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JINさんの陽蜂農遠日記

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東海道53次を歩く

2019.11.01
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カテゴリ:東海道53次を歩く
​『大社神社』から100mほどの蒲郡信金先国府支店の先にあったのが『御油一里塚』。
江戸日本橋より76里。
本陣が2軒あったとされ、姫街道への追分けの宿であることから、旅籠の数も多かった御油宿。



旧東海道を更に進む。



旧東海道と姫街道が交わる交差点。



国府町行力にあったのが『姫街道追分』
追分には 「秋葉常夜灯・秋葉三尺坊道標・砥鹿神社鳳来寺道標」が。
「秋葉山三尺坊大権現道」の石柱と常夜灯、「三州御油宿→これより姫街道 遠州見付宿」の
木の案内板が置いてあった。



『三州御油宿これより姫街道 遠州見付宿まで』の木の案内板。



旧東海道の反対側には『御油の追分』碑も立っていた。
微妙な表記の揺れ。本坂通と姫街道。もちろん、同じ道。



京から江戸に向かって左に分岐する道が「本坂道」、浜名湖北岸を迂回する脇往還で
通称『姫街道(ひめかいどう)』である。
姫街道は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市
御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道である。道程約60キロメートル。古くは東海道の本道で、
二見の道(ふたみのみち)と呼ばれていた。中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになると長距離を
移動する利用者は減り、地震などで浜名湖南岸が通行不能になった後に迂回路としてよく
利用された。本坂峠を経由したことから本坂越(ほんざかごえ)、本坂通(ほんざかどおし/
ほんざかどおり)、本坂道(ほんざかみち)、本坂街道(ほんざかかいどう)などと呼ばれた。
戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされ、宿が置かれた。
幕末頃から姫街道の呼称が定着し、明治以降、新道が出来て本坂峠はトンネルで通過する
ようになり、峠越えの道は廃道となっている。


   【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%A1%97%E9%81%93】より

なぜ姫街道なのか?
このロマンチックな響きの名前の道、「姫街道」というのは、どうしてなのか。
ネットで調べてみると姫街道の名称由来にはいくつも説があると。

①女性が新居の関所の厳しい取り調べを避けた。
②新居・舞坂の危険な渡船を女性が避けた。
③新居関所を別名今切関所といい、今切が不吉な言葉なので女性が避けた。
④「ひなびた」「ひねた」街道
⑤東海道を男性に、脇街道を女性に見立てて、「姫」とした。
などと。
今は「姫街道」という呼称が定着し、国道257号や362号の通称も姫街道になっているのだと。



更に住宅街の旧東海道をこの日の目的地に向かって進む。



そして前方に『音羽川』に架かる橋が見えて来た。



橋の手前、道路の右角にあったのが『従是楠社道』碑
楠正行が祭神らしい、八面神社への道。



『御油橋』



『ごゆばし』と。



下を流れる『音羽川』。
水源は豊川市長沢町にあり、市内長沢町 - 国府町間では国道1号に沿うように流れ、
市内国府町から南へ三河湾に注ぐ。



『御油橋』を渡った直後、左にあったのが『若宮八幡社』。
小さな社殿と小さな狛犬。



旧東海道沿いの連子格子窓の民家。



路地脇にあった『花・ベルツゆかりの地』。



「花・ベルツ(一八六四~一九三七)は、明治政府がドイツから招いた医師ベルツの妻と
なった女性です。日本での近代医学の普及に尽力したベルツを支え、明治三八年(一九○五)に
任期を終えたベルツとともにドイツに渡りました。
国際結婚の先駆けとして、ベルツ死後もドイツに残りましたが、第一次世界大戦の勃発などが
あり、大正十一年(一九二二)に帰国しました。当地は、花の父親熊吉の生家で、江戸時代に
旅籠屋を営んでいた戸田屋のあった場所です。
戸田家の菩提寺である西明寺(八幡町)には、花が建てたベルツの供養塔があります。」。



『高札場跡』が右手の桜の木の下に。
江戸時代に代官所が町民や旅人に諸規則を知らせるため、宿場の中でも人通りの多い場所に
立てた告知板を高札という。
御油宿でこの場所に高札が立てられていたということは、ここが当時のメインストリート
だったのであろうが・・・・。



『高札場跡』。
「高札場とは、江戸時代に代官所が町民や旅人に、諸規則を知らせるために設置した掲示板を
高札という。御油宿ではこの場所に高札が立てられていた。」



『三十五番宿 御油の松並木』案内板。



『歌川広重 東海道五拾三次内 御油 旅人留女』の浮世絵とその先に問屋場跡が。



正面から。
御油は、浜名湖の北岸を迂回する姫街道の分岐点にも当たる交通の要地でした。
強引に腕や荷物をつかみ旅人を奪い合う宿の女たちをユーモラスに描いた動きのある情景は、
『東海道中膝栗毛』の弥次喜多をそのまま描いているようです。
旅舎の軒に懸かる木札には、絵師名やシリーズ名、版元名とともに、彫工・摺工の名が
記されています。



『問屋場跡』。
「問屋場には、馬や人足が常備され、旅行者や荷物などを、次の宿場に継ぎ送る業務が
行われていました。御油宿の問屋場はこの場所にありました。」



上記の写真の浮世絵は『歌川廣重 狂歌入東海道五拾三次 石薬師 問屋場ノ図』
狂歌は「石薬師瓦と黄金まく人は瑠璃の玉とも光る旅宿」。



そしてこの日の最後に『御油の松並木資料館』を訪ねた。
国の天然記念物に指定されている「御油のマツ並木」と東海道五十三次35番目の宿場として
栄えた「御油宿」に関する資料が展示されていた。



入口横には樹齢ほぼ380年の松の根っこと幹が展示されていた。



『御油の松並木資料館』入口。
国の天然記念物に指定されている御油の松並木と東海道五十三次35番目の宿場として栄えた
御油宿に関する資料が展示されていた。
江戸時代の御油宿の街並みの復元模型や広重の浮世絵版画、近世交通文書や、旅装束などの
資料約130点等々。



『東海道御油宿と松並木』。
「御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、
東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。
ここから東の、かつて上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通り沿いには、
今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。
また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木が
あります。昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にも選ばれています。」



様々な浮世絵が。



天保年間の旅装束、その横に同じく天保年間の助郷の旗であると。



御油・赤坂・国府地区の街並みの復元ジオラマ(仏:diorama)。
音羽川沿いにも松並木が。



左に『御油の松並木』。



『御油の松並木』の写真。



御油宿高札(左)と手筒花火(右)。



『弘化年間の御油地図』。



天井には駕籠が。
文政年間の医者の往診用駕籠であると。



『御油の松並木資料館』を後にし、音羽川沿いを歩き『青戸橋』を渡る。



『音戸橋』から『御油橋』を見る。
土手には彼岸花が開花を始めていた。



御油駅前交差点の地下道を渡る。



そして名鉄・御油駅に到着。



踏切を渡り豊橋方面の電車に乗る。



そして2連泊した豊橋のホテルに戻り、旅友の愛車での帰路に。
国道1号線『潮見バイパス』を進む。国道42号線下を潜る。



国道1号線『道の駅 潮見坂』手前。目の前に太平洋が姿を表した。



湖西市の浜名湖カントリークラブゴルフ場の風力発電装置。



浜名バイパスの『浜名橋』手前より浜名湖を見る。



南浜名湖に浮かぶ弁天島のシンボルタワー、赤の大鳥居。



浜名橋を渡り終わると、前方に『舞阪灯台』が。
この灯台は岬にあるわけではなく遠州灘の浜名湖入り口付近に。
海からも距離があり回りは松林に囲まれていた。
塔高:28m、灯高:37m、初点灯:昭和39年3月とのこと。



そして西の空には夕焼け雲が。



この後は、運転を旅友に全て!!任せウトウトと。
そして茅ヶ崎の旅友邸に22時前に到着し、自宅に22:30前に帰宅したのであった。

                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・完・・・​






Last updated  2019.11.02 13:54:27
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2019.10.31
カテゴリ:東海道53次を歩く
『伊奈一里塚跡』から100mほどの場所右手にあったのが
『速須佐之男神社(すさのおじんじゃ)』



参道入口左にあったのが『秋葉山常夜灯』。



石鳥居とその先に参道が。



扁額にも『速須佐之男神社』と。



『拝殿』。
明和7年(1770年)10月9日創建という。
速須佐之男命を祭神とし、例祭日は旧6月15日。



境内には何故か?二宮尊徳像が。



豊川市桜町1丁目、右手広場奥にあったのが『冷泉為村卿御歌碑』。



案内板。



『若宮白鳥神社遥拝所』と刻まれた石柱の横に歌碑が。



藤原定家 を祖にもつ江戸中期の歌人・冷泉為村(れいぜい・ためむら、1712~74年)が、
延享3年(1746)に徳川第9代家重 が将軍継承の際、為村一行が朝廷の使いとして江戸に
下る途中、当時、桜の名所であったという桜町で詠んだ歌碑が旧東海道沿いにあった。
この碑は、2007年3月18日に建てられたもの。
「 散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 」



そして豊川市の汚水マンホール蓋。
市内を流れる豊川と奥の山は本宮山。
市の木「クロマツ」と市の花「サツキ」、それに豊川稲荷を連想させる「キツネ」も描かれている。



そして民家の庭に色彩豊かな鶏が数匹放し飼いにされていた。
名古屋コーチンではなさそうだが、昔、熊本で見た「天草大王」か?



