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カテゴリ:原発関係 訴訟
2025年1月17日15時~、東京高等裁判所101号法廷で「福島原発さいたま訴訟」(※)の控訴審・第5回期日が行われました。
※ フクイチ核災害によって埼玉県内に避難を余儀なくされた28世帯95名が、総額・約11億円の損害賠償を求めて2014年3月に国と東電を訴えた訴訟。2022年4月、さいたま地裁は東電にのみ約6500万円の支払いを命ずる判決を言い渡した。被告と原告(88名)双方が控訴し、東京高裁で控訴審が継続中。 原告側代理人(弁護士)2名が提出した陳述書の要旨を読み上げ、35分程度でした。 裁判官と双方の代理人とのやり取りは、今後の主張立証に関するもので、専門家でない私には要約して書くことは難しいですし、何らかの結論が出たものではないので、支援する会の報告を待ちます。 被告側は国・東電合わせて12名も来ていました。原告側は原告2人、弁護士4人でした。 (リンク) ●福島原発さいたま訴訟を支援する会 私は裁判所前集会と報告集会で、昨年10月のひろしま訴訟の判決と、「国の賠償責任認めず+東電の責任の軽減化」という悪い流れが生じつつあるように見える旨を発言させて貰いました。 尚、さいたま訴訟控訴審の次回期日は、5月13日・火曜日・15時・東京高裁101号法廷です。 17日に出廷されていた原告2名は、この期日に合わせて陳述書を提出したとのことで、支援する会が綴じたものを配布してくれました。 フクイチ核災害が個人の人生に及ぼした影響と被害を語っているものと思うので、ほぼ全文を下記に掲載します。個人が特定されそうな情報は省き、年数は西暦で記載し、読み易いように段落を付けています。ごく一部省いた箇所は、内容とは関係のないものです。 個人的に感想を書きたいのですが、書き始めると長くなるので陳述の紹介に留めます。決して、原告の状況や訴えている内容を軽視しているのではありません。 ====女性原告(発災当時、いわき市在住)の陳述、ここから==== 1. はじめに 私は、東日本大震災の後の福島第一原子力発電所の事故の為に、2011年3月14日、福島県いわき市内にあった自宅から夫、子どもと共に避難し、現在も避難先である埼玉県入間郡で生活を続けています。その経緯については、陳述書をさいたま地方裁判所に提出し、本人尋問でもお話ししています。この中では、主に避難した経過や避難生活で私や子どもがどのような負担を負ってきたかを中心にお話ししていますが、そのことを踏まえて、この間、私が避難を続けてきた中で経験し、感じてきたこと、特に人間関係を喪失してしまった経緯などについて改めてお話しします。 2.避難の経緯 私達が住んでいたいわき市では、強制的な避難指示はありませんでした。ただ、震災後、福島第一原発の1号機、3号機と相次いで爆発した報道がされる中で、私が親しくしていた保育園の母親達から、避難することに決めたという連絡が入るようになりました。 ・・・、私は、いわき市の豊富な自然の中で子ども達に伸び伸びと育って欲しいと思い、保育園を選ぶときにも自然と親しむ保育の実践をしている保育園を選び、長男も長女も泥だらけになって遊び、散歩の途中では野山に生える野草を摘んで調理したりと、毎日を自然の中で過ごしていました。そうした保育園で知り合った保護者の人達とは、子育ての方針など互いに共感し合えるところも多く、日々色々な情報を交換したり、子ども達も互いの家を行き来して過ごすような、本当に親しい関係を築いていました。 そうした友人達の何人もから避難を決めたという話を聞いて、わたしもこのまま生活を続けて大丈夫なのか、不安が募っていきました。 ・・・、そうした言葉をただ聞くだけではなく、私自身もニュースなどを必死に観て、少しでも状況を知ろうとしました。ただ当時は、原発でおきた事が報じられるだけで、今後どうなるかなどというようなことは凡そ分かるような話もありません。それなのに「直ちに健康に影響はない」と言った、何の保障にもならないような言葉だけが聞かれるばかりでした。このような言葉を一体どんな根拠で言っているのかも分かりません。寧ろ「直ちに」と言われれば、時間が経てば影響が生じることもあるのではないかと不安になるばかりです。実際に、避難を呼びかけるものではなくても、不要な外出をしないように言う広報車なども走っていました。 