞台は水ものですからねー。
公演は10月3日まで1カ月あります。これからどんどんよくなることでしょう。

公演日程などはこちらへ。






Last updated  2015.09.13 19:06:42
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2015.04.12
カテゴリ:シェイクスピア
蜷川幸雄率いるさいたまネクスト・シアターの公演です。

さいたまネクストシアターの公演はこれが6回目。
シェイクスピア作品では前に「ハムレット」を上演していますが、
「彩の国シェイクスピア・シリーズ」に数えられるのはこれが初めてです。

完結まで「あと7本」に迫った「彩の国シェイクスピア・シリーズ」が
いまや蜷川の寿命との競争になりつつあるのが心配なところで、
そのために今回のを1本と数えた、とうがって考えてもしまう私。

プロデュース作品というのは、
人気俳優に声をかけるだけに、スケジュール調整は至難の業。
だから、
蜷川作品に専念できる人たちで構成されるネクストシアターで作るのは
当然といえば当然かもしれない。

それだけネクストシアターの実力が認められたということでもあります。

ただ、
今回はゴールドシアターの面々も急遽出演が決まり、
このゴールドシアターとのコラボレーションが、非常に功を奏したと思います。


お時間のある方、ぜひさいたま彩の国芸術劇場までお運びください。
最初の5分間を見るだけでも価値があります!

冒頭でどれだけ観客を演劇の世界に引きこむことができるか、
蜷川幸雄の演出は、それに尽きるとさえ言われ、
本人もそこを常考えてコンセプト作りをしています。

今回も、ド肝を抜かれました。
パンフレットにある
韻文で書かれている「リチャード二世」を
「イメージで飛ばす」というのはこういうことか!と
本当に、惚れ惚れしました。

まだ19日まで公演がありますので、
楽日すぎてからもう一度加筆しますね!

オドロイテほしいので。






Last updated  2015.04.15 08:59:49
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2015.02.14
カテゴリ:シェイクスピア
蜷川幸雄演出、
藤原竜也主演、
平幹二朗、鳳蘭、満島ひかり、満島真之介出演。
それだけで話題になる舞台で、
超プラチナチケットとなりました。
スケジュール決められず出遅れたらもうチケット手に入らず、
毎日「おけぴ」とにらめっこでようやく取れた「ハムレット」。

行ってまいりました。

私がこの「ハムレット」それも
蜷川演出の「ハムレット」なかでも
藤原竜也主演の「ハムレット」に執心なのは、

こちらから、
かつての蜷川ハムレットのレビューを読んでいただければわかると思います。

待ちに待った、
藤原竜也による12年ぶりの「ハムレット」再来。
それも、蜷川のもとで。

以下、率直な意見です。
舞台装置など、ネタバレありますので、
観劇がまだの方はご注意ください。














・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


12年という年月は、ちょうど干支のひと回りにあたる。
15歳でデビューし、21歳で「ハムレット役者」の仲間入りをした藤原は
その「ひとまわり」でどれだけのものをつかんだのだろうか。
蜷川作品に限らず、多くの舞台を務め、
「デスノート」「カイジ」「るろうに剣心」など、映像の世界でも活躍した。

しかし自身「地に足がついていない」ような頼りなさを覚えていた藤原が
さいたまネクストシアターの「ハムレット」に刺激され、
もう一度蜷川のもとで「ハムレット」をやりたい、と直訴した、と聞く。

「自分自身が何者なのか発見する」ために。

さいたまでの公演も最終版の2/14。
まだ藤原は「自分」をみつけられず、もがき苦しんでいるように感じた。

そこに、
12年前のハムレットはいなかった。
12年後のハムレットもいなかった。

ハムレットという役を演じようとする「藤原竜也」という役者が、
素のままで激しく動いていた、というべきか。

感情の起伏が激しく、
狂ったふりをしながら本当に狂ってしまいそうで、
でも狂気の中を突っ走りながら、頭の芯は驚くほど研ぎ澄まされている
そんなハムレットは、
ちょっと気を許すと人格がバラバラになって
場面と場面の間を生きていくことができなくなる。

ひとつひとつの場面ではさすがと思わせるものはあったものの、
(特に、王妃の寝室の場面、旅の途中でのフォーティンブラスとの交差、
 オフィーリアへの「尼寺へ行け」など)
科白が一本調子なのと、
他の俳優の演技に対するリアクションが乏しいのが目についた。