『西古瀬川』を渡る。



大型草刈り機で堤防の雑草を一気に除去していた。
川沿いには(株)白鳥生コンが。



更に旧東海道を進む。



可愛らしい『道祖神』、『豊川警察署』の文字も。



この後、東三河環状線の下を潜れないため、右折して国道1号線に合流し
京次西交差点を渡り進む。



名鉄名古屋本線・白鳥路線橋を進む。



名鉄名古屋本線。



周囲の田園風景を楽しみながら。



国道1号線・白鳥交差点を過ぎる。



日本橋から305.5kmと300km超えを再確認。



国府町薮下交差点から旧東海道は左に分岐して県道374号線に。
読みは国府町(こうちょう)と。
名鉄駅・国府は「こう」であった記憶があるが。



旧東海道に入る。



小さな祠が二つ仲良く並んでいた。



『半僧坊大権現』と。



こちらは『国府天神』。



右手に『秋葉山常夜燈』。



『秋葉山 常夜燈』
「型式は御中堅?高さ205cm、造上寛政12庚申(1800)村中安全。
秋葉山
秋葉三尺坊大権現はその昔、越後国蔵山より白狐に乗って遠州の秋葉山に飛来したいといわれ
火防の霊験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝庭(廷)、大名、庶民に至るまで奥深い信仰を
あつめられ、国府村民等も村民を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました。」



次に右手には『薬師堂瑠璃殿』。



熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は二人の姉妹が住む家に投宿した。姉妹が死んだ
父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を
刻むと、姉妹はこれを安置した寺を建立したという。



瑠璃殿の扁額は文政四年(1828年)八幡山巌禅翁の書。



『三河国府中二子寺 薬師如来塁畧縁記』。



『薬師如来像』であろうか?



『薬師如来』の幟が並んでいた。



再び豊川市マンホール蓋。
市の木「クロマツ」の間にキツネが鎮座。



旧東海道と平行に建っていたのが『大社神社』。
愛知県豊川市国府町流霞5に鎮座する神社。
明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。ご祭神は大国主命。



『御神木』。



境内には他に秋葉神社も。御祭神は火之具土(ひのかぐつち)大神(秋葉三尺坊)



『拝殿』。
天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、
三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の
神々をも祀られたとあります。



こちらは大社神社忌避期間遙拝所。



『戦死者 玉島好彦のために』碑。
「子を思う 親の心の悲しさよ 孫なき吾子の 名をば止めん」。




                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.11.02 13:54:08
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2019.10.30
カテゴリ:東海道53次を歩く
豊川放水路を渡った先には、善光寺川に架かる『万石橋』が。
万石橋の下には、昭和28年改築の旧万石橋が残っていた。
昭和40年(1965年)豊川放水路の通水に伴い現『万石橋』を架橋し不要となった
旧橋そのまま残っているのは珍しい。



さらにその先『豊川放水路』から300m近く歩くと右手にあったのが『子だが橋』の碑。
「子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ一千年前莬足神社には、
人見御供があり春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと
伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に
逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た、見ればわが子である、
「ああいかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、
遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だか橋と呼ぶようになったということである。
現在、莬足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。」



そして『才丿木』交差点の先の右手にあったのが『社式内 莬足神社』。



『社式内 莬足神社(うたりじんじゃ)』と刻まれた社標。



『莬足神社の史跡と伝説』
「①石の鳥居
 第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。
 高さ四・五m 明神形 銘は次のとおり。
 右側
 奉献石鳥居
 三州宝飯郡小坂井村八幡宮前
 左側
 元禄辛未九月吉旦 吉田城主従四位下侍従兼佐渡守小笠原長重 肅具 額の文字は、東征大総督
 有栖川熾仁親王の御染筆。
 ②宿中島太神楽奉納 石灯籠ニ基
 小坂井町宿字中島は三河万歳で有名で、また伊勢神楽、獅子神楽の流れをくむ太神楽でも
 知られていた。太神楽は江戸時代末期に大流行し、近郷近在の秋祭りはもちろん、遠州方面への
 出稼ぎも盛んに行われていた。鳥居両脇の石灯籠は、中島の太神楽惣連中が文化元年
 (一八〇四)に奉納したもので、当時の太神楽の隆盛を偲ばせる。灯籠に十九名の
 太神楽連中の名が刻まれている。
③弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」
 弁慶が東行のおり、大雨で対岸へ渡れず渡津に逗留した時に植えた松と伝えられてきた。
 奈良時代から平安時代の十世紀頃まで菟足神社前は、大小の洲がある広大な入江であり、
 対岸の飽海、坂津方面へは船で渡っていた。枕草子にも書かれた「しかすがの渡し」が
 どこにあったのかは特定できないが、ある時期にはこの近辺にあったと思われる。
 紀行文「いほぬし」 増基法師(天暦十年頃 九五六)の歌
 しかすがの渡りにて渡し守のいみじうぬれたるに
 旅人のとしも見えねどしかすがにみなれてみゆる渡守哉
 現在の松は、平成十八年に植え替えられた。」



石の第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。
高さ4.5m。



扁額には『内式 莬足神社』と。



拝殿前の二の鳥居。



『式内 莬足神社』
御祭神 菟上足尼命
創立  白鳳13年(686)
穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、
間もなく当地に御遷座になった。
当社の大般若経55巻は国の重要文化財に指定(昭和36年)されている。僧研意智の書
(1176-1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下のおり、洪水のため
渡航できず、滞在7日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた)
なお応安3年(1370)の銘のある梵鐘(昭和39年県文化財指定)は本社前の水田から発掘された
ものであり、当時は今の手水社の位置に鐘楼があったことが天保時代の三河国名所図絵に出ている。
当時のお田祭りの行事は県の文化財に指定(昭和39年)されている。
風祭り(平成27年市無形文化財指定)として知られている例祭は4月第2土・日曜日(本来は4月
10,11日)に行われ、打上花火、建物花火、手筒花火は特に名高い。 また、祭礼の古面(5面)は
昭和40年に県の文化財に指定されている。



『莬足神社 案内図』。



『莬足神社 拝殿』。



『神楽殿』。



神輿庫であろうか?



『万福招来生木』。



『大切な場所』をズームで。



『別宮 八幡社』



『境内社』は山住神社、金刀比羅宮、津島神社。



『菟足神社貝塚』。



『菟足神社貝塚』
「この貝塚は、神社境内および隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。故川出直吉氏は
明治三十年代から貝塚を発掘し、遺物の採集に努めていた。このため平井稲荷山貝塚とともに
早くから学界の注目を集め、大正十一年には京郁帝国大学の故清野謙次博士が発掘調査をされた。
また、最近では平成二年に町教育委員会が調査を行っている。
出土遺物はほとんとが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。
しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の押型文土器と
呼ばれる土器の破片である。
この種の土器は豊川右岸下流域では本貝塚でしか発見されていない。人骨は乎井稲荷山貝塚の
ように大量に出土していないが、川出氏の採集品の中には抜歯されたものがあった。
貝殻を形成している貝塚は、ほとんどがハマグリとシジミガイであり、場所によっては厚さ
一メートル近くも推積している所もあり、町内の貝塚の中で最も保存状況が良い。当時は目の前を
流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採集していたのであろうか。
また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては
絶好の場所である。
川出氏の収集品は町郷土資料館で見ることができる。」



『菟足神社と徐福伝説』
今から二千百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に運
薬など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、
始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)
を連れ、運薬の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわか
っていない。
「ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、
わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような英
足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
- 熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に
来だ」との言い伝えがある。
・ 牛窪記(元禄十年(一八九七)頃成立)には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之漠ヨ
リ徐氏古座侍郎乏府(北国渡六本松ト云浜二来ル。 中略 徐福ガ
孫古座侍郎三州二移リ来ル故二本宮山下秦氏者多シ……」とある。
| 英足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年十二月二十日昇格)に、「菟足神社は延喜式
内の旧社にして祭神菊上足形命は中 昭 雄略天皇の御世、穂の国造
に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して流ひまつりしを天
武の白鳳十五年四月十一日神の御館のまにまに楽石勝をして今の処に移し祀らしめ給
ひしなり………」と記されている。
II 英足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来困足神社の察事には、活の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その
生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」
(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十
二羽を供えている。
以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修
験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を
往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。



『奉納 三尺玉』碑。



『収蔵庫』。



国指定重要文化財『大般若経』を収容すると。
 『大般若経』は585巻 で1961年(昭和36年)6月30日指定されたと。



『忠魂碑』。



御朱印を頂きました。



旧東海道・県道496号線を進むとJR飯田線の小坂井踏切が。



そしてその先のカーブの場所の山彦精肉店前にあった小坂井町の『秋葉神社』。
秋葉神社境内の『常夜灯』は文化5年(1808)建立と。
先行した旅友が待っていてくれた。



旅友と合流して更に旧東海道を進む。



『明光寺』山門前の堂も立派な『常夜灯』。



『明光寺山門』。



『明光寺 本堂』
浄土宗の寺院で、山号は諏訪山、本尊は阿弥陀如来。 



『諏訪山』と書かれた扁額。



法然上人であろうか。



『本堂』脇の石仏群。



『地境争いと五輪塔』
境内の一角に、上部の欠けた五輪塔があり、こんな言い伝えが残っていると。



「今から三百年ほど前の古い絵図をみると、現在の豊川市蔵子町と小坂井町宿とが、野川の川筋の
ことについて、地境の争いがたびたびあったことがわかります。 
当時、その地境に五輪塔があり、両方でうばいあったと言われています。
この五輪塔は誰が建てたのか、誰を祀ったものかはっきりわかりません。
現在、塔の上の部分は、豊川市蔵子町の共同墓地にあり、下部は小坂井町宿の明光寺の
境内にあります。」



『畜魂碑』



旧東海道・白鳥豊橋線に戻り進む。



左手にあったのが『伊那村立場茶屋 加藤家跡』碑。



『伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)』

一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。
ニ 加藤家と良香散
 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、
 この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M)
 一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
  東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、
  牧野真一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
  烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」