そうした中で、保育園の保護者の中でも家が近く、私が一番親しくしていた方からも避難すると連絡が有ったことで、私達も避難することを決断しました。私はこのことを夫に話し、うちの子ども達とそれぞれ1歳違いの子がいる姉にも話した結果、3月14日、私たち家族と姉の家族でそれぞれ1台の車に乗り込んで、その子の夜までかけて何とか辿り着けた栃木県内の避難所に避難しました。 3.避難所の暮らしの中で 避難所での生活が始まっても、落ち着いた生活ができる筈も無く、限られたスペースで何とか過ごすことが精一杯の状況でした。とりわけ、避難指示を受けて避難してきた方達との関係は、当初こそお互い協力し合える関係でしたが、4月に入り、避難指示の出ていない地域で職場や学校が再開したことで避難所を出る人が現れ始めると、避難指示の出ていない地域から避難した私達に向けて、帰れる場所が有るなら帰れと言った言葉まで向けられるような状況になっていました。 その頃、夫の職場も再開した為、生活を維持する為に夫だけいわき市に戻っていきました。また、子ども達が通っていた保育園からもメールなどで色々な連絡は来ており、4月からの登園の再開などの連絡も来てはいました。ただ、お知らせの時期は正確に記憶していませんが、登園再開の前後の時期に保育園の父兄に向けて保育園の除染作業への協力を呼びかけるようなお知らせも来ていました。そうした話を聞けば、保育園が子ども達の為に何とか安全にできるように努力しているのは判りますが、一方で、単に登園を再開したと言っても、こうした作業をしなければ安全とは言えない状況なのだと感じざるを得ません。又、市内全体の除染などまだ話にも出ていないような状況で、除染できたとしても保育園の中だけのことです。それでは、それまでのような保育園の周りの田圃や野山で自由に過ごすような保育は到底できませんし、それ以前に日々の生活も到底安全が保障されていないことが明らかです。夫の職場が再開した、保育園が再開したからと言っても、いわき市に戻ろうと考えることはとてもできませんでした。 夫がいわき市に戻ったのと同じ頃、一緒に避難してきた姉もいわき市に帰っていきました。・・・姉はいわき市に家を建てて1年程度で、そこを離れて生活することはできないと考えたのだと思います。この時、姉との間でどんな話をしたのか、余り記憶にはありません。その頃は私もそのまま避難所にはいられず、何とか次の行き先を探さなければならない必死の思いだった時期でもあり、少なくとも、姉を引き留めるようなことができる状態でもありません。姉も、やむを得ない決断で家に戻るとしても、私に一緒に戻らないかといったことを言える状況ではなかったと思います。姉とは、その後も関係は保っていますが、その当時は、お互い悩んだ末の決断である以上、一緒にいたいとは思っても姉の決断に口を出すことはできませんでした。 そうした経過で一緒に避難してきた夫や姉家族と別れてしまい、たった一人で子ども達と避難を続けているのは、本当に心細い気持ちでした。ただ当時の状況は、まだ原発の事故自体がこの先どのようになるかの見通しも立たず、連絡が幾らか続いていた方達とのやり取りを通じて聞く話にしても、避難を決めた状況に比べて安心できるような話があった訳でもありません。結局、1人子どもを連れて避難を続ける不安がどんなに大きくとも、私が何とかして子ども達を守らなければならないと思い、必死で行き先を探しました。その後、何とか私の義兄の言葉を頼りに一時的に川越市に身を寄せ、その後、4月16日から現在の住所である埼玉県内の住宅に転居しました。 4.転居後の生活の中で深まる孤立 漸く現在の住所に避難することができた後も、そこでの生活を何とか成り立たせるために必死の思いが続きました。私自身、採択にいた経験があり、幾らかの知人はいたものの、私達が決断した避難の事で迷惑をかける訳にはいかないという思いが強く、簡単に頼ることはできませんでした。そんな中で、いわき市に戻った夫に経済的に頼ることも出来ず、直ぐにでも仕事を見付けなければなりません。子ども達も、漸く家族だけで暮らせるようになったものの、新しい保育園にも直ぐには馴染めず、夫にもなかなか会えないことを泣きながら訴えられ、避難をしたことで子ども達を苦しめているのではないかと悩み続けました。ただ、そうしたことを誰かに相談したくとも、私達が勝手に避難してきたように言われた避難所での経験もあって、やはり私達の悩みを安心して話せる人を探すこともできない状態でした。 