熱鬧(ルーナオ)の靖国を歩く。
ふと、気がつくとミーツの元名物副編集長にして、馥郁たる鉄火場乱れ髪おんな博徒、青山女史のブログが、ウチダくんの長屋で復活している。以前はミーツゆかりのブログで何を思ったかたったひとりの反乱、上層部批判、というよりけつをまくって会社の怒りを一身に浴びて、そのままお払い箱と思いきや、どうも彼女の方から三行半をたたきつけてしばらくは酒の匂いのするところに蟄居していたらしい。俺は、彼女の「いきつもどりつ」感あふるる文章のファンだったので、この度のブログ復活には、慶賀の至りと安堵していた。そしたら、本日またもうひとりのおんな丈夫。神戸上海横紙破りの姑娘(クーニャン)がブログ復活しましたからと岡山から俺の店にやってきた。ハイシである。「ごつうべっぴんやで」と江さんからお聞きしていた姑娘には、初対面といった気がせず、神鋼ステイーラーズの好漢平尾選手&フィアンセとそのまま大坂の、フラメンコ酒場で意気投合したものであった。大阪湾から熱風が吹き付けてくるだんじりの夏の話である。店は、フラメンコの雄たけびがきつくてお互いに喋りはすれども声は聞こえぬといったところであったが、じんわりと、染み込む時間であった。しばらくして、ハイシは岡山のほうへお嫁に行ったのだという。青山女史が「ブログの時代は終わった」と呟いて書かなくなったその頃、ハイシもまた「やーめた」と言ってブログから消えていたのである。いや、何を隠そう、俺もなんだかブログてえものが、うざったくなっていた時である。なんか、そういう気にさせるような「灰汁」(あく)がこのブログってものにはありますですな。まあ、この灰汁は、俺自身の身体からも染み出しているのではあるがね。そんなわけで、旧知の駒鳥二人が灰汁にまみれたブログの巷に帰ってきてくれたのは嬉しい限りである。さて、昨日は仕事で九段の坂を上っていた。平日というのに熱鬧(ルーナオ)している靖国までの道を歩いていて今日は何の縁の日か、ついにわからなかったが、九段のダイナミックな掘割地形にかかる見事な桜に、皆興じていたのである。─上野の駅から 九段までかってしらない じれったさ杖をたよりに 一日がかりせがれきたぞや 会いにきた作詞:石松秋二 作曲:佐藤富房 、名曲九段の母の冒頭の一節である。北海道新聞のWEB版戦禍の記憶にこうある。─第二次世界大戦中によく歌われた軍国歌謡「九段の母」。関東軍に現役入隊し、旧満州(現中国東北地方)滞在中、大小さまざまの慰問団が訪れた。どの団の演目にもこの歌に振りをつけた新舞踊が入っていた。 歌では、田舎に住む母が、東京の上野駅から靖国神社のある九段までつえを頼りにやってくる。戦死して靖国に神としてまつられた息子に、悲しみや嘆きではなく、立派にまつられたうれしさや感謝の気持ちを語りかける。戦死すると賜る金鵄(きんし)勲章を風呂敷包みから取り出して見せるくだりに差し掛かると、いたたまれない気持ちになった。靖国の前を通る時、言葉にできないような感慨が胸に去来する。この場所は、死者を弔う場所としては騒々し過ぎる。九段の坂を上りながら、美しい桜の風景の中にいて、この、母の気持ちを靖国参拝賛成派も、反対派もいまだ言葉にできないという思いにとらわれるのである。簡単に言葉にできない思いというものがあることだけは記憶に止めて置くべきだろうと思う。