その先には『迦貝土神社(かぐつちじんじゃ)』が。



石鳥居の『扁額』。



『本堂』。
延宝8年(1680年)11月17日創建という。 
迦具土神を祭神とし、例祭日は 10月12日。
街中にあり、鬱蒼とした木々に囲まれていないのと、社殿も新しいので、
境内が明るく広々と感じる。



そして『伊奈 一里塚跡』碑。
豊川を渡り、旧東海道を北西に道なりに進むと、山本太鼓店の正面に江戸から数えて
七十五番目の一里塚となる伊奈(伊ノ奈)一里塚の碑があった。
伊奈(伊ノ奈)一里塚は碑が立っているのみで当時の面影は残っていない。



『江戸日本橋から七五里』。



そして慶応年間創業の『山本太鼓店』に立ち寄る。



店内には様々な太鼓が陳列されていた。
江戸時代、幕府の政策により、東海道の街道筋の約十里毎に太鼓店が配置されたという。
東海地区では、浜松、小坂井、知立、名古屋、桑名に太鼓店があったとのこと。
この小坂井町の山本太鼓店は、こうした太鼓店の職人の子孫である山本松平氏が明治年代に
始めたもので、現在でも6代目の正孝氏が昔どおり、すべて手作業で製作していたのであった。



暖簾には『鼓』と。
店主が太鼓について説明してくださいました。



巨大な太鼓の皮。どこの神社の太鼓の皮なのであろうか?




                              ・・・​もどる​・・・


                   ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.11.02 13:53:50
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2019.10.29
カテゴリ:東海道53次を歩く
愛知県道496号白鳥豊橋線の豊川に架かる『豊橋』を渡る。
もともと東海道は現在と違うところで豊川を渡っていたが、江戸時代に東海道が
豊橋(吉田大橋)を渡るルートに定められ、江戸幕府がこの大橋を管理下に置いて
天下橋となった。これが船町(下流)側のこの大橋・『豊橋』のルーツである。
これが昭和時代になり、国道1号の整備と共にこの大橋・『豊橋』の東の酒井忠次が架けたと
される辺りにもう1つの大橋(吉田大橋)を架けた。これが八町(上流)側の大橋・『豊橋』
である。この時点で正式に、この東の八町の橋が吉田大橋(国道1号)、西の下流側の船町の橋が
『豊橋』(愛知県道496号白鳥豊橋線)という名になった。



『豊橋』から『吉田城』の『鉄櫓』が見えた。
手前に見える橋が『吉田大橋』。



『豊橋』を渡り終えて、直ぐに左折し豊川に沿って進む。
右手にあったのが『豊川稲荷遥拝所碑』。
『維持安政二龍次乙卯正月』と刻まれた石灯籠。



その後ろに、『豊川稲荷遥拝所』碑。



『豊川稲荷遥拝所と大鳥居について』
豊川稲荷はここから北方へ直線で5.5km程の所にある。



豊川稲荷遥拝所から100mほど先・右手に『真宗 高田派 朝晃山 真光寺』があった。



真光寺の創建年代等は不詳であるが、山門脇に豊橋市指定有形文化財の
『木造阿弥陀如来立像』の解説があった。



『本堂』。



『真光寺の皆様へ』、と高田本山へのバス旅行の案内。



そして次に訪ねたのが『聖眼寺しょうげんじ』。
真光寺の一区画隣にあったのが真宗高田派の『聖霊山聖眼寺』
聖眼寺は鎌倉時代に下地に移転したと言われ、永禄7年(1564)徳川家康が、今川勢が支配する
対岸の吉田城を攻撃した際、ここに本陣を構えたという。
家康は境内にある太子堂で必勝を祈願し、ここで金扇をもらい、それを用いて采配を振るったと
伝えられている。



山門前には『芭蕉句碑標石』が。
この標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」と。
そしてその後ろには『松葉塚』の解説板が。



『松葉塚』
聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および
古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石があり、当地方の文学史研究上
資料的価値の高いものです。「松葉(ご)を焚いて手拭あふる寒さ哉」 古碑松葉塚に刻まれた
この句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里
(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。 
尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて
「松葉塚」名称の由来となっています。再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が
発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて
再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、
句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を
建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。



『芭蕉句碑』。
古碑松葉塚には松尾芭蕉が愛弟子社国に詠んだ
「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」
という句が刻まれていて、「松葉塚」名称の由来を示している。
「ご」は三河方言で、枯れた松葉のこと。焚き付けとして最良の燃料であったと。
この境内の松葉塚には、新旧二つの芭蕉の句碑が立っていたのであった。
古い句碑には「松葉を焚て手ぬぐひあふる寒さ哉」、
新しい句碑には「ごを焼て手拭あぶる寒さ哉」と刻まれていたのであった。
一見したとき、なぜ「手」をあぶらずに「手拭」なのかと?。
調べたところ、この手拭は湿ったものが道中の寒さで凍ったものだという。
それをあぶることで手をあぶるより寒さを余計に表現できるのだろうと。



この記念碑は?



『本堂』。



近くの幼稚園では幼児たちが楽しく遊んでいた。



蚊取り装置『モスキートマグネット』。

ネットで調べて見ると
蚊を磁石のように引き寄せて吸い取る装置であると。
どんな仕組みで蚊を駆除するかというと、
プロパンガスの燃焼によって発生した二酸化炭素を、特殊スクリーンを通し蚊の嫌う成分を
取り除き、地表に向けて放出します。空気より重い二酸化炭素は広範囲に拡散して、蚊を
おびき寄せます。そして、バイオ技術で生成した動物のエキス:誘引剤(オクテノール)に
よって、装置を動物と錯覚させて吸引口へ引き寄せ、内蔵しているファンのバキュームにより
本体内部の捕獲ネットに閉じ込め、乾燥させてしまいます。
殺虫剤を使用しないため、他の益虫や昆虫にはまったく影響がなく、環境に優しい製品であると。
園児が蚊に刺されないように設置されているのであろう。



街道の左側は豊川の土手が続く。土手の内側には石垣が数段、積まれている。
いつ時代のものであろうか。
『下地堤防改修記念碑』が左手に。



5分ほど歩いた歩道の街路樹の元に、『下地一里塚跡』の石標を見つけた。



『江戸日本橋より七四里』とあった。



『下地一里塚跡』の石標を振り返る。



(株)ヤマサンは大豆 食用油  米穀 豆腐関連資材 和・洋・中華食材 冷凍食品などを製造。



県道387号線・清須下地線を更に進む。



『マンデビラ ピンクパフェ』であろうか?



県道496号線の右に小さく、『爪郷遺跡(うりごういせき)』の案内板が。
ここを右折して進む。



『史跡 瓜郷遺跡』石柱。



『瓜郷遺跡』
「この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代前期
(2000年前~1700年前)にかけての集落>の跡です。
昭和22年11月から昭和27年10月までの間、5回にわたり発掘調査が実施され、
土器・石器・骨角器・木製の農具などが出土しました。
これらの出土品は東三河地方の弥生文化を知るうえで重要な手がかりとなっています。
ここでは農耕(主に稲作)のほかに、漁撈や狩猟などが行われていたことがわかりました。
瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに弥生時代の低地にある遺跡の
一つとして貴重なものです。なお出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵されています。」



『瓜郷遺跡』正面。



「弥生時代の竪穴住居(復元)この復元家屋は。昭和22年~27年の発掘調査で見つかった
竪穴住居の遺構をもとに、故明治大学教授後藤守一博士の手により設計がなされたものです。
時代はおよそ1,800年前の弥生時代中期のもので、大きさは東西5.8m、南北3.5mの
楕円形をしており、中には二本の主柱と炉があります。」



竪穴住居の内部。
中には二本の主柱と真ん中に炉が。



見事な藁葺き屋根、大きさは東西5.8m、南北3.5m。



『鹿菅橋』。



下は豊川放水路の分岐水路。



更に県道496号線の田園地帯を飯田線・小坂井駅方面意向って進む。



『豊川放水路』を渡る。



橋の名は『高橋』。



左手に名鉄名古屋本線と東海道本線。



『豊川放水路』。
東三河の清流、豊川は、かつてたびたび洪水をおこし、水害で流域に住む人々を苦しめてきた。 その理由としては、川の長さが約77㎞と短いうえに2/3は山地で降水量が多く、上流の降水が3~4時間で平地に達してしまうこと、下流域で川が蛇行し、U型部分が狭く最大流量の半分も
疎水力がないことが考えられる。 洪水対策として江戸時代には霞堤(鎧堤)がつくられたが,
昭和になってからも10年、12年、19年と大洪水を記録しており、放水路建設が急務となった。工事は、昭和18年度に本格的に着手されたが戦争の拡大によってほとんど進展せず、戦後28年度以降ようやく軌道にのった。そして1965年(昭和40)豊川の下流低地に住む人々の悲願であった
放水路(豊川市行明町・柑子町から 豊橋市前芝町へ通じる全長6.6㎞)が完成した。
洪水時,遊水池として水害の常習地帯となっていた当古・下条・大村地区などの人々は、
永年の水害の苦しみから解放されることとなった。



ここを渡った先で豊橋市から豊川市へ入る。

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2019.10.28
カテゴリ:東海道53次を歩く
西八町を左折し、国道259号線を南下して札木交差点を右折すると『吉田宿本陣跡』が。
ここには江戸時代、清須屋、東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。
本陣とは各宿駅に置かれ街道を往来する大名、幕府役人、宮家、公卿など身分の高かった人々、
が宿泊したところ。



