起業家の視線。
ビジネスカフェのアメリカスタッフと秋葉原で飯を食いながら久闊を叙す。語るべきことは山ほどあった。変な話だが、このアメリカの会社は、俺が社長をやっていながら、昨年は一日も出社しなかった。いや、日本の会社の建て直しに忙殺されて出社できなかったのである。それでも、今年も、この二人の活躍で黒字を出してくれた。設立以来、六年間、この会社には、さまざまな人間がかかわってきた。最初の四年間は、まったく利益を出すことはできなかったのである。もともと、シリコンバレーに縁の、NPOが中心になってつくった会社である。アドバイザリーボードには、スタンフォード大学の元副学長や、有力インキュベーター、当地の代表的なベンチャー企業家、などが名を列ねていた。設立時には、二百名のビジネスパーソンが、日本から駆けつけて、現地でも大きな話題になった。俺はもともと、この会社の設立を少しお手伝いしただけの通りすがりの助っ人に過ぎなかった。最初は大手商社の現地法人の社員が、CEOをやっていた。つぎに、このNPOの日本代表であった大手企業の専務だった男が交代した。さらには、現地採用のバリバリの女性コンサルタントが社長になった。誰がやっても、赤字を垂れ流すだけであった。「日本とアメリカをつなぐブリッジインキュベーション」という設立の趣旨は良かった。響きは良かったが、本当はそれが空っぽのビジネス理論であることに、当時気づくものはすくなかったのである。シリコンバレーバブルが崩壊し、この会社にかかわった多くの野心家たちは去っていった。会社がにっちもさっちも行かなくなったとき、誰かがこの会社の死に水をとらなければならない。俺がその役回りを引き受けることになると思っていた。なぜなら、最初に、この会社の設立を働きかけたのは俺だし、助っ人とはいえ、俺はどこかでコミットしていたからである。最初に何か儲け話がありそうだと思っていた奴らがいなくなった。つぎに、「ウィン・ウインの関係でビジネスをつくる」とか、Think globally, act locally. なんて言っていた連中が、いつのまにか、別の会社のCFOやら、COOになっていた。誰も本気で、自分たちがこれで生きていこうと思っていなかったということだ。残ったのは、現地で地を這うように生きてきたO君と、ジャーナリストを目指して頑張っていたH女史のふたりであった。彼らの踏ん張りがなければ、この会社は最初の二年で消えていたかもしれない。彼らもそれぞれの自分の生きる道を探して去った後、いまのビジネスカフェを支えているTくんと、O女史が入ってきたのである。彼らはまったく違っていた。俺がこの会社の死に水を取りに現地に出かけたとき、彼らは何のオブリゲーションもないこの会社を拠点にしてしぶとく生きてゆく道を模索していた。そして、二年間、これまでどんな大言壮語のエリートも、大学の教授も、アメリカ通のコンサルタントもできなかったこと、つまりこの地で、自ら仕事を作り出し、顧客を獲得するということの手ごたえを掴んでいた。俺は、かれらの単独に耐えながら、それがあたりまえだというように、ひとつひとつ石を積み上げている姿を想像して自然に頭が下がった。こういう時期が、起業するということには必要なことなのだということである。少し前に、大学院で授業のお手伝いをしたことがあった。俺は、起業するとはどういうことなのかについてお話をした。始まって数分で、生徒さん(とはいっても実務経験二年以上のビジネスパーソン)の目つきが変わった。ビジネススクールで、教えている連中は、ほとんどが大学で理論を学んだり、エリートコースを歩んできた成功者である。しかし、彼らには、起業するということの意味は教えることができない。生徒さんたちが、本当に聞きたかったことは、起業すると、いったい自分の身に何が起こるのかということなのである。それは、楽天やライブドアといった企業の成功物語ではない。起業のほんとうの意味を体に染み込ませた人間だけがこの物語にりアリティを吹き込むことができる。自分がほんとうにやりたいことの前で、他者の侮蔑や不如意などを意に介さない遠方を見据える視線の持ち主。覚めたワンタンスープをすすりながら、俺はつぶやいていたと思う。「きみたちが、大学院で教えたらいい。きみたちこそが、それにふさわしいとおもう」