それが「リアル」なハムレット像の標榜なのかもしれないが、
ここは舞台である。
映像の世界のリアルとは異なる演技体系を求めてしかるべき。
舞台の上で生きつつも、舞台の外の観客の息遣いを意識することが
彼にはできていないように思えた。

タイトルロールの色が乏しい中、
平幹二朗が圧倒的な説得力でクローディアスの苦悩を演じる。

兄嫁と王冠を手に入れる「野望」のため、
実の兄を謀略で殺した罪におののきながら、
「手に入れたものを手放さないで、神に懺悔できるだろうか」と
揺れ動く心のありようを振り幅の広い演技で示した「祈り」の場は白眉。

また、
自ら仕込んだ毒入りの盃を、愛する王妃ガートルードがあおってしまった後の、
クローディアスの表情たるや、
舞台の前面では藤原ハムレットと満島レアティーズが剣をふるい、
スピーディーで緊張感のある殺陣を披露しているにもかかわらず、
まるでカラヴァッヂオの描くゴリアテの首か、ホロフェルネスの首のごとく、
目を見開いてガートルードを見つめ続ける平クローディアスに、
こちらの瞳も釘づけである。

平は先王ハムレットの亡霊役も務めており、
私にとってはもはやこの舞台が「ハムレット」ではなく
「クローディアス」という題名ではなかったかとさえ思われるくらいだった。

この舞台で、
私を演劇的カタルシスにいざなってくれたのは、
上記の平クローディアスのほかには、
鳳蘭演じる王妃ガートルードだ。

最初の一声の、なんと若々しいこと。
ハムレットがクローディアスに嫉妬するほど、
「きれいなお姉さん」ならぬ「美しすぎるお母さん」であったことが
鳳蘭の「声」によって決定づけられた。

美しいから、クローディアスも欲しくなった。そして血迷った。
クローディアスに奪われて、息子のハムレットも爆発した。

そういう「近親相かん」的解釈を全面に出した今回の芝居の
核心をつかみ、つくりあげ、すべてを回したのは、鳳蘭の手腕である。

満島ひかりのオフィーリアは、
役に対する理解不足により未消化。
あまりに現代的な解釈過ぎて、
各場面でのオフィーリア像がバラバラになってしまった。

しかし、
オフィーリアという役は本当に難しい。
蜷川もシェイクスピアも初心者なので、しかたがないだろう。
声の通りのよさや歌のうまさは抜群なので、
何かのきっかけがあれば、きっとよくなると思う。

オフィーリアの兄レアティーズ役の満島真之介も然り。
まっすぐな役を、まっすぐに演じて好感は持てるが、
そんなまっすぐな青年が、なぜクローディアスの「奸計」に
一気に加担してしまうのかに説得力がない。

そこでの「黒い」部分が見えないと、
最後に迷ったり改心したりする部分への橋渡しができない。



蜷川の演出そのものはどうだったろうか。

もっともすばらしかったのは、
前述の「クローディアスの祈り」の場面。
井戸水による禊という日本的なものと、
その後の懺悔の背中に差し込む光というキリスト教的なものとの融合は、
神々しいまでに美しかった。
(この「井戸での禊」は平の提案だとのこと)

次に度肝を抜かれたのが
「ゴンザーゴ殺し」の劇中劇。
歌舞伎の定式幕や付け打ちという図式は珍しくもないが、
その幕が切って落とされたときに出現した雛人形の段飾りは
美しく、そして
一瞬で「ゴンザーゴ殺し」のコンセプトを示す力があった。

このときの、劇中王・竹田和哲、劇中王妃・砂原健佑が健闘。
様式美の中に、人物の心情をしっかりと表現した。

それに先立って行われる「ヘカペ」の嘆きを歌舞伎調で演じ
プリアモスを立役(男役)即座にヘカペを女方という
大門伍朗の実力が際立った。

しかし、
全体を通じて背景に使われる
「19世紀終わりの日本の、貧しい人々が済む長屋」
という大道具のコンセプトが、
いったいどのくらいの意味をなしていたのかは不明。

これがあってもなくても、
舞台全体の様相はあまり変わらなかったのではないかと
私は思う。
「19世紀末の」「日本の」「貧しい」人々は、
物語に何もインボルヴしてこないのだから。