享和2年の書上によると東海道吉田宿には本陣2軒脇本陣1軒、旅籠65軒がありましたが、
ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。



旅友のアドバイスで引き返して路面電車が行き交う大通り『札木交差点
』に戻る



交差点を渡った角にあったのが「吉田宿問屋場跡」碑。
一人だったら見逃していたのであったが。



「宿駅には、必ず道中奉行所支配の問屋場が設けられ、ここで人馬継立ての業務が行われた。
吉田宿の問屋場は、札木町のこの地に置かれ、人足百人、馬百疋が貨客のために用意され、
問屋を筆頭に、年寄、帳付などの問屋場役人によって支配された。」



再び戻り『札木交差点』を渡る。



通りを渡った先にある鰻屋「丸よ」。その店先にも少し大きな『吉田宿本陣跡の碑。
つまり大小の『吉田宿本陣跡』碑が少し離れて2箇所に。



「ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。
本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった
人達が宿泊したところです。
享和2年(1802年)の書上によると、東海道吉田宿には、本陣二軒・脇本陣一軒・
旅篭六十五軒があり、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。




店先にはもう一つの興味深い説明書き。
『べっぴん語源発祥の店 丸よ』。
「明治初期に田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の
看板を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき極上品はすべて
「べっぴん」と呼ぶようになって、そのあとの明治中期には美しい女性(美人)にも
使われるようになりました。
丸よはその伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。」



その前にあったのが『吉田宿脇本陣跡』。



歩道橋から。



次に『手筒花火発祥の地』であるとの『吉田神社』を訪ねた。



石鳥居の扁額には『正一位吉田神社』と。



ここにも『廣重 東海道五十三次 吉田 豊川橋』が。



『影降石(ようごうせき)(天降石)』。



社史に「延宝元年(1673)6月9日吉田城主小笠原長矩(ながのり)鳥居を建つ 
寛永十七年(1640)水野忠清が建つる所のもの 風災に罹(かか)りたるを以てなり 
今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方六間に移す」とあります。
その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御鬮(みくじ)による神託を受け、
巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、
以後、影向石(ようごうせき)として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの
意です)。
延宝七年(1679)6月8日城主小笠原長祐(ながすけ)は影向石の竹柵を修め、又 貞享四年(1687)
6月6日には竹柵を改修して石垣を造ると伝わります。また天降石(てんごうせき)との呼び名も
あったようです。
それより百五十年以上を経て、吉田上伝馬(かみでんま)の金物商夏目可敬(なつめかけい)が
編著した三河国名所図絵には「鳥居より本社の方十歩許にあり 実に奇石にして諸人愛弄すへき
面影あり いつの頃にや空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降しかば影降石と号す」と
記されています。



『伝承三河伝統 手筒花火発祥之地』記念碑。
平成5年に手筒花火とその歴史を後世に伝える為に、氏子や手筒花火を愛する方々の
協力により標示塔と共に建立されたとのこと。



『祇園祭』案内板。
豊橋祇園祭は、7月第3週の金曜日、大筒の練り込みと吉田神社での 手筒花火の奉納、
"神前放揚(しんぜんほうよう)" に始まります。手筒花火とは、節を抜いた
孟宗竹(もうそうちく)の中に火薬を詰めたもので、噴出する花火を脇や腹に抱えて打上げます。
東三河の手筒花火の奉納は、現在の花火大会の原型ともいえる歴史ある神事で、手筒の材料となる
竹の確保から打ち手たち自らで行うのがならわしです。
大筒とは、手筒花火と同じ形状をした大型の花火で、台の上に固定したまま揚げます。
18世紀には既に祇園祭に登場していました。各町内で用意された大筒は、氏子衆に担がれ、
関屋町交差点で一斉にスタートします。
大筒はそれぞれの町で、全ての家の前を通って吉田神社まで担ぎ出されます。



吉田天王社祭礼の図。



『社務所』。



『拝殿』。



『吉田神社』案内板。



『金柑丸稲荷社』



「永正2年(1505)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ、 後の吉田城本丸の
東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)といいます。
社伝によると金柑丸稲荷社は、今橋城築城の際に創建されたとされ、正徳4年(1714)吉田城主
松平信高は社殿を修補し、この時正一位の神階を賜ります。ちなみに吉田天王社が正一位の
神階を賜ったのは天保6年(1835)です。
明治11年大河内信古は吉田城内五ヶ所の稲荷社を金柑丸に合祀し、吉田神社境内に移しました。
明治39年には日露戦役記念として社殿が造立され、明治42年には正徳3年松平信高が
城内三之丸に勧請したとされる城守護稲荷社(しろもりごいなりしゃ)が合祀されました。
歴代の吉田城主は名君として知られる松平信明をはじめ幕府の要職を務めた事から出世開運の
稲荷神として、又、旧城内御丸鬼門守護の神社であることから方除けの神として
広く信仰される。」



『吉田藩主屋敷図』。



蔵であろうか?



御朱印を頂きました。



そして次に訪ねたのが『西惣門
の復元模型。



角度を変えて。自転車が邪魔!!



吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、
さらに駒寄の空き地十七坪がありました。
この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にしてつくられたもので、その惣門は吉田城大手門を
移築1674年に移築した、とのこと。



『西惣門』のある交差点。



『豊橋 湊神明社』。
白鳳元年(672年)創建と伝えられる伝統のある神社で、元和年間(1615~24)に始まり、
かっては吉田城下最大の祭りと云われた伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が
現在も行われている。 
祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)。
山田宗徧が造ったという弁天池の築島に立つ湊築島弁天社は、平成20年(2008)7月8日に
国の登録文化財に。 



神社の入口にあったのが『原田圭岳筆『老松図』屏風』。
縦226cm、横522cm、紙本墨画、六曲屏風
この作品は、慶応元年(1865)圭岳64歳の時、一本の老松の大樹を六曲大屏風の画面
いっぱいに描いた大作で、非凡な才能がうかがえる作品です。この屏風は当神明社の祭礼の際、
神楽殿の背景として使用したものと言われています。
原田圭岳(1803-1885)は、享和3年に三河国西尾(現西尾市)に生まれ、長じて京都で
四条派の 岡本豊彦に学び、天保7・8年頃から江戸で画家として活躍しました。
その後安政2年(1855)圭岳54歳のときから吉田(現豊橋市)に永住し、吉田の画家として
活躍し、明治18年84歳で没しました。
『老松図』は、圭岳の作品の中でも稀にみる大作で、圭岳を研究する上でも基準作として
貴重なものです。



『松尾芭蕉吉田の宿旅籠の記』
芭蕉が貞享4年(1678)11月10日 保美(現渥美町)の杜国を訪れる際に、吉田に泊った時に
詠んだ芭蕉句碑(旅寝塚) 。



「寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき」



『船町』交差点。



『船町と高札場』。
「その昔、この辺りは四ツ家(四ツ屋)と称され、数件の家屋がまばらにある河原同然の
土地であったようです。この地に最初に村を築いたのは浅井与次右衛門(浅井長政の重臣)と
その一門80名程の人々と言われています。その後、天正18年(1590)に吉田城主・
池田照政(輝政)より定住を許され庄屋役を命ぜられ、以後船町と改めて町の開発を
行なったようです。近世初頭に開かれた吉田湊は豊川舟運の終点として、」また伊勢や江戸への
航路の起点として栄え、当時三河における最大の湊でした。船町はこの湊での船役を命じられ、
地子(じし:賦課された地代)免除の特典が与えられなど吉田24町の中で独自の立場が
あったようです。
高札場
寛永13年(1633)幕府の命により橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより70m下流)に
高札場が設けられました。この高札場には河の取り締まり、橋の保護など極めて重要な
取り決めが板に書かれて掲げられていました。」



そして豊川に架かる『吉田大橋』に到着。



橋には『とよはし』と刻まれていた。



豊川沿いを下流に向かって進む。
吉田大橋跡南詰にある旧豊橋の親柱。明治12年(1879年)吉田大橋に代わり架橋された
旧豊橋の親柱で、大正5年(1916年)鋼製トラス橋に架け替えられた際、この親柱だけは
そのまま流用されたという。昭和61年(1986年)現在の『豊橋』が竣工、役目を終えた
この親柱と共に鋼製トラス橋の一部が往時を偲びここに残る。



鋼製トラス橋の一部が保存されていた。



近くに寄って。



近くにあった藤波 孝生(ふじなみ たかお)句碑。
『初風や 伊勢より船町へ 旅役者』



植栽に埋もれながらもあったのが、古市 木朶(ふるいちもくだく)句碑。
『豊橋や 城にのこれる 夕かすみ』



豊川護岸に石畳を敷き往時を偲ぶ『吉田湊跡』(左)。




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2019.10.27
カテゴリ:東海道53次を歩く
​豊橋市内の豊橋公園の最奥まで歩き豊川下流を見る。



吉田城の豊川沿いに石垣の下を歩く。



『北御多門跡』。
北御多門は本丸の裏手側に設けられていた門。そばには鉄三重櫓が建っていた。



鉄櫓の石垣は、池田輝政が築いたといわれる吉田城最古の石垣。



そして隅櫓に向かって階段を上る。



櫓とは思えない復興三重『鉄櫓(くろがねやぐら)』。
本丸跡の一角に三層の『鉄櫓』・入道櫓が昭和29年に再建され、櫓脇の『武具所跡』から
眺める豊川の流れが美しかったのであった。
吉田城の城主は牧野古白に始まり、徳川家康の三河統一により酒井忠次の配置、
家康の関東移封による池田輝政の入城と続き、江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配し
中期以降は松平(大河内)氏が城主となった。