一方、いわき市で親しくしていた同じ保育園の保護者など、多くの人とは避難を契機に連絡は途絶えていきました。改めて連絡しようにも、悩みながらいわき市での生活を続けている人に、私達がどう見られているか考えると、とても連絡することはできません。実際、この時期よりも後になりますが、話をする多少の機会は有りましたが、お互いの暮らしのことになると気まずい雰囲気になってしまい、以前のように気楽に話ができるような関係ではありませんでした。 私達と同時期に避難した方の中では、その頃も幾人かは連絡していた人達はいます。でも、ある人はいわき市に戻るという話を最後に連絡が来なくなってしまったり、また、避難するという話を聞いた以降、その後も分からないままになったりと、徐々に減っていきました。最後まで連絡を取っていた方も、私が夫と離婚した前後の頃だったと思いますが、避難していた埼玉県内から東京へ転居してしまいました。その方とは同じ埼玉県内で避難していたこともあってとても親しくしており、互いの避難先を行き来することも有りましたので、転居の際には私も手伝いに行きました。ただ、その方も以前からいわき市に残った親族との間でいわき市に戻るか避難を続けるか意見が分かれてに悩んでいたことを聞いており、東京への転居についてもどんな話し合いの結果だったのかまでは聞くことができず、そうしたことへの気兼ねもあって、東京への転居後、暫くして連絡をやり取りすることもなくなってしまいました。 ・・・夫とのことは、(地裁審理で説明しているので)繰り返しません。夫と離婚したことで帰る先も無くなってしまった私に、記憶ではその年の末頃だったと思いますが、母から孫の顔だけでも見せに来て欲しいと言われ、いわき市に一度だけ帰ったことはありました。その時、母の家には私達が泊まれる場所も無く、姉も年末年始に姉の夫や家族と過ごすため無理に頼むことはできず、結局、別れた夫に頭を下げて家に泊まらせて貰うような状況でした。久し振りに家族と会えた安堵よりも、私にももういわき市に戻れる場所は無いと痛感させられるような経験でした。 2012年になった頃のいわき市の状態は、漸く除染の計画が立てられたばかりで、放射線の影響を避ける生活の負担もあって、新たに避難する人がまだ続いていた時期だった思います。それだけでなく、私がいわき市で築いてきた人間関係も殆ど失われてしまった状態で、直ぐにいわき市にかえることなど、到底できませんでした。一方で、埼玉で生活する中でも、避難の話をすれば「避難指示がなかったのに避難しているの?」等と言われたり、幾度も傷つけられてきた経験から、周囲の人に簡単に頼ることもできず、私にできたことは、孤立して誰の手を借りることもできないと思いながら、漸く確保した子ども達の生活の場を守る事だけでした。 その後、先の見通しも立たない状態で心身の不調を抱えて必死に仕事をしながら、子どもに辛い思いをさせてしまっていることに自責の念を抱き、毎夜のように自分の選択が正しかったのか、悩み続け(ました)。 2014年には無理が続いて仕事も出来なくなり、またそのことで近隣の人達から、避難者だからお金を貰って暮らしている等と言われ、遂には家を出ることもできない程の状態にまで追いつめられていきました。 5.訴訟の中で感じてきたこと 2015年頃になり、支援をしてくれる人達との新たな出会いに助けられ、漸く少しずつ、外出できるようになり、仕事も再開できるようになっていきました。又、この訴訟の原告として加わり、幾度も自分の経験を振り返って語る中で、漸く自分が子ども達の将来を守る為に精一杯のことをしてきたのだと肯定できるようになりました。それでも、自分の決断が子供を苦しめているのではないかと一人自分を責め続けてきた日々の苦しみは忘れることはできません。 そうした経験を語っても、この訴訟の中で、被告から私が離婚したことやいわき市を出てきたことは自分が勝手に決めたことに過ぎないように言われています。あれほど悩み苦しんで決めてきたことを、自分達で勝手に決めたことのように言われる度に、たった一人で悩み続けてきた頃の自分に引き戻され、幾度も苦しんできました。確かに、強制的な避難指示を受けていない私達には選択肢はあったのでしょう。でも、選択肢は、子ども達の将来の不安を抱えたまま制限の多い暮らしをいわき市で続けていくのか、生活さえ見通せない状況でもいわき市を離れるのか、という選択に過ぎません。その何れも誰も望んでいない選択です。被告の言葉は、余りりに理不尽で無責任なものです。