また、
フォーティンブラスの描き方についても
言及しておきたい。
うつむいて、生気なく、小声で話すフォーティンブラス。
それは「あり」だと思った。

「小声」は、フォーティンブラス役の内田健司からの提案だという。
さいたまネクストシアター所属の内田のアプローチを、
蜷川は採用した。
そのことは、「若者」とは何かを常に考える蜷川らしい決断で、
時代をリアルに描きたい彼らしい選択である。

だから「あり」ではあるが、
それでもあの小声はあまりに小声すぎる。
少なくとも、ラストはその「小声」の中に、
「小声」でもデンマークを支配するフォーティンブラスとしての
確固とした生き方が見えなければならない。

弱いなら弱い、
つまらないならつまらない、
やりたくないならやりたくない。
そこが見えなければ、演劇ではない。

内田には、まだそこがわかっていないので、
「リアル」に流れた分、
かえってラストが「段取り」っぽくなってしまった。
声だけ「リアル」でも、
科白は「大時代」なのだから。

内田は「小声」という枷があったから特別だが、
彼を除いても、
全般的に誰もが科白を早口でまくしたて、不明瞭。
あるいは
観客の耳に意味の杭を打てずに左から右へと流れていった。

だから、
平と鳳の科白だけが際立ったともいえる。

早口でまくしたてても3時間半かかるのだから、
ゆっくりしゃべるのは不可能かもしれない。
けれど、
シェイクスピアは科白劇だ。
科白劇で科白が聞こえなかったら、
いったい「ハムレット」を原作通りにやる意義はどこにあるのだろうか。

その意味で、
さいたまネクストシアターの「ハムレット」に
私は感服したのである。
若い俳優の卵たちが、「科白劇」に真っ向から挑み、
シェイクスピアの「科白」の意味をまっすぐに観客に届けたから。

それをふまえての今回の「ハムレット」が
この出来であることが心から残念でならない。

さいたま芸術劇場では2/15(日)が最終日。
これから
大阪、台湾、ロンドンと公演は続く。

蜷川ハムレットの総決算という意味もあるらしい今回の興行。
どんどん進化して評判をとってほしいし、

藤原竜也には厳しい道だが、
ぜひ
生まれ変わってもらいたい。
そしてもう一度、さいたまに凱旋し、
「まいりました」と言わせてほしい。






Last updated  2015.02.15 13:27:37
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2013.10.04
カテゴリ:シェイクスピア
さいたま芸術劇場とシアターコクーンでやってきた
蜷川幸雄演出のいわゆる「シェイクスピアは全部やる!」シリーズ。
私はずいぶん観ているほうだと思うけれど、
実はオールメールの舞台は、1つも見ていません。
1つには、人気のイケメンタレントが抜擢されるので、チケットがとりにくいから。
2つには、喜劇が多いから。
3つには、そのキャストでやる意味はどこにあるのか、あまり食指が動かなかったから。

でも今回は、とても見たいと思ったの。
それは市川猿之助が出るからでもなく、オールメールだからでもない。
「ヴェニスの商人」という作品が好き。
この作品を、蜷川がどう料理するのか。それも、あのキャストで。

そして、感想。
これぞ、オールメールの醍醐味、な作品だった。

考えてみれば当然。ポーシャは男装するわけです。
男が女役をやっていて、女性として男が男装する。このパラドックス。
そこを、中村倫也がこれ以上ないほど美しく、颯爽と、楽しく演じきった。

私は「ヴェニスの商人」について、いろいろ考えてきました。
ここにお立ち寄りくださるとわかる。少し下のほうにスクロールしてみてね)
その中でも、今回のポーシャは出色の出来だったと思います。
単に見た目が美しいとかではなく、
声の通り方、出し方、女性としてのポーシャの魅力、ポーシャの喜怒哀楽、
お茶目なところ、賢いところ、よく出ていました。
その上で、
「男性として女性を演じながら、女性が男装するという表現を完璧にこなした」のです。
べた褒めですが、本当に素晴らしかった。

一方、猿之助のシャイロックはどうだったか。

キャストの多くが蜷川シェイクスピアに何度も出演したことのある人々である中で、
一人だけ歌舞伎調である猿之助の演技には、正直最初は違和感を感じました。
でも、そのうちにわかってきた。
これはそのまま、キリスト教社会における非キリスト文化のユダヤ人が醸す違和感であり、
もっといえば、西洋文化がギョッとするアジア的な文化のあり方なんだ、と。