時間は9:52、鉄櫓の開場は10時からと。
続日本100名城スタンプを頂くために暫し待つ。



『武具所跡』から豊川の流れを楽しむ。
鉄櫓と北御多門の間にあった建物。



豊川は、愛知県設楽郡設楽町の段戸山・鷹ノ巣山の麓を水源とする、延長77Kmと、
そう長くはない川だが、この河口にそして吉田城に近いエリアは、雄大に大きく湾曲して
緩やかに流れていた。
右奥の方から流れてきた豊川が、大きく左側に湾曲し、写真には写っていませんが、
右の方から朝倉川が合流する地点。



豊川の下流側。
左手に、この後に渡った『吉田大橋』が見えた。



豊川では白鷺が羽を休めていた。



『鉄櫓』を『武具所跡』から見上げる。



そして10時になり『鉄櫓』が開門。
正面に『ようこそ吉田城へ』の文字の下に『廣重 東海道五十三次「吉田 豊川橋」』。
画面の左側に大きく描かれている吉田大橋は、豊川に架かっている橋で、江戸から京都までの
間にある四橋の1つ。豊川から伊勢へ行く早船が出ており、陸路を行くよりも三日も早く着くと、
いつも満船だったといわれています。戦国時代に、この地に今橋城が築城されて城下町になり、
後に譜代大名の努力もあって栄えました。



櫓の改装中の吉田城。足場が組まれ、職人たちが壁を塗っています。



入場料無料で資料館を見学できます。スタンプは入り口に置いてありました。
続日本100名城のスタンプを頂きました。



本丸跡は広場となっており、北西隅に『鉄櫓』が再建されていた。



吉田城『本丸御殿』碑。
築城当初のこの城の命名について、「牛窪記」には吉田城とあり、後の成立である「牛窪密談記」・
「宮嶋伝記」には今橋城となっており、また「今橋物語」には峯野城や歯雑城(おかさわじょう)と
古名を紹介していて、今橋城の城名には諸説がある。
大永2年(1522年)、城主であった牧野信成(古白の子)によって吉田城と改められたというが、
『宗長手記』では、大永4年(1524年)に「十日に今橋牧野田三一宿」、大永6年(1526年)、
「三河国今橋牧野田三」とある。
また、明治42年(1909年)発行の『豊橋志要』(豊橋市参事会)には、天文年中に、今川義元が、
今橋から吉田に改称したとしている。



『吉田城復元模型』。手前右側の鉄櫓だけ再建されているのだ。


​​https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%9B%BD)より

『豊橋公園のイスノキ』。



暖地に自生するマンサク科の常緑高木。別名、ユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキ。
樹高 16m
目通り幹囲 3.6m
推定樹齢 300年以上



樹形が美しく、樹勢も良いのも大したものだが、何と言っても、大きく力強い根張りが
素晴らしい。根元回りの姿には、目を釘付けにする魅力があるように思われる。



本丸跡広場より『鉄櫓』を再び。



『吉田城』案内板。
『吉田城略史』
吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。
以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、
天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の
整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は
譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した
半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれるものである。

『石垣と刻印』
大規模に拡張された吉田城も、石垣のあるのは本丸とその他数カ所だけで他は土塁であった。
本丸石垣の壁面は、内側・外側合わせると約50面になる。野面積み(自然石を砕いて、
そのまま積んでいく)である鉄櫓(復興)下北面と西面の石垣は、後世の手直しの跡のない
池田輝政時代の石垣だといわれている。
さらに、石垣の石のうち花崗岩に色々な印が彫られてるが、これがいわゆる「石垣刻印」と
呼ばれているものである。刻印は、大阪城や名古屋城などにもみられ、築城工事を分担した
大名と家臣などの印であるといわれ、現在まで50以上確認されている。
因みに、吉田城の石垣に使われている花崗岩は名古屋城創設用の石材を使用したものである。



『吉田城跡』石碑。



『南御多門跡』碑。
この先で枡形構造になっていたので、おそらく一の門が冠木門、
本丸側の二の門がこの『南御多門』だったのであろう。



吉田城は大規模な城郭ではありますが大半は土塁で、石垣が築かれているのは
本丸周辺のみとなっているのだと。



『城の石垣刻印とは』。



『石垣刻印』-1



『石垣刻印』-2



『空堀』。



『冠木門跡』。



吉田城を後にして『豊橋市役所』を見る。



『カトリック豊橋教会』。



そして訪ね忘れていた『豊橋ハリストス正教会』に戻る。
戦災で市街の中心が焼けた豊橋において、豊橋市公会堂と共に残る数少ない近代建築である。
葱坊主にも玉葱にも例えられる、ロシア正教特有のドーム飾り。



『豊橋ハリスト正教会聖使福音者馬太聖堂』
豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、大正2年12月に竣工した。
平面は、西から東へ、玄関、啓蒙所、聖所、至聖所を一直線に並べる、ハリストス正教会聖堂に
共通する形式である。
豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、ハリストス正教会聖堂の定型的な平面構成を
もつとともに、我が国における木造ハリストス正教会聖堂の完成型の建築構成と細部意匠を
もつことで、高い歴史的価値がある。
また本聖堂が、我が国ハリストス正教会の司祭建築家河村伊蔵の設計と推測できる点においても
重要である。



木造、建築面積182.03m2、一階建、正面八角鐘楼付、銅板葺、聖障付。



正面。函館は煉瓦造だが、豊橋は木造である。
設計は日本ハリストス正教会の聖職者で建築家の河村伊蔵(1866~1940)。



そして豊橋市公会堂前の歩道橋を上って行く。



国道1号線に架かる歩道橋。



歩道橋より愛知県 豊橋警察署方面を見る。



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2019.10.26
カテゴリ:東海道53次を歩く
豊橋市の別の絵柄のマンホールを発見。
『市電マンホール』
公会堂と市電の日常的風景と市花(つつじ)をデザインした下水道マンホール蓋。



本屋のガラスには花園幼稚園児の『孫の日』に因んだジジ、ババの顔の絵が所狭しと。
孫の日(まごのひ)は、10月第3日曜日の記念日である。1999年に記念日に制定された。
よって今年は10月20日。



『吉田城 大手門跡』碑。



「吉田城の大手門は、はじめ東側の飽海口にあったが、天正18年(1590)池田輝政が
吉田城を拡張したとき、この地に移したといわれる。
江戸時代には、重層で鯱を備えた堂々たる楼門があったが、明治初年い取り壊されてしまった。」



国道1号線の向こう側正面に『豊橋市公会堂』が。



豊橋市公会堂は、ロマネスク様式で正面両側のドーム頂上までの高さは、16mもあり
市内の鉄筋コンクリート造りの近代的建築物の発祥ともいわれています。
また、風格のある雄姿、意匠など建築界においても高く評価されていると。



国道1号線を東に戻って行くと左手に『豊橋警察署』。



国道1号線を渡り、『豊橋 神明社』を訪ねた。



『豊橋神明社の鬼祭り』。
豊橋神明社の鬼祭は、八町通の安久美神戸(あくみかんべ)神社で行われる。
祭日は旧正月13・14日であったが、後に新暦の2月14・15日となり、現在では2月10・11日に
行われている。この祭りには東三河平野部で唯一、田楽が奉納されている。
主要な神事は本祭当日の午後から行われる。「五十鈴神楽」、「御的の神事」、
「赤鬼と天狗のからかい」、「天狗切祓」「司天師(してんじ)田楽」「ボンテンザラ」
「司天師神楽」、「神幸神楽」、「御玉引年占」「御神幸」と続き、すべての行事が終わるのは
午後11時頃である。
ことに、2時頃から行われる「赤鬼と天狗のからかい」が最も盛り上がり、戦いに負けた赤鬼が
境内を出て、町内を駆け回り、袋から米の粉に混ざったタンキリ飴をつかみ出し、観衆に
向かってまき散らす。この粉に混じった飴は厄除けになるといわれ、観衆も頭から粉を被り、
あたり一面が真っ白になる。



赤鬼像。



二の鳥居。
正式名称は安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)。



『由緒』。



『拝殿』。
天慶2年(939年)11月、関東において平将門が乱を起こした。
京の朝廷は、参議の大伴保平を勅使として東海の伊勢神宮へ派遣し、関東平定を祈願した。
この霊験のおかげか、翌年2月関東の承平天慶の乱は直ちに平定することができた。
天慶3年(940年)、関東鎮圧を喜んだ時の帝の朱雀天皇は三河国渥美郡北端である豊川左岸の
安久美(飽海)荘(豊橋市中心部)を伊勢神宮へ寄進した。
そのため、この地は安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地(神戸)となる。
その時に伊勢神宮祭主大中臣頼基の庶流・大中臣基守が磯部氏、川野氏、清水氏らを率いて
伊勢国より来たり、この新神戸(しんかんべ)の屋代(やしろ)として創建されたのが当社である



『拝殿』内部。
安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)
豊橋市八町通3-17(市電豊橋公園前から徒歩2分)
祭神:天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
神徳:無病息災、豊作
由緒によれば、
第61代朱雀天皇(在位930〜946)が平将門の乱の鎮定の報賽(ほうさい)として
伊勢神宮に寄進された神領地に創立された古社で安久美神戸の総社です。



こちらにも赤鬼像が。



『豊橋鬼祭の由来』
「このお祭りは日本建国神話の田楽の舞で豊年と厄除けの祭として約千年前から毎年行われた
尊い神事であります。
暴ぶる神の赤鬼が悪戯(いたずら)をするので武神天狗が懲らしめようと神の前で秘術を尽くし
戦い最後に和解して赤鬼が罪の償いに厄除けのタンキリ飴を撒きながら嵐のごとく
境外へ飛び去ります。この飴を食べると厄除けとなり健康になると古来伝えられます。
そこで国内が平和に治まったことを喜んで武神をはじめ神々が種々の神楽を舞う古式の田楽を
そのまま伝承すしております。」



