「まさか大試練の日であろうとは思わなかった私は(中略)
くたびれきって座敷の真ん中にねころんでいた」
◆ 広島逓信病院 の院長だった故蜂谷道彦 さんの「ヒロシマ日記」 は
淡々とした書き出しで始まる。
▲ あの日、病院に近い自宅で被爆。
全身にガラス片が突き刺さったまま病院へ駆け付けた。
初めは横たわったまま治療の陣頭に立った蜂谷さん。
56日間の人や街の様子をつづった。十数カ国語に翻訳。
世界で最も読まれた原爆記録の一つだろう。
▲ 日記の中に看護婦の「高尾の富ちゃん」として登場する青木トミ子さん
(85)=広島市西区。
爆風で廊下を50メートル飛ばされたが、大きなけがをせずに済んだ。
白衣を血まみれにしながら徹夜で患者を手当てしたことや、
瀕死(ひんし)の同僚を助けに行く様子が描かれている。
▲ 病院に寝泊まりしながらやけどに消毒のガーゼを当てたり、
切断手術の介助をしたり‥‥。
トイレにまであふれた患者たちは、次々と息絶えていった。
自らはどうしても人前で体験を口にできなかった。
「あまりにむごうて‥‥」
今も心は揺れ動く。
▲ 「われわれが生死を共にした記録を世界平和へのささやかな捨て石」にと
蜂谷さんが日記を世に問うて56年。
今のうちに伝えなければ、と悩む被爆者も少なくあるまい。
私たちも耳を澄まそう。
http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201108060085.html
(8・6の天風録「ヒロシマ日記」by 中国新聞)
80歳で亡くなった小松左京 さんは戦時中、
子ども向け雑誌で「 原子爆弾」という新語を知った。
◆ 夢物語のはずが、数年して日本に落とされる。
「科学技術の発達はいったい人類をどないすんねんと思った。
それもSFに本格的に取り組む一つの動機でした」
と、小紙(朝日新聞)に語っている。
▼ 近刊『3・11の未来』 (作品社)に寄せた絶筆で、その人は書いた。
「私は、まだ人間の知性と日本人の情念を信じたい。
この困難をどのように解決していくのか、もう少し生きていて見届けたい」
▼ 小松さんは核兵器を憎みながら、科学技術の善用を信じ、
原子力の活用を「人類の大きな挑戦」とみていた。
それは、ごく一般的な立ち位置でもあった、3・11までは‥‥
▼ 原爆と原発。 似た音を持つ20世紀の発明は、ともに核分裂の熱を使う。
一つは人殺しに、一つは発電に。
しかし、放射線は善悪を弁(わきま)えない。
この猛獣を地震国で飼いならすのは難しいというのが、福島の教訓 だ。
▼ 広島と長崎での追跡調査は、
被曝(ひばく)には 「これ以下なら安全」 という量はない と教えている。
国会で説明した児玉龍彦 ・東大教授によれば、
福島からは広島原爆20個分 (ウラン換算) の放射性物質が飛散した。
残存量もはるかに多く、影響の広さ、長さは計り知れない。
▼ 田口二千陸(ふじろく):
「原発は悪いものだとは言ってません。怖いものだと言っているのです」。
今、私たちが肌で感じる恐怖や不快を思えば平和利用の恵みも色あせる。
脱原発の試みは科学の敗北というより、被爆国の理性と考えたい。 http://www.asahi.com/paper/column.html
(8・ 6の天声人語「原爆と原発」 by 朝日新聞)
◆ あのB29戦闘爆撃機 エノラ・ゲイを、広島・長崎の被爆者3人が見学
◆ 福島応援ソングを皆で歌おう、大きな声で~♪ VIDEO
I love you & I need you ふくしま‥‥猪苗代湖ズ [HD]
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