また、
シャイロックが「いやな奴」だと観客が感じることも、けっこう新鮮だった。
観客は、特に日本の観客は、弱い方に味方する。
どこかで「自分は弱い」→「弱い方に感情移入」→「弱いほうが正しい」
→「だから、勝つ、あるいは主人公として描かれる」
という図式の中で物語に入り込む。
しかし、
今回は多くの人が、憎らしいことをいうシャイロックではなく、
宗教とか父権とか、そういうものを越え、ただ「好きな人と一緒にいたい」と思って行動する
シャイロックの娘とかポーシャに肩入れして見ていたのではないだろうか。

それは、「ヴェニスの商人」が生まれたときの、原初的な構造を味わったわけで、
今回の芝居はとてもオーソドックスだったんだと思う。

「人肉裁判」がクライマックスではなく、
「若者たちよ、よかったね」の大団円で閉幕が心地よい。

こうした構造の中で、それでもシャイロックのことが気になる。
いやな奴だけど、
「あいつはあのあとどうなるんだろう」と思う。
「私の血は赤い。私だって悲しければ泣く。あなたたちとどこが違うのか」の言葉で
「そういわれりゃそうだよね」と初めて気づくような、そんな感じだ。

いじめられるほうではなく、
いじめるほうの罪悪感がちょっぴり残る、「ヴェニスの商人」だった。

だから、
この舞台は成功だったと思うけれど、
蜷川渾身の作品、とまではいかなかったのではないか、というのが私の正直な感想だ。

シャイロックをどう位置付けるかというところでのコンセプトは当たったが、
舞台装置とか、そういう「舞台空間の創出」という意味では、お手軽だった。
いつもは奥行のある舞台を縦横無尽に使うけれど、
今回は壁があるだけ。
ヴェニスの裁判所、ポーシャの屋敷のある島、シャイロックの家、
場所が変わっても壁は同じ。
だから、色彩とか奇抜な大道具とか、時代性を越えたコンセプトなどで、
ダイナミックに心を動かされる、いわゆる「蜷川マジック」はなかった。

今回は、
蜷川の力というより、俳優の力が大きかったのではないだろうか。
異世界としての猿之助を際立たせられるだけ、
蜷川シェイクスピアの常連たちは、観客に「ヨーロッパ」を
「赤毛もの」ではなく「こっちが普通」に見せてくれた。
そこが、
このシェイクスピアシリーズの歴史の重みである、と思った次第である。

とにかく、
中村倫也という俳優のこれからに、ものすごく注目していきたい。










Last updated  2013.10.04 14:35:55
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2012.10.19
カテゴリ:シェイクスピア
3年前、
新国立劇場で上演されたシェイクスピアの「ヘンリー六世」
演出、美術、キャスト、どれをとっても素晴らしかった。
「ヘンリー六世」は大長編で、新国立・鵜山仁演出は3部作で約9時間、
その半年後、競作となった蜷川幸雄演出版(さいたま芸術劇場)では2部作約7時間だった。

(そのときのレビューはこちらこちらそしてこちら。)

その中に出てくるリチャードが主役となる「リチャード三世」
スピンオフというより「その後の物語」、
薔薇戦争に揺れまくるイングランドがその後どうなったかを描いた物語。

それを、「ヘンリー六世」のキャストのままに、
同じ鵜山仁演出で、
タイトルロールのリチャード三世を岡本健一
マーガレットを中嶋朋子でつくったのが今回の「リチャード三世」だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回の白眉は2つ。

1つは前半、
今の王エドワード(今井朋彦)に夫(ヘンリー六世)と息子を殺されたマーガレットが
亡霊のようにして現れ、
瀕死のエドワード王の「次の権力」をめぐって対立する人々に
それぞれ呪いの言葉をかけていくところ。

「エドワード三世」はいろいろな舞台や映画を見たけれど、
この場面がこれほど意味を持つと思ったことはなかった。
マーガレットを演じる中嶋朋子の長いセリフにこめた一つひとつの感情表現が
非常に見事で、
まるで一編の一人芝居を見るかのごとき充実感。

それとともに、
かつて「グリークス」(蜷川幸雄演出)でカサンドラを演じた中嶋が
トロイアの破滅を予言しながらもアポロンの呪いによって誰からも信じられず、
「信じない、カサンドラの言うことなんか、信じない!」と
一笑に付された、あの場面も思い出していた。

「北の国から」で蛍を演じたときから、ずっと天才の冠をつけられていた中嶋だが、
私は彼女の演技にそれほど感銘を受けたことはなかった。
今回、初めて、彼女の才能と、そして成長を全身で感じた次第。