秋祭限定の『八幡神社』ご朱印が10月14日に頂けると。



『猿田彦社』祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。


左手の境内社。
『外宮社、伊雑社、高宮社』三社合祀。
それぞれの祭神は
外宮社 – 豊受比売神(とようけひめのかみ)
高宮社 – 伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)
伊雑社 – 玉柱屋比売命(たまばしらやひめのかみ)、 伊佐波止美命(いざはとみのみこと)



右手の境内社の『護国神社』。
国家・公共に尽くしたる人々の神霊
例祭日は毎年4月29日。



こちらも右手の境内社。



『三峯社、稲荷社』二社合祀。
それぞれの祭神は

三峯社 – 伊佐那岐命(いざなぎのみこと)、伊佐那美命(いざなみのみこと) 

稲荷社 – 宇迦御霊命 二柱(うがのみたまのみこと)



鬼祭りの顔ハメ看板。



『安久美神戸神明社本殿始め5棟』
以下の5棟が国の登録有形文化財に登録されている。
  • 本殿
  • 幣殿及び拝殿
  • 神楽殿
  • 神庫
  • 手水舎


『東照宮(家康公)御腰掛松』。



徳川家康公は天文23(1554)年、十三歳の時に当社に参詣され、社頭の松の根元に
腰を掛けて鬼祭をご覧になったという記録が残っております。慶長8(1603)年、
征夷大将軍に任ぜられたのちには、京都伏見城に宮司を呼んで鬼祭の思い出をお話しになり、
神領・太刀・盃をご寄進されました。こうした由縁から、家康公が腰を掛けて
鬼祭を御覧になった松を「東照宮御腰掛松」と呼称し、江戸時代より丁重に扱ってまいりました。



『祭具庫』。



秋祭のポスター。



『社務所』。



御朱印を頂きました。



安久美神戸神明社を後にし、『豊橋市公会堂』横を通る。
二羽の鷲(わし)の像。建設当時からあった像。



そして『豊橋公園』に入る。



『豊橋公園案内図』。



『吉田城案内図』



近づいて。



『江戸時代の吉田城と城下町』。
 吉田城の歴史は、永正2年(1505)、牧野古白により今橋城が築かれたことに始まります。
戦国時代、東三河の要であった今橋城は、激しい攻防が繰り返されるなか、名称も吉田城と
改められました。永禄7年(1564)には松平(徳川)家康が吉田城を攻略し、城主に
酒井忠次を置きました。 天正18年(1590)、家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で
入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いましたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後姫路に
所替えになりました。 江戸時代には東海道の要衝として譜代大名が在城しましたが、
財政的要因のため完全に整備されないまま明治を迎えました。



明治初年の本丸付近の写真。



『歩兵第十八聯隊』。
「歩兵第十八聯隊は、明治17年(1884)6月に名古屋で新設され、吉田城址に兵舎の建設が
すすめられ、明治18年(1885)4月には大半が出来上がり、20年までには移転が完了しました。
現在の豊橋公園、豊城中学校、豊橋市役所(吉田城址)あたりがその場所になります。
戦後施設の多くは取り壊されましたが、戦後には残った兵舎を使い豊橋市役所が開設されました。
現在でも豊橋公園の中には、門や哨舎、弾薬庫、灰捨場、碑などが残され、往時を偲ぶことが
できます。」



『此処に歩兵百十八聯隊ありき』。
歩兵第118聯隊は出征して不在となった歩兵第18聯隊営舎に編成された部隊です。
昭和16年に編成され昭和19年にサイパンへ守備のため派遣されました。
その際輸送船が撃沈されて主力を失い、残った将兵は歩兵第135聯隊、第136聯隊とともに
突撃し玉砕されています。



中村道太翁碑』。



説明碑。
中村道太(1836年 - 1921年)は、三河吉田藩出身の財界人。上京して福澤諭吉の弟子となり、
のちに第八国立銀行や横浜正金銀行、明治生命保険を創業した。明治11年(1878年)に
初代の渥美郡長になる。



裏側。



『冨田良穂歌碑』。
富田良穂(1848年 - 1925年)は、三河吉田藩出身の歌人、弥彦神社(新潟県)神官、
愛知県会議員、豊橋町助役、豊橋市収入役。
歌碑には、「三河なる二葉の松の生立てる今はときはの色にいづらむ」を刻む。



この碑は??




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.11.02 13:52:36
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2019.10.25
カテゴリ:東海道53次を歩く
岩屋観音堂を後にして、国道1号線を豊橋に向かって北上する。
道路脇には青のアメリカアサガオとピンクの芙蓉の共演が。



岩屋病院前を通過し国道1号線から分岐した旧東海道に入り進む。



旧街道に架かる『殿田橋(とのだはし)』を渡る。



流れる川は『柳生川』。



『飯村一里塚跡(いいむらいちりづかあと)』
現在の東海道とクロスする殿田橋の交差点にたどり着く。
マクドナルドを右手に歩道はないが、道沿いを歩くと、
旧東海道と国道1号線の三角地帯の先端に『飯村一里塚跡』の碑があった。



江戸日本橋から数えて73番目の一里塚となる。
漸く東海道の一里塚123ヶ所の6割まで到達。



『飯村一里塚跡』の碑のあった旧東海道と国道1号線の三角地帯を振り返ると、旅友の姿が。



国道1号線に合流し更に進む。



暫く歩くと右手にあったのが『壽泉寺(臨済宗妙心寺派)』
綺麗なアーチ状で竜宮城のような楼門・『山門』。



『鶴松山壽泉禅師』。



『本堂』
年代は不明だが、桂昌寺の松山和尚が同村の長松山太平寺(現:老津町東高縄204)の末寺として
開山した。延宝8年(1680)現在地に移転し元禄6年(1693)寿千寺となり正徳5年(1715)瓦町の火災で
類焼したのを機に壽泉寺と改めた。



扁額には『鶴松山』と書かれていた。



本堂と正対して『三重塔』が建っていた。



三重塔のたもとには、こんな立看が。



境内の石仏群。



再びひたすら歩くと前方に『豊橋市瓦町通り1丁目』歩道橋が。



『不動院』



『瓦町不動院由来記』
「本尊不動明王 真言宗中興の祖  覚鎫上人  作
宗派 高野山真言宗
江戸時代に入り、時の吉田藩主小笠原候 が仁連木村 に菩提寺臨済寺を建立することとなり、
境内を確保するため二十軒の農民が移転することとなり、吉田宿 の東の隣接する瓦町に
新しい村づくりが始まりました。寛文四年(1664)のことであります。新しい村づくりの中心に、
心の拠り所として不動院が安置され、不動院は仁連木村(豊橋市御園町)から瓦町へ
移ることとなりました。瓦町不動院は小笠原候をはじめ歴代吉田藩主の尊崇を集め、
藩の重要な祈祷を担当する祈願所としてゆるぎない存在を示しておりました。
元禄十二年(1699)、時の吉田藩主久世重之侯 から山号、寺号の免許を受け、
聖休山任養寺不動院 と名乗ることとなりました。元禄十五年(1702)不動院が新築、
この時の鬼瓦は瓦町村で焼成されたもので、寺宝として大切に保存いたしております。」



こちらは不動尊幼稚園。



そして『願成寺』。



『本堂』。
大永2年(1522年)創建と。



切絵仏であろうか?



そして『東八町交差点』の歩道橋を歩く。
歩道橋下には、『豊鉄市内線』が。
東田本線(あずまだほんせん)は、愛知県豊橋市の駅前停留場から赤岩口停留場までと、
井原停留場から分岐し運動公園前停留場までを結ぶ豊橋鉄道の軌道路線である。
豊橋鉄道では「豊鉄市内線」と案内している。



『豊鉄市内線』の車両。



『秋葉常夜灯/東新町交差点』
この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたもの。
以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれて
来たが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。
この状況を憂た常夜灯保存委員会により昭和五十五年豊橋公園内に復元されていたが、
平成十三年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていた
この付近に再復元したものである。



コの字型の大型歩道橋から東方面を見る。



歩道橋で国道1号を渡り、さらに右に曲がって階段を降りた豊橋市八町通5丁には
『吉田城東惣門跡(ミニ復元)』が。



「東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で、東海道にまたがって南向きに
建てられていました。門の傍らには12畳の上番所、8畳の下番所、勝手があり門外から西側に
駒寄せ場11間がありました。惣門は朝六ッ(午前6時)から夜四ッ(午後10時)まで
開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。




東八町交差点で左折し国道1号線から離れ旧東海道に入る。



東惣門の先が少し複雑であった。
惣門を右に見て50mほど歩いたら右に曲がり、最初の四つ辻を左に曲がり、突き当たったら右へ。
この先は真っ直ぐな道を「バス停・曲尺手(かねんで)」等を見ながら5~6分歩くと植え込みの
有る広い道にぶつかった。



右手、道路の中央の植え込みに『曲尺手門跡碑』が。
「曲尺手門は吉田城内への入口の一つであった。
旧吉田城の巽の方位にあり城門の跡にして曲尺手町発展の礎である。」



豊橋市 マンホール蓋。
豊橋公園内の吉田城と羽田八幡宮の祭りで行われる「手筒花火」を描いたもの。



反対側、左側の植え込みの中に『吉田宿』、『江戸 七十四里』と記された石碑が。



この地の住所は『 愛知県豊橋市曲尺手町(かねんてちょう)』。



曲尺手町76にある交差点を左折して進む。



『龍拈寺(りゅうねんじ)』に立ち寄る。

曹洞宗の仏教寺院。山号は吉田山(きちでんさん)。
本尊は十一面観音。一色時家の被官で牛窪一色城(同県豊川市牛久保町)主および
今橋城(同県豊橋市今橋町)の初代城主であった牧野古白入道(牧野成時)の追善供養のため、
子の信成が創建した寺である。
神宮寺、悟真寺とともに吉田三ヶ寺の一つとされ、曹洞宗の東三河における中核寺院である。
1945年の豊橋空襲で山門を除く全伽藍が炎上し、唯一残った山門が豊橋市の有形文化財に
指定されている。



