|
カテゴリ:藤沢歴史散歩
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク
皇大神宮の前の道を南に進み、大きな花栽培の温室沿いの路地を右折し 東海道線の線路に向かって歩く。 右側にこぢんまりとした寺とその入り口に小さな神社が。 朱の鳥居と小さな社殿。 江の島弁財天道標の解説板が鳥居の横に。 この杉山検校(けんぎょう)の道標は、以前は近くにある日本精工(株)の工場敷地内に あったが昭和22~23年頃この場所に移動されたとのこと。 本来はこの道標の一面には「一切衆生」と刻まれているのであるが、 いたずらで「一」の上に一本足されて「二切衆生」となっていると。 見てみるとなるほど「二」と刻まれていたが、どの時代にも悪戯する人間が いたのであろう。 境内には墓石や庚申塔がたくさん集められていた。 江の島弁財天道標と同様に、道路や鉄道の整備、宅地や工場の開発で行き場が なくなったものなのであろうか。 善光山天龍院法照寺(ぜんこうざんてんりゅういんほうしょうじ)は 浄土宗総本山知恩院の直末として直為上人を開山に、享保年間(1716〜1736)頃に 創建されたとのこと。一説には寛文元年(1661)龍保上人の創建とも。 法照寺は地域の人々からは「おかんのんさま」と呼ばれ親しまれていると。 秘仏十一面観音は霊験あらたかで安産・学業にご利益があると。 その手には錫杖を持しており、悪を戒めるとのこと。 法照寺本堂。右には「宿庭(しゅくにわ)町内会館」が。 「善光山法照寺」と書かれた扁額。 境内の小さな半跏思惟像の石仏。 本堂側からの庚申塔群が10基(宝永8年銘も)。 その中央に小さな祠が。 祠の内部の石仏。 右手に金剛杵(こんごうしょ)を持っていた。 杵 (きね) に似て中央がくびれ,両端に刃 (鈷) をつける。 本来はバジラというインドの武器。仏教では修法に用いこれにより煩悩を破ると。 そして東海道線の線路に出る。 子供に配慮したのか、 「ここは、とうかいどう線 37番 くげぬまみち踏切 です」と 記された案内板が設置されていた。 この歩行者専用踏切を渡る。 ひたすら真っ直ぐな線路は小田原方面へ。 踏切を渡り暫くすると本鵠沼にある普門寺(ふもんじ)山門前に到着。 高野山真言宗の寺。相模国準四国八十八箇所のうち第四十七番札所と第八十八番結願の 札所。1872年(明治5年)から1913年(大正2年)まで、藤沢市立鵠沼小学校の 前身である鵠沼学舎、尋常高等鵠沼小学校が置かれていたとのこと。 手水舎。 本堂。 密巌山遍照院普門寺と号し、高野山真言宗(古義真言宗)に属しているが、 もと藤沢・大鋸の感應院三十二か寺の一つであったとのこと。 過去帳によると、享禄元年(1528年)5月、感應院三五代権大僧都良元(良元僧都)が、 唐土ヶ原(平塚市)に一寺を創建、十一面観音像を本尊としたという。 その後、元和3年(1617年)3月、元朝阿遮梨が、砥上ヶ原の現地に再興開基し、 本尊を不動明王像としたとウィキペディアより。 見事に手入れされた境内の中で毘沙門天がひと際目立っていた。 大師堂。 石造弘法大師坐像を安置。 聖観音像。 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と刻まれた石仏。 これは御宝号(ごほうごう)といい、真言宗で唱える一番短い『お経』。 十三層石塔。 三界萬霊(さんがいばんれい)塔。 「三界」とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、 「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界。 「欲界」は、もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界。 ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の 6種の生存領域である「六趣(ろくしゅ)」、「六道(ろくどう)」があり、 欲界の神々(天)を六欲天と言うのだと。 「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界。 絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別される。 「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界。 ここの最高処を「有頂天(うちょうてん)」というのだと。 「萬霊」とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてをさすとのこと。 鐘楼。 梵鐘は寛政3年(1791年)11月、東都鋳工、西村和泉守藤原時政、 発願主 阿遮梨智英の梵鐘があったが、太平洋戦争のとき供出し、 現在のものは1974年(昭和49年)鋳造のものであると。 水子地蔵尊。 手水舎の龍神様と本堂。 龍神様は、雲や雨を司る水の神様。生きていく上で、水は命の源。 その龍神様から出るお水=ご神水。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.06.15 19:37:16
コメント(0) | コメントを書く
[藤沢歴史散歩] カテゴリの最新記事
|