そのマーガレットに「私の代わりに王妃になった者」としてさんざん毒づかれた
エドワード王の王妃エリザベスに扮した那須佐代子が、2つ目の白眉。

「王妃」といっても最近結婚し、連れ子まで連れてきた後妻で、
まあ、いわゆる「後から来た社長夫人が自分の親戚をどんどん重用する人事を乱発」し、
それで政争が巻き起こっている。
自分の権力の源であるエドワード王は瀕死で、
彼との間の幼子を早く王位につけないと、自分の立場が危ういという状態から
この話は始まっている。
冒頭から、窮地に立たされている苛立ちを
クリアな滑舌と王妃らしい立居振舞で好演していたが、特に後半は圧巻の演技だった。

王は死に、幼子はリチャード三世(岡本健一)に殺され、すべてを失って彷徨う後半、
仇ともいえるリチャード三世と出会ったエリザベスは
リチャード三世から思いもよらぬ願いを聞かされる。
息子2人を殺しておいて、残った娘と結婚させてくれ、というのである。

望み通り王冠を戴いたリチャード三世はこのころ、
フランスのブルターニュ地方から攻め入ったリッチモンド(浦井健治)率いる反政府軍と
戦いに入っていた。
リッチモンドはヘンリー六世の親戚(浦井くんの二役です)。
どちらが正統なるイングランド王としてふさわしいか、
リチャード三世は自分の正統性を一層確固たるものにするため、
エリザベスと兄王エドワードの娘、つまり姪と結婚しようとしたのだ。

ありとあらゆる罵声と呪いの言葉を浴びせるエリザベスに対し、リチャード三世は
「たしかに今まで、あなたにはひどいことをした。すべてを奪った。
 反省してます。だから悔い改めます。
 あなたから奪ったものを全部あなたの娘にあげましょう」という。
さらに
「あなたの娘に私が子を産ませて、その子に引き継がせましょう。
 そうすれば、あなたはまた、国母になれる!」とまで!

この場面、実は物語前半の、
リチャード三世がアン王女を口説き落とす場面と対になっている。
夫と舅(夫の父)を殺されたアンは、
その舅の棺の前で、リチャード(このときはグロスター公と呼ばれる)に求婚される。
仇であり、そして「醜い」体をしていて恋愛対象に絶対ならないこの男に対し、
最初、見下し罵倒しツバまで吐いていたアンだったが
「二人を殺したのはあなたの美しさ、あなたへの愛ゆえ」
「だから二人の死にはあなたにも責任がある。いわば私とあなたは共犯者」とか
何が何だかわからないことを言われ続けて、とうとう求婚を受けてしまう。

この場面は非常に有名で、私が見た中ではアル・パチーノが最高に説得力があり、
次が内博貴だったということについてはこちらこちら、そしてこちらを。

今回のアンは森万紀だった。
丁寧なアンだったが、魅力には乏しかった。
「教科書的な」とでも言おうか。
リチャード三世(グロスター公)の「言葉」に、敢えて乗ってしまう女のずるさや、
若さゆえの軽率さが出ていなかった。
誇り高いけれど未熟。地位と美貌を自認し、直情型で自分を持たない。
でもの未熟だからこそ、アンの魅力は増幅される。そういう役だ。
アンは出番が少ないから、
そこで爆発的に存在感を発揮しないと「この人、必要だった?」みたいな役回りになる。

せっかくの名場面も、残念ながら冗長に感じられた。
一面的というか。
アンが、リチャードの権力に屈しただけでなく、
「女」としてリチャードにほだされていく、その過程がうそっぽい。 
それはアンの森の力不足だけでなく、リチャードの岡本も精彩を欠いた。
リチャードの「男」としての魅力が、
不具の体躯や慇懃なものの言いようの陰で、今まで隠されていた
リチャードの「男」としての魅力が、ここではまるで見えてこなかった。

それに対し、
この那須エリザとの絡みの場面は二人の丁々発止が見事で、
リズミカルにたたみかけるところ、ふとペースを変えるつぶやき、自嘲、嘆き、
那須が流れをコントロールしつているようで
やがて岡本が全身全霊で目的を成就しようと襲いかかる気迫が勝り、
最後に
エリザべスが「私は娘に話を持っていかなければならないのだろうか…」と陥落する。
その一瞬に、観客として共感できたのだ。
リチャード三世がエリザベスの、人間の心の中のもっともいやらしくしかし本能的な部分を
一直線に突いてくるところに説得力があり、
エリザベスはリチャードに負けたのではなく、
自分の弱さに負け、頭ではなく「生き延びる」本能によって軍門に降ったということが、
その葛藤と哀しさが、
ひしひしと伝わってきた。
リチャードが「策略」ではなく、「生き延びる」ためにエリザに懇願した。
その「必死さ」のぶつかり合いがリアルであり、劇的であったのだ。