『龍拈寺』の指定文化財
  • 華陽夫人画像
  • 牧野古白母堂画像
  • 龍拈寺山門 - 空襲で炎上しなかった唯一の建造物。年元禄年間建立。


『龍拈寺観音堂』。



『龍拈寺観音堂』には真赤な『聖観世音菩薩』の幟が。



『箸塚碑』。



様々な石仏、石碑が境内に。



『観音像』
豊橋工場の女学徒の方々の殉難碑であると。
ここには、「学徒動員令に応じて豊橋市立高等女学 校及愛知實修高等女学校三年生学徒は
中島飛行機半 田製作所に挺身報国の至誠を盡す偶此の震禍に遭い 二十六柱の英霊遂に
護国の礎石となる」と書いてあった。



『山門』



『龍拈寺山門』
龍拈寺は吉田山(きちでんさん)と号し、大永年間(1521-27)ごろ休屋宗官和尚の代に
吉田城主牧野信成が亡父古白追善のため創立したと伝えられ、吉田三ヶ寺に列せられる当地方
屈指の大寺院として栄えました。江戸時代の伽藍は、本堂・御影堂・大庫裏・小庫裏・鐘楼・
山門等の堂宇の地に多くの塔頭を擁していました。これらの諸堂宇は宝永4年(1707)の
大地震で倒壊したのち再建・修復されましたが、第2次大戦中の空襲で山門だけを残して
全焼しました。
山門は、元禄6年(1693)住持となった法運義官和尚の代に建立され、その後、宝永の大地震に
より傾いていたものを修復したと伝え(吉田山龍拈寺記)、昭和の戦火にも類焼を免れた当寺院
唯一の江戸時代の遺構です。この山門は、単層・切妻造・桟瓦葺の四脚門で、軸組に欅材を
用いた唐様(禅宗様)を主に、随所に配した絵様、軒形の一部には天竺様(大仏様)の手法も
折衷されており構造や意匠の奇抜きに特色が見られる市内でも数少ない江戸時代の建造物
として貴重なものです。
現在、正面虹梁上に月舟宋胡(1618-96)筆の「吉田山」の額が掛けられていますが、
この背後の
虹梁上の羽目板にも「吉田山」の刻字があり、月舟筆の額は他の宇堂もしくは
前身山門に掛けられていたものを後世になって現山門に取り付けたものと解するのが
妥当のようです。」



『長養院』。



『長養院』入口。



『悟慶院』。



『吉屋山 悟慶院』と刻まれた石塔。



扁額には『悟慶院』と。



『曹洞禅』と書かれた『豊橋閣日進禅寺(ほうきょうかくにっしんぜんじ)』。
豊橋閣日進禅寺は、愛知県豊橋市新吉町9番地にある禅宗系の寺院。
通称は「日進禅寺」「日進院」とも呼ばれている。
1945年(昭和20年)6月19日夜半の豊橋空襲で、本尊の勢至菩薩像と本堂を消失しており、
現在の伽藍は戦後に再興したもので、本尊仏は釈迦三尊像を祀っていると。



『満願石仏(百拝百体)』
入口付近には、百体の石仏に百拝すること(百拝×百体=万拝=お参りにすることで
願いが叶う=満願)で全ての願いが叶う『満願石仏』が。



交差点角にあったのが『金刀比羅神社』。
愛知県豊橋市大手町34にあり、祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。



『拝殿』。
文正元年(1466年)3月、四国象頭山、金刀比羅大権現より勧請とのこと。




                              ・・・​もどる​・・・


                                                      ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.11.02 13:52:15
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2019.10.24
カテゴリ:東海道53次を歩く
3日目の朝(9月26日)も5時過ぎに早朝起床し6:30からの朝食を済ませ、
豊橋駅近くのホテルを出発。



豊橋駅前東口のペデストリアンデッキ。この日も晴天で暑くなりそう。



そして豊橋駅から二川駅まで前日乗り遅れた6:48の東海道線を利用。
降車駅の二川駅改札前ではキリンのステンドグラス風窓が出迎えてくれた。
キリンのステンドグラスは、駅近くに豊橋総合動植物公園があるからか?



二川駅は1896年(明治29年)47日に開業した。
二川駅をはさむ、東海道本線の浜松・大府間が開通したのは、駅開設の8年前にあたる
1888年(明治21年)のことである。
この時、江戸時代に東海道の宿場町(二川宿)として栄えた渥美郡二川村・大岩村の両村には、
宿場の町並みのすぐ南側に線路が敷設されたものの、隣の吉田宿(現・豊橋市、豊橋駅を設置)
とは異なり駅が設置されなかった。
二川周辺には多くの村があり人・物資の利用が見込める、隣の豊橋駅・鷲津駅とは距離がある
との理由で、翌1889年(明治22年)二川では駅設置の請願を行った。この請願は成功しなかった
ようだが、1893年(明治26年)に再度請願運動が行われ、これは成功したようで駅開業の
運びとなった。駅開設時に建設された木造駅舎は100年以上の長きにわたって使用され、
東海道本線では最古の駅舎となっていた。しかし老朽化により改修が必要となり、
1998年(平成10年)から橋上駅舎・南北自由通路の開設、駅前広場の整備、駅南方にある
豊橋総合動植物公園へのアクセス道路新設などが一体となった「二川駅周辺整備事業」が
開始された。
この事業により2002年(平成14年)2月に橋上駅舎が完成、4月には南北自由通路の
供用開始がなった。



時計塔の時間は7:00前。



『火打坂交差点』まで歩き、旧東海道はここを直進するのであったが、『岩屋観音』を
訪ねるために交差点を直進せず左折する。



前方に『岩屋緑地』が見えた。 
岩屋緑地は弓張山地の大蔵山と岩屋山に造られた公園で大蔵山には展望台、
岩屋山には観音像が建てられていた。



豊橋市地下資源館(とよはししちかしげんかん)の前を通過。
豊橋市地下資源館は、愛知県豊橋市大岩町字火打坂19-16にある、地下資源や鉱石、
エネルギーの博物館。
視聴覚教育センターにはこのプラネタリウムが。



東海道岩屋山古道案内板。



右手に『岩屋観音』石碑。



『玉糸の元祖 小渕志ち銅像 入口』と刻まれた石碑。



この豊橋が蚕都(さんと)と呼ばれ、製糸業がさかんであった頃、質のよい生糸の作り方を
発明した人物・「小渕志ち」。二川の本陣資料館の近くには、製糸工場跡の碑が残って
いるのだと。



小渕志ち(おぶちしち、1847年(弘化4年) - 1929年(昭和4年))は、三河地方の絹製糸工業に
多大な貢献をしたと伝えられる人物である。
1847年に群馬県南勢多郡石井村(現・前橋市富士見町石井)で生まれた。
1862年、15歳のころから製糸業に従事し、糸引き座繰りの技術をマスターする。
その後、17歳で結婚するが、夫・斉藤米吉は酒や賭け事に明け暮れる男で、15年の結婚生活の末
離婚を余儀なくされる。その後再婚したものの、精神を病んで行くあてもなく各地を放浪して
いたが、糸引き座繰りの技術を見込まれて愛知県二川町(現・豊橋市)に土着。高い技術を
生かした仕事で見る見る間に財を成し、1879年に製糸工場を創業した。その後、玉繭という
屑繭から玉糸と呼ばれる高品質の糸を作ることに成功し、大きな利益を上げる。
また、自社の経営のみならず三河地方の製糸業の発達に尽力し、同業組合の結成を促進するなど、
大きな功績をあげた。



この先から『岩屋観音堂(岩屋堂)』境内か。
正面に『弘法大師・鯖大師(さばだいし)像』。


『岩屋山観世音菩薩』と書かれた紅白の幟が立ち並んでいた。



奥にあったのが『地蔵堂』。



小さな石のお地蔵さんが祀られていた。



再び『弘法大師・鯖大師(さばだいし)像』。
太子の左手には鯖が。
この『鯖大師(さばだいし)』の由来は昔、弘法大師がこの地で野宿をしていた際に
通り掛かった馬子(馬に食料を積んで運んでいる商人みたいな者)に塩サバを所望したところ、
口汚く罵られ断られた。その後馬子の馬が苦しみ出し動かなくなった。
馬子は慌てて「さっきの僧は実は偉い人(空海)だったんじゃね?」と引き返しサバを
差し出し馬を治して欲しいと懇願した。空海が加持水(仏様の慈悲と智慧が加わった水)を
馬に与えると馬は回復し、サバは加持祈祷し海に放つと生き返り泳いで行った。
この馬子は空海の弟子となったのだと。



『二番札所 千手 亀見山 岩谷堂』
「松かせに 戸ざ々ぬ御代のいはやどう 三河にひとつ 名の高き山」



『鐘堂』



『鐘堂』の近くには『弘法堂』が。



『弘法堂』内部の掛け軸。



岩屋観音の石仏群。



山頂の青銅製の『聖観音立像』を見上げる。
天平2年(730)、行基がこの地に赴いたとき、その風景に見せられて千手観音像を刻んで
岩窟に安置したのが起源とされています。以来、東海道を往来する旅人たちの信仰を集めました。
岩屋山頂の聖観音立像は明和2年(1765)に建立されましたが太平洋戦争中に供出されてしまい、
現在のものは昭和25年(1950)に再建されたものです。
岩屋山の南側にある観音堂の天井板には、恩田石峰をはじめ当時の吉田(豊橋の旧名)画人による
絵が描かれています。 また、岩屋観音周辺は公園として整備され、春はさくらまつりが開催され
にぎわうのだと。



