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JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.02.11
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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク

法性寺山門を後にし、横須賀線に沿って歩くと直ぐ左手にあったのが馬頭観世音と

轢死者供養塔。

「久木ハイランド入口」の交差点を左手に折れ暫く道なりに進む。

鎌倉逗子ハイランドという新興住宅地の高台に向かって歩く。

ここは西武不動産(株)が開発した住宅地。”新興住宅地”という名の先駆けで、

早40数年が経過しているようであった。

途中鎌倉逗子ハイランド手前を左に折れ自治会館方面に進む。

更に左手に折れ浄妙寺緑地に向かう。浄妙寺こなら公園を左手に折れ更に進むと

「鎌倉市子ども自然ふれあいの森」に到着。

まだ雪がかなり残っていた。

更に坂道を上っていくと水道山展望台に到着。

前方下に逗子海岸、そしてその先に葉山マリーナが確認出来た。

そして反対側には稲村ヶ崎そしてその奥に江の島が見えた。

水道施設はフェンスで囲まれていた。ここでカラスに見守られながら軽く腹ごしらえ。

南方向に小高い丘が見えたので、坂を下りその丘に向かう。

途中、道の傍らには地蔵尊が置かれているほか、 その少し先に、稲荷神社にある狛狐 ? が

2体置かれていたが 、周囲に祠などなく、・・・・。