最後にリチャード三世は、「未来の妻へ贈ってくれ」といって、義母に「口づけ」をする。
その強引なキスが、とても効果的だ。
魂のぶつかり合いを経験して、エリザベスは「女」としてリチャードの「男」を感じた。
「男」としての魅力を感じた。
それを象徴していると思った。

サバイバル力とは、生きようとするエネルギーとは、それは、フェロモンに通じる。
だって、生殖行動とは原初的に
「自分一代を超えて生きようとする本能的願い」だったはずだから。

「生きている」を全身で感じられる瞬間を、
那須エリザは岡本リチャードと過ごしたのである。
それは、言葉によるセックスのようなものではなかったか。
自分の身体のなかに、絡みつき、入り込まれるような感触。

私は、
この場面によって、
棺の前でリチャードの求婚を受けるアンの気持ちが初めて分かったような気がする。

…でも…。

岡本くんは、女ごころをわかってなかった感じだな~。
去っていくアンやエリザベスに向けて
「こんな(軽率な心変わりをする)女が今までにいたか?」と嗤うセリフが
あまりに早すぎる。
もっと余韻がほしい。
たとえ「生き延びるためのウソ」であっても、「ウソだぴょーん」じゃぁあんまりだよ。

結婚詐欺は、「結婚」については詐欺師かもしれないけど、
カモに対して本気で恋するくらいじゃないと、っていうでしょ。
あの感じが、岡本リチャードにはなかったな~。

ていうか、
身体的なハンディを強調するあまり、
「オツム」まで子どもぽくする演出って必要だったんだろうか。
卑屈で慇懃であっても、「おばかさん」じゃない。
彼は知能犯で、残忍で、狡猾で、計算高くて、
そして戦いにもそれなりに長けていたはず。
「ヘンリー六世」では武勲も数々あったわけだし。

そういうリチャードでなければ、
国を二分した戦いでリーダーになることはできなかったはず。
「フランス」から攻め入られた国を「守る」ほうのリーダーとして。
ちょっと違和感がありました。

か・な・り・期待して行ったので、
満足はしなかったかな。

浦井健治のリッチモンド、丁寧な役作りでかっこよかったけど、
私のベスト・リッチモンドの川久保くんには及ばなかった。
(川久保くんのリッチモンドについてはこちらを。)

今井朋彦、立川三貴、吉村直、シェイクスピアを知り尽くし、さすがの演技。
小長谷勝彦は小芝居がいぶし銀だった。
脇役だけど、「この人、自分が主役だと思って演ってるな」と思わせるのが、
城全能成と前田一世。
城全は、平幹二朗と麻美れいの「王女メディア」や「冬のライオン」でも光っていた。
前田も発声と存在感があって、これからを期待したい。

今のところ、私のリチャード三世は、やっぱり市村正親がナンバーワンです。
くぐもった感情を秘めた役をやらせたら、この人の右に出る人はなかなかいません。






Last updated  2012.10.19 11:01:18
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2012.04.06
カテゴリ:シェイクスピア
さいたま芸術劇場が蜷川幸雄を芸術監督に迎え、
「シェイクスピアは全部やる」を掲げたのは、1998年。
今を去ること14年前である。
その理念と継続の力が、この「シンベリン」を「名作」に仕上げた。

こんなに「大したことない」話に、
ここまで説得力を持たせ、リアリティーを持たせ、大団円がうれしくなる、
そんな演出をした蜷川幸雄という人に、ただただ脱帽。

そして、
ここまで揃えられるかっていうくらいの俳優達が舞台上に集結。
蜷川の求めるものを、体現できる人々ばかりである。

「笑い」のツボを心得た3人の名優たち。
タイトルロール・シンベリン役の吉田鋼太郎、
おバカな王子・クロトーン役の勝村政信、
そして、あちこちで笑わせながらも
「不義って何?」のひと言だけで観客を涙させる、大竹しのぶ!