写真の如く、山頂の岩の上で風雨に曝され、雨天には濡れて立つため、濡れ仏(ぬれぼとけ)と
呼ばれた時期もあったようだが。大正12年(1923年)、ドイツ人の医者のベルツ博士の
ハナ(花)夫人により、岩を登るための鉄の柱と鎖が寄進されたのだと。
残念ながらこの観音像とベルツ夫人の鉄鎖は昭和19年(1944年)、太平洋戦争で供出されて
しまったと。



『岩屋観音堂』
観音堂は、天正13年(1585年)の岩屋山火災で焼失し、元文3年(1738年)に
再築されるまでの記録は不明であると。
その後は修築や再築を繰り返して文政8年(1825年)に再されたのが現在の『岩屋堂(観音堂)』。
寄棟造り、桁行3間、梁間4間の建物である。格天井板32枚は後世のものだが、
これには恩田石峰をはじめ、当時の吉田画人による絵が描かれているとのことであったが・・・。



「岩屋観音堂は、天平2年(730)行基が諸国巡行の際に千手観音像を刻んで岩穴に安置して
開いたといわれます。江戸時代には、街道をゆきかう人々から多くの信仰を集め、ことに
備前岡山 藩主池田綱政はこの観音を崇敬し、元禄から宝永(1688~1710)にかけて、
観音経・黄金灯籠・ 絵馬などを寄進しました。
山上に立つ聖観音像は、吉田大橋の掛け替え工事を担当した江戸下谷の大工茂平と善右衛門の
二人が工事の難しさに困り果てて観音堂に参籠し、霊夢によって吉田橋を 完成させることが
できた恩返しとして、明和2年(1765)下谷講中が建てたもので、現在のもの は
昭和25年(1950)に、再建されたものです。
当堂を詠んだ和歌、俳句は多く、香川景樹、古市木朶等の歌俳は有名であり、また歌川広重の
東海道写生画の中に、当山を描いたものが数点あります。
当堂は古来より真言宗の寺院でありましたが、明治維新後は大岩寺の境外仏堂となっています。」



扁額には『岩谷堂』と書かれていた。
岩屋堂は行基は天平2年(730)諸国巡業中に約33cmの千手観音を刻み祀ったと。



『観音堂』内部 正面。




右側に賓頭盧様(左)と大黒天(右)が並んでいた。



天井。



『岩屋観音堂』堂内部。



本堂の右側は岩屋になっている。奥は深くなく、見えている部分だけだ。
寺の開基は、行基が諸国を巡ったときこの岩屋に千手観音を彫って安置したのが始まりだと。



岩山のところどころには僧形の仏が安置されていた。



『岩屋観音堂』からの立岩街道方面の眺め。



『岩屋堂のスギ』。 
豊橋隋一の太さを誇り、同市のシンボルであると。



幹周:403cm、高さ:24.1m、推定樹齢300年以上。



崖下には五重石塔が。



寺務所の下には『瑠璃王龍神堂』。




参道には萩の花が。



こちらが『岩屋観音堂』への正式なルートなのであろう。




                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・
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そして今日から、いつもの旅友Sさんと『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』の
旅に行って来ます。
カタール航空にて成田➡ドーハ➡ソフィアへの長時間移動の格安ツアー旅行です。



ブルガリア・ルーマニア2か国・6つの世界遺産を含むハイライト観光。
ルーマニアでは故チャウチェスク大統領が1,500億円を投じて造らせた贅を尽くした「国民の館」も
訪ねます。建築物としてはペンタゴンに次ぐ世界第2位の大きさを誇るルーマニア議会の議事堂。
久しぶりに10年来の旅友の女性2名も一緒に参加され、賑やかな旅行になりそうです。





阪急交通社からの最終書類も受け取りました。
今回の女性添乗員からの電話もあり、26名の多人数のツアーであるとのこと。



最終旅行日程表も送られてきました。
今回のツアーは成田空港出発、羽田空港到着という初めての体験のツアーです。
今日は旅友Sさんが愛車で我が自宅に迎えに来てくれ、羽田空港に向かい
駐車場に車を駐め、リムジンバスにて成田空港に向かう予定です。



そして継続中の『旧東海道を歩く(新居宿~御油宿)』は留守の間も毎日分を予約して
アップしていきますので引き続きアクセスをお願いいたします。

行って来ま~~~す。








Last updated  2019.11.02 13:51:57
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2019.10.23
カテゴリ:東海道53次を歩く
二川宿の旧東海道をJR二川駅方面に更に進む。



暫く歩くと右手にあったのが『西問屋場跡』碑。



左手にあったこの民家は、現在もお住まいなのであろうか?



交差点左角にあったのが『大岩郷蔵跡』。



郷蔵は年貢米などを蓄えておいた村の共同の蔵。
二川宿内には二川村、大岩村にそれぞれ1ヶ所あったと。



そして旧東海道を右に折れ、『大岩神明宮』を訪ねた。



『大岩神明宮』由緒 案内板。



社伝によると、当神明宮は古く文武天皇2年(698)岩屋山の南山麓 「かささ」 に
巌根の庄大岩の里人に依って創建祭祀されたと伝えられている。
また、古来より武門武将の崇敬篤く、織田信長は陣太鼓を寄進して戦勝を祈願し、
徳川家康は御朱印社嶺三石五斗を安堵した。
境内には、文化4年(1807)の秋葉山常夜燈のほか金比羅神社などの境内社があった。



一の石鳥居。



『手水舎』。



『拝殿』。



『拝殿』前でお参り。



『拝殿』内部。
文武天皇二年(698年)岩屋山南に勧請したのが最初で、のち保延元年(1135年)大岩村が
本郷に移ったときに遷宮し、天正十一年(1583年)元屋敷に移り、さらに正保元年(1644年)、
大岩村が現在地に移村したのとともに移っている。
江戸時代には、黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものであった。
現在では大岩の氏神となっていると。



『神馬』。



多くの『境内社』が。



『大壁神明宮』。



『金比羅神社』。



『立派なお牛様』



そして再び旧東海道に向かう。
豊橋市『手筒マンホール』。
吉田城と手筒花火をモチーフに華やかな印象をデザインした下水道マンホール蓋。



豊橋市『船マンホール』。
朝日のなかを船が出港する姿から人・緑・街をデザインした下水道マンホール蓋。



左手にあったのが『立場茶屋跡』碑。
街道に戻って交差点の先を進むと、左手の化粧品店 「OZAKI」 の前に立場茶屋跡があった。



『立場茶屋跡』碑。



そして漸く『二川駅前』交差点が前方に見えて来たのであった。



左折すると、この日のゴール地点の『二川駅』が。



『JR二川駅』。



駅前広場の『時計塔』、時間は予定通りの16:30前。



『二川宿案内地図』。



『東海道 二川宿』案内板。
「古来より交通の要所であった二川は、慶長六年(1601)、徳川家康による街道整備に
ともなって宿駅として設置されました。開設当時は二川村と大岩村の二か村で一宿分の業務を
おこなっていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転して、二川村と
加宿大岩村となり、東海道五十三次中三十三番目の宿駅として業務をおこなうこととなりました。
天保十四年(1843)には、本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒、人口は1,468人で、
家数は328軒でした。
現在も、本陣をはじめとして、江戸時代の宿場町としての景観を残しています。」



二川宿『絵図』。



江戸時代の「二川宿」の絵図と旅籠配置図。



この絵図は実際はもっと西(左)まで続いているのですが、小さくなってしまいますので、
大岩寺よりも西側はカットしトリミングしました。
宿場の北側には左から『大岩寺』、『松音寺』、『八幡神社』、『妙泉寺』が描かれ
南側には宿場に沿って『宇六田川(梅田川)』が描かれている。



こちらもトリミングしました。
1843年(天保14年)の記録では、二川宿には38軒の旅籠屋があったといわれ、当時の東海道の
宿場の平均旅籠屋数56軒に比べて小規模な宿場だったとされる




二川駅 改札口。



豊橋駅行きのJRで。時間は16:29。



そして豊橋駅に到着。
中央通路にあった『羽田祭 大筒台花火』。



『羽田八幡宮例大祭(羽田祭)』ポスター。
豊橋市の『三大祭』の一つと言われる羽田八幡宮の祭事。 
五穀豊穣を祈願して豊橋駅周辺の20ヵ町の氏子達が勇壮な手筒花火約800本を
10/5~6の2日間かけて奉納するのだと。
東三河地方独特の手筒花火は、火薬を詰めた1本4~5kgの手筒を男衆が、からだの脇に
抱えもって行われる花火。 
ふりそそぐ火柱と火の粉、すさまじい爆音、大迫力の手筒花火なのだ。



『羽田祭 大筒台花火』を正面から。
手筒本体は竹齢3年以上の孟宗竹で内径 12~13cmのものをゴザや南京袋を巻き
その上から縄を巻きつけていきます。
火薬は黒色火薬で硝石、硫黄、炭粉、鉄粉を 焼酎で練って詰め込むが隙間が出来たりすると
暴発するのでしっかり慎重につめる。底には底抜き用のハネ薬を詰めると。



こちらが『JR、名鉄改札口』。



そして豊橋駅ペデストリアンデッキ。



人と環境に優しい乗り物である『市内路面電車』は、豊橋の顔としての側面をもつ街のシンボル。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・






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