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カテゴリ:Creed
三島由紀夫の『豊穣の海』全4巻を読み終へた。夏休みにタイに行かうと決めてから、タイに関はる小説といふことで(大きく関はるのは3巻だけだけが)、読み始めてから、結局遅々として読み進まず、タイで1、2巻を読了し、戻つて9月に3巻、10月に入つて4巻を読み終へた。
だうにもかうにも、3、4巻のあたりから苦しくなつてきて、難しくなつてきて大変且つてんやわんや、あたふたしてゐた状況だつたが、なんとか読み終へた状況だ。 然し、唯識思想をもつて仏教の最高峰とする三島に、宮崎哲弥などは疑問を呈してゐたが、実際のところ、だうなのかといふことは終ぞ理解できなかつた。唯識思想の要諦は3巻に多く出てくるが、其れを情景描写によつて三島流に多く表現してゐたのが4巻だつたといふ気がしてゐる。従つて3、4巻はストーリー自体の流れはさほど無ひのだが、やや難解だつたといふ感想である。例へば、有名な『ミリンダパンハ(ミリンダ王の問い)』における蝋燭の炎の比喩が、慶子が透を問ひ詰めるあたり(ストーリー的にはクライマツクスか)では暖炉の火として出てゐるといふ感想などを持つた。 『唯識の思想』(横山紘一・NHKライブラリー)なども読んでみたが、やはり阿頼耶識を仮定にせよ設置してしまうといふことは、仏教の根幹である無我、空と対立するやうにも思はれる。蝋燭の炎は刹那刹那で異なるが連続してゐるといふが、さうであるならば、種子熏習(※)するといふことと矛盾するやうに思はれてならなひ。種子熏習するといふことはあくまで同じものがあるといふことになり、さうであるならば、自我なるものが、そこには存在してしまふのではなからうか。ここに否定し去つたはずの我(アートマン)が顔を出すことになる。密教になると、すべては大日如来であり、従つて我も大日如来であれば宇宙も大日如来であるとして、梵我一如(アートマン=ブラフマン)のバラモン思想と同根となつてしまふ。 いずれにせよ、自我を否定し去つた空の思想、無我の思想は思想史上他に類を見なひほどのドラスチツクなものであるといえるだらうが、唯識思想は精緻を極めてはゐても、そこまでのドラスチツクさは持つていなひのではなからうかといふのが、現在の私の率直な感想である。 まあ、一読して判じうる程度の内容で無ひことだけは確かだらうから、いつの日か再読してみたひと思ふ。 六輝=赤口、九星=七赤金星、中段十二直=満、二十八宿=井、旧暦九月四日 しゅうじくんじゅう:前世における徳や業、経験してきた一切が阿頼耶識に蓄積されることである。唯識思想は阿頼耶識をたてることにより、諸方無我、一切皆空であるにも関はらず輪廻の主体があるといふ立論を可能とした。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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