今回、改めてお話しすることも、私自身、また辛い思いをすることになるだけではないかという不安を感じています。こういった思いは、私以外の当事者の人達も同じではないかと思います。辛い思いを抱えていても簡単に話すことができない、話しても傷つけられてしまうことを恐れている、そんな方も多いと思います。日々の生活を維持してゆくのに精一杯で、裁判所に足を運ぶことさえ蒸すが強い方もいます。そうした中で話した言葉に対して、せめて真剣に耳を傾けて貰いたいですし、話をすることすら辛い実情があることも理解してもらいたいと思っています。 さいたま地方裁判所の判決では、私達が避難したこと自体はやむを得なかったことと認めて貰えました。ただ、それは一時避難しても、直ぐにまた戻れるかのような言い方でしかありませんでした。避難することでどんなことが起きるか、全く見ていない言葉だと感じます。 今回、避難をしたことで、私がいわき市内で築いてきた人間関係が、どのように失われ、孤立してしまったかを中心に改めてお話しました。このような経験や思いも、私の個人的なものではなく、多くの避難者の方に共通していたと思います。私のこのような経験談から、一度避難して地域を離れれば、簡単に戻ることができない状態になってしまうことを、分かって頂けないものでしょうか。判決の内容からは、私達が避難を更に続けざるを得なかった理由を、裁判所にきちんと受け止めて貰えたとはとても思えません。 6.最後に 今も私達は避難先での生活を続けています。子ども達は、いわき市にいたよりも長い時間をそこで過ごし、多くの人間関係を築いてきましたから、今からそれを壊すことはできません。子ども達のことを思えば、私達はこのままの生活を続けていくしかないと今は思っています。でも、それは望んでそうしてきたことではなく、避難した先で何とか生活を続け、漸くそう思える状況になった、そう考えて前を向いていくしかないということです。 今回の事故が無ければ、いわき市の豊富な自然の中、夫は勿論親戚とも親しく行き来し、子ども達の幼い頃からの友達、私にとっても信頼できる友人達に囲まれ、伸び伸びと育つ事ができた。そんな暮らしがあった筈ですし、そのことを思わないことは今もありません。それらはもう取り戻すことはできません。 仮に今からいわき市に戻ったとしても、(事故前と)同じ環境も同じ人間関係も最早残っていません。それは私達にとって、今回の原発事故によって奪われ、取り戻すことのできないものです。そうした被害にも、今度こそ真摯に目を向けて貰いたいと心から願っています。 以上 ====女性原告、ここまで========男性原告(発災当時、郡山市在住)の陳述、ここから==== 1.私は2011年3月11日の東日本大震災とこれに続く福島第一原子力発電所の事故の際、福島県郡山市で生活しており、翌年6月には私の妻と子ども達を埼玉県の公務員住宅に避難させましたが、私自身は、家計を維持する為にずっと郡山市の自宅で生活を続けてきました。 避難に至る経過や世帯が分離した避難生活の中で負ってきた苦痛や負担について、これまでに陳述書等を提出してきましたが、今回、郡山市で生活を続けてきた私自身が、自主的避難等対象区域内で生活を続けていた者として、経験してきたことや感じてきたことを改めてお話します。 2.私は・・・中学校で教員をしていました。私の勤務先の学校では、東日本大震災の地震そのものの被害も受けており、点検の結果安全とされていても、度重なる余震の都度に危険を感じる中で、2011年4月には学校は再開しました。当時、浜通りから郡山市内へ避難された方も多く、この年の入学式の際には、制服も間に合わない子達が多くいたことを今でも覚えています。 混乱した状態でしたが、教育を受けさせる義務が優先して、学校を再開しないわけにはいかない、そうした実情であったと思います。この訴訟の中で、学校が早期に再開したことが、日常生活の回復の1つに挙げられているように思いますが、実際には、暮らしている子ども達もいる以上は、そうする他ない状況であったに過ぎないでしょう。 実際に再開したと言っても、学校給食はまだ再開できず、屋外の活動も、マスク、長袖長ズボン着用の上、中学校では3時間、保育園や幼稚園では30分と制限するルールも設けられていました。 私が今の生徒達を見て、こうした制限や、学校以外の場所でも屋外で体を使った活動ができずにきたことで、それ以前に比べて情緒面や運動面が低下してしまったと感じていることは、(地裁での原告本人)尋問の際にお話ししました。