手だれである。
彼らの間合いとトーンの緩急は、ロンドンでもきっと人々のハートをつかむだろう。

かたや、フレッシュな若者たちの挑戦。
つい最近、ネクストシアターでハムレット役を好演した川口覚が、
透き通った素直な声で、またまた「隣りの青年」のごとく懐に入ってくる。
逆に浦井健治は、ファンタジーな役どころをファンタジーとして演じきる。
野生味と品格を併せ持つ甘辛の魅力。「実は王子」にふさわしい。

早口で情報過多なシェイクスピアのセリフを、
1人ゆっくり、噛みしめるように吐く窪塚洋介の存在感。
動の中の静、笑いの中の孤独、幸福の奥の地獄。
最後まで、1人だけ幸せになれない男を演じきった。

阿部寛もよく頑張った。
たまにセリフがもごもごするものの、
まっすぐすぎるのも困ったもんだの男の直情を、どこまでも突き進んだ。
ありったけの言葉で「女」を呪う場面は圧巻。
つかさん、天国で見てるでしょうね。

それにしても。
台詞を決して変えない蜷川が、
ただ一つの読み替えを行った。
その一つの読み替えが、舞台をつくり、クライマックスをつくり、
そして、結末のゆくえをつくった。

あまりに安直、とする向きもあるかもしれない。
しかし、
あの造形と、そしてサイレンの音とが、
私たちにこの、とんでもなくドタバタなかの国の大昔のロマンス劇を
より身近なものに、よりリアルに、説得力をもって感じさせているのは確かである。

パンフレットには、
この「シンベリン」はヨーロッパの近代演劇ではうまく料理しきれないから、
日本的、アジア的なテイストでやってみてくれ、蜷川、っていう感じで振られた、
と蜷川が思っている点が書かれていた。

そのもくろみは、当たったね。
これは、まさに歌舞伎なのだ。
「やつし」つまり、「実は」「実は」の多重構造。
男が女に、女が男に、の構造。
死んだと思っていた人が、生きている構造。
仇が、実は親子だった、の構造。
怨念がほとばしる構造。
そして「くどき」の数々。
だまされて、誤解されて、しかし最後にすべてが溶解する構造。
死んだ人が、生きている人に作用する構造。
死体と愛欲が隣り合わせの構造。

南北さんの世界、ですよ。

現在、日本経済新聞に連載している「私の履歴書」で蜷川は、
子ども時代に母親に連れられて、よく歌舞伎やらオペラやらを観たと書いている。
歌舞伎で、暗闇を、無言の手探りでたくさんの人がうごめく「だんまり」を
子ども心に面白いと思った、という。
その一節に当たったとき、
彼の舞台上に必ず現れる「スローモーション」は、「だんまり」なんだな、と
妙に納得できた気がした。

とにかく。
複雑すぎるストーリーなのに、前半1時間があっという間にすぎる。
白雪姫の継母をほうふつとさせる鳳蘭の怪演にも注目。
観るべし。






Last updated  2012.04.08 11:52:09
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2012.02.24
カテゴリ:シェイクスピア
若い世代に、
それもほぼ無名の俳優達に、
どこまでこの作品ができるのか。

それは、
あの蜷川幸雄にしても、一種の賭けであったと思う。
彼は、使命感から賭けをした。

そして、
その賭けは、大いに当たった。

一途で、まっとうで、深みのある、最高の「ハムレット」を見た。

蜷川幸雄に脱帽する。

ぽっかり空いた一日、
思い立って2時間かけて劇場に行き、当日券に並び……。

行って良かった。
魅力的な人間たちの織り成す濃密な人生の迷路に放り込まれ、
「ああ、終わってほしくない!」と思うほど、この舞台に酔った。
本当に、幸せな時間だった。

シェイクスピアを愛するすべての人々は、
この舞台を観に行って、
シェイクスピアの偉大さを全身に浴びる至福の4時間を過ごしてもらいたい。

今、詳細を書いていられないのが惜しいのだけれど、
とにかく、主役が抜群の出来である。
川口覚のハムレット。
のっけから涙が出そう。
気弱な部分、不安な部分、鼓舞する部分。

ガートルードの土井睦月子もよい。

しかし、
「よい」といえば、全員よい。
最初の、歩哨の2人の科白からして、よい。
シェイクスピアの科白の意味が、一つひとつ心にしみこんでくる。

一語として不要な言葉はないことを、思い知らされる。
あそこにも、ここにも、
全体を理解するための伏線が、ちゃんと現れているではないか。
今回初めてわかったことも、たくさんあった。
それだけ、
コトバが肉になっている、ということだ。
若人に、乾杯!
彼らの努力に、本当に感謝したい。