ただ、当時の状況の中では、こうした対策自体は、気休めに放ったかも知れませんが、部分的な対策であり、到底十分ではなかったのではないかと痛感せざるを得ないことばかりだったと思います。 例えば、上記のように屋外での活動には制限はあっても一応可能とされていましたので、その範囲でグラウンドで活動する子も多くいましたが、校舎に戻ってくるとき、砂だらけになった状態で戻ってきた生徒が教室に内で砂を払っている姿を見ると、屋外活動時間を制限すれば対策として足りるようなことではないと思わざるを得ませんでした。また、郡山市内の学校では、除染計画が立案されるよりも早期に市独自の判断で学校や保育園などの除染作業が行われました。ただ、土埃が舞わないようになるまで散水してからの作業開始ではなく、十分な散水をしないまま、かなりの砂埃を立ててからの作業でした。机上の計画ならそれで良いかも知れませんが、近隣の人達はどれだけ不安だったろうかと思います。実際、当時の同僚だった教員たちは以前から線量計を複数持っていたので、学校の内外を手分けして調査してマップを作製するなどもしましたが、正確な時期や数値までは記憶していないものの、コンクリートの校舎内は比較的低い反面、校舎外ではやはり線量が高い場所が点在する状態でした。そうした状態では、学校が再開した、学校では除染作業があったというだけでは、地域の中で安全に生活できる状態が回復できたということには全くなりません。 そもそも、学校で行ってきた対策や制限の緩和などと言ったことも、それがされれば安心できると生徒や保護者が納得して進められてきたものではなく、長崎大学の山下教授などのアドバイザーからの指摘を基に行政側で判断したことに過ぎなかったと思います。 私自身の体験で言えば、学校給食のことが1つの例として挙げられます。郡山市では学校給食の再開に先立って、一時牛乳給食という形で牛乳だけ出していた時期が有りました。その正確な事情は分かりませんが、業者の事情もあったと聞いています。でも、実際に出された牛乳を飲まなかった生徒は多いです。私は、その当時給食の担当をしていたので、残された大量の牛乳が非常に印象に残っています。 また、水道水からも放射性物質が検知され、浄水場に大量に活性炭が撒かれていたテレビのニュース映像が流れると、途端に市内のミネラルウォーターが一斉に売り切れました。行政の方針や対応で安心できている訳ではなく、実際に生活している市民は、悩みながらなんとか安全な生活ができるように苦労していたのです。 3.こうした状況の中で、どんな対策が必要だとか、何に気を付けて行動するかといった事への考え方は、本当に人それぞれに異なっていたし、今も異なっているというのが偽らざる感想です。ただ、そのことが色々な問題を生じさせていたと思います。 1つは、不安を感じ、できるだけ対策をして欲しいと思っても、なかなかそのことを言いだすことが難しい状況ができてしまっていたという点があると思います。私自身、妻と子ども達が避難できる先を見つけるまで、食事などにも気を遣い、なるべく日常の外出も控え、その分週末にはなるべく子ども達が自由に過ごせるように郡山市を離れて過ごすようにしてきました。一方で、学校で同じようにすべきだとか、そうした方が良いと言い出すことは、それ自体でとても難しい事でした。 もとより、私の勤務先は公立の学校でもあって、学校自体が独自の考え方で行動を決める事も出来ず、基本的には市で決めたことをやっていくしかありません。そうした中で、もっとこうすべきだと思っても、どうにもできない事に対して、不安を煽るようなことを言っていると反発されるだけに終わってしまいます。個人的な気持ちを言うにしても、相手を選んで話すようにしなければならない、そんな状態であったと思います。私は、それでも説明会へ出席した際などには実名で質問をしたりはしていたのですが、私の考えを理解してくれる相手でさえ、私が名前を出して発言するのは控えた方が良いのではと心配される状態でした。実際に、私ともう一人の同僚が学校で危険性を訴える意見を述べたことがありましたが、そのことが私の勤務評定に影響したのではと思わざるを得ない状態だったこともありました。 又、もう一つには、それぞれの考え方の違いのために、対策を行っても徹底することができないという問題が生じてきたと思います。・・・私の子どもの通っていた保育園で(も)対策の違いが大き(く)、・・・学校や保育園をはじめ、色々な場面で対応がバラバラなので、その都度、それに対応して行事に参加するかどうかを決めたり、個人で様々な対策を講じなければならない状態でした。 更に除染については、より深刻な問題を生じていたと思います。郡山市でも除染計画が立てられ、2012年頃から市内の各地での除染が始まりました。ただ、そもそもの除染計画は、今回の事故による追加放射線量を低減する、半減するといった目標の下で行われていますから、もとより地域の状況を事故の前に戻すいうものにまではなっていません。その対象も人が頻繁に出入りする場所にが限られており、除染自体されない場所も残っている不完全なものでしかありません。 更に、それに加えて、計画された除染計画ですら、それぞれの考え方の違いの為に徹底することができていません。私の自宅の除染作業は、2013年12月に漸く実施されたのですが、その際に近隣の皆さんが全て同意したというものではありません。少なくとも、自宅の北側の駐車場は除染作業がされていません。その後、定期的に線量計で自宅付近の測定をしているのですが、北側の方がやや高い状況になっています。それでも、予定したエリアを終えると、除染計画としては一通り終わったことにされてしまい、遺稿の対策もして貰えません。 ・・・(私の)自宅自体がやや低地にあり、雨水などの流入も多く、敷地全体が周囲の影響も受け易い為、結局自宅の除染作業が一度行われたというだけで、周囲もきちんと行われていなければ、除染自体の効果も十分得られません。 具体的に言えば、私の家は防水ハザードマップでは50cmの浸水エリアに当たっており、震災後も大雨の為に水が上がります。最近では、2024年8月にも床下浸水しており、水か引いた際には泥が付着しています。この時には、市に泥の清掃を依頼したのですが、却下されてしまいました。 このような状態ではいくら地域の除染をしたと言っても、除染した箇所さえ安全な状態を維持できる訳ではないし、それ以上の事はなにもされないままになっているのです。 4.そうした個人の考え方に違いが生じたのは、今回の事故で起きた事自体の影響に不確かな点が未だに多いことに加え、そのような状況を行政がきちんと説明せず、いつも曖昧な根拠で安全を強調するばかりであった為と思います。強調どころか、安全だという説明に疑問を挟もうものなら、風評被害とか、復興を妨げる大罪人扱いされてしまう状況ですらありました。 私自身、自分や家族の健康を守る為にも、また、教員として働いていた立場でも、きちんと情報を得る必要があると思い、福島や埼玉・東京で開かれていた説明会などに積極的に参加してきました。しかしその中で、きちんと納得できるような説明が有ったという実感はありません。しかもその説明が、以前に聞いたものと矛盾するということも多々見られました。 非常に印象が強かったのが、甲状腺ガンの患者数の増加の問題があります。当初は、子どもに甲状腺ガンが出る訳がない。そして、5歳以下の子どもからは癌が出ていないから今回の原発事故と甲状腺ガンの患者の増加は関係ない、という説明でした。ところがその世代の患者が確認されてからは、ただ事故とは関係ないとだけ言われるようになりました。それを聞けば、当初の説明は何であったのか、その場凌ぎの説明だったのではないかと思わざるを得ません。 この訴訟の中で、市からの広報で、早くから「安全だ」とか「生活に支障がない」とアナウンスされていたではないかと主張されていますが、きちんとした説明もないまま、ただ安全と言われていたから、それを簡単に信じ、安全と思って過ごせるようになることは有り得ません。寧ろ、不十分な説明によって暮らしている側は混乱し、先に見た通り、対策も徹底できない、そうした状況がうまれてしまったと思います。 結局、日々生活を続ける中で、一人一人が土手に生えているフキノトウは食べて安全なんだろうか?農産物の出荷制限が全て解除されているのだろうか?川魚は?そんなことをそれぞれが悩みながらね注意していなければならない状態が続いていました。 5.又、今回の事故の影響について不安と言った言葉を使いましたが、今の状況を単に不安という言葉で言って良いのか、という点も強く疑問に感じています。 先に述べた通り、今回の事故の影響についても誰にも確かな事は分かっていません。福島県では県民健康調査なども行ってはきましたが、それが十分なものとは到底言えませんし、子ども達にこれからどういった影響があるのかは尚更分りません。 