もちろん、蜷川の演出も冴える。
ガラス張りの「地下」は非常に効果的に使われる。

そして、こまどり姉妹である。

ここで使うのか! というところで彼女たちの歌う
「幸せになりたい」は、
まさにハムレットのテーマ曲たりえるのである。

たった3分で、世界観を見せつける、名曲の力。
それを70歳すぎてなお、薫り高く、一流の歌声で披露できる、スターの力。

すべてが、舞台。舞台の力。
すべてを結びつけ、引き出した蜷川幸雄という演出家に、恐れ入った。

2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」

3月1日まで。
絶対に損しない舞台である。

さいたまネクストシアター、
ますます楽しみだ。








Last updated  2012.02.26 13:11:56
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2011.01.21
カテゴリ:シェイクスピア
昨年末に「寒花」を見て以来、
新宿三丁目のSPACE雑遊に行く回数が増えた。

地下室の、小さな小さな空間で繰り広げられる濃密な芝居は、
「目撃者」としての観客の心を大きく揺さぶる。

今回は、「寒花」を演出した岩船祐太さんの構成・演出で
演劇集団砂地によるシェイクスピア作品「リチャード2」(「2」は本来ローマ数字)を見た。

リチャード二世の世界といえば、
ずーっとずーっと前の話なのに、
そこで繰り広げられているのは、小泉政権から民主党への政権交代劇、
そして民主党内での権力闘争そのもの。

ああ、政治家っていうやつは、
権力を握るということは、
そのときマスコミは、
そして大衆は……と、本当に考えさせられます。

その上、
「今を生きる二人の若い女性」が別次元の話としてはめ込まれ、
同時進行で彼女たちの物語もすすむので、
そのへんがさらにリアリティを増幅させた。

休憩なしでシェイクスピアを浴びるって、かなりエネルギーを必要としますが、
ぜひご覧になってもらいたい舞台です。

この芝居の中で
「演劇というのは、今を映す鏡なんです」という言葉が出てきます。
一方で、
「演劇というのは、今という時代性がなければならない」という言葉もあります。

多くの名作が古典として長く長く演じられているのはなぜか。
その中に「今」を映す鏡が仕込まれているから。

何百年昔の物語であったとしても
その「鏡」のありかを知った人がつくり、
その「鏡」に映された人物を俳優が「今」に通じる人物として演じたときに、
その物語は魂を吹き込まれ、その時代にも成立する。

その読み方、解釈の仕方は、
人によって、時代によって変化する。
だから、面白い。だから芝居は、生き続ける。

そのことを、強く強く意識させられた作品でした。

新宿三丁目の「SPACE雑遊」で1/26まで。
当日券もあるようです。






Last updated  2011.01.23 12:49:51
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2011.01.09
カテゴリ:シェイクスピア
今年の10月に、さいたま彩の国芸術劇場での公演が決まりました。
その後、韓国でもやるそうです。

アントニーには吉田鋼太郎、クレオパトラは安蘭けい、です。

アントニーを演ずる吉田は2009年、自ら主宰する「AUN」で
やはり宝塚出身の安寿ミラをクレオパトラに迎え、主演しています。

その公演については、
世田谷クリップ(FM世田谷の番組)で、安寿さんと植本潤さんと3人で
楽しくお話されています。
このお話を聞くと、「アントニーとクレオパトラ」について
すごくよく理解できるので、一度お立ち寄りをおススメします。
35分くらいの番組です。

この前、平幹二朗さんのアントニー、松井誠さんのクレオパトラで
この演目は観たばかりなのですが、
吉田さんのアントニーも想像がつくというか、お似合いな気がします。

主人公はアントニーですが、
このお話が成功するか否かは、
とにかくクレオパトラの造形一つ。
日本人の持つクレオパトラというイメージを生かすにしても壊すにしても
「なるほど、これがクレオパトラね」と納得させられるかにかかっています。

番組内で安寿さんもおっしゃっていますが、
このクレオパトラはかなりむずかしい役。
安蘭さんがどう料理するか、楽しみです。
それ以前に、
蜷川さんがどう料理するかも興味津々ですが。

「カエサル」でセルヴィーリア役の高橋惠子さんが見せたような、
威厳と美しさと、さらにお茶目さと色気を共存させた魅力を
私は期待したいです。






Last updated  2011.01.13 19:36:20
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