自分自身のことを言えば、今回の事故の後、職場の健康診断で要精密検査と言われ、実施した大腸カメラで大腸の半分に炎症が起きていることが分かりました。5年の経過観察後も、要精密検査で、大腸カメラで小さなポリープが見付かり、そこでも経過観察となりましたが、5年後に下血し、急いで大腸カメラで組織検査をしたところガンであることが分かりました。検査は全て同じ病院の同じ医師に診て貰いました。リンパ節転移もあり、ステージは3でした。それからは、過酷な闘病が始まりました。12時間の出術、抗癌剤治療に加え、術後8ヶ月は人工肛門でした。その1年後には今度はステージ1の腎臓癌で摘出手術を受けました。痩せ衰えた父を見る子ども達の視線が辛かったです。 子こどもはまだ小さく、妻は難病を持っています。 上記のような治療の間も、フラフラになりながら仕事をしてきました。抗癌剤の副作用は半端なものではなく、水道水を飲んだだけで喉が詰まり呼吸困難になります。手足の痺れは取れることがなく、皮膚感覚は戻ってこないです。欠陥は脆くなり、注射は恐怖です。腸の切除で腹腔中の癒着が不快感と転移の恐怖を呼びます。切り詰めた直腸の影響は大きく、トイレが近くに無いと不安です。食事も、少量お腹に優しいものしか食べられません。3度に及ぶ手術と入院は、地獄のような痛みと、被害を軽く見たさいたま地裁の裁判官への呪詛に近い恨み節の中で過ぎました。血圧が70台にしか上がらないと心停止が心配になり、氏を身近に感じる。しかし、平穏な気持ちでないと成仏できない、なので、まだ死ねない。そんな思いで今も生きています。幸いなことに、現在はCTに写るサイズの癌は無いようです。 こうした私の例を、今回の原発事故の結果だと特定することはできないかも知れませんが、そもそも低線量被曝は確率的な問題であり、同じ線量被曝しても疾病を発する人もしない人もいます。過酷な経験を経てきた自分としては、生活の為に避難を選択できなかったことによって低線量被曝を受け続け、その結果健康被害が生じたと感じざるを得ませんし、現実に健康被害が起き得るものだと強く実感せざるを得ません。 こうした低線量被曝を受け続けるリスクについて、国もさいたま地方裁判所も軽視し過ぎです。少なくとも、私達のように原発事故による放射性物質の飛散を現に受けた地域で暮らす中で感じていることは、漠然とした心理的不安では無く、本当に起き得る健康被害の可能性に対する問題なのです。 避難指示を受けなかった地域で生活することは、安全と感じられるようなものでは到底なく、子どもを抱えた世帯であれば、この生活から脱出してより安全な地域に避難したいと思うのは、当然のことです。私にすれば、「地域」という文字が「地獄」に見えます。 6.そうした思いから、私達の家族は今も分離した状態で避難を継続しています。ただ、その避難すら、今続けられないような状況に追い込まれています。私の妻と子どもは、埼玉県内の住宅で生活していますが、家賃の援助は既に打ち切られてしまっており、二重生活によって本当に厳しい経済状況です。そんな中でも、苦渋の選択として契約書に押印し、それ以降家賃の負担をしてきました。今はそれでも更新自体をさせて貰えず、立ち退きを求められています。 国連では、今回の事故による避難者について特別報告が行われています。その中で、避難者は、国による避難指示の有無によらず、私達のような避難指示対象区域外の者も含めて考えなければならないこと、そして安全な生活を守る為に避難をする自由が保障されなければならないことが指摘されています。でも、そのような保障は全くされていないのが実情です。 今も郡山市内は、私達が嘗て暮らしていた状態には戻っていません。 本来、その状態に戻るまで避難を継続する負担を保障すべきです。それでも私達が失ってしまったもの、取り分け子ども達に対してできなかったことや、家族が別々に暮らすことで与えてしまった負担など、保障されるべきものもあります。そのことについて、高等裁判所では、真摯に目を向けて貰いたいと強く願っています。 以上 ====男性原告、ここまで==== 春橋哲史(Xアカウント:haruhasiSF) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025.01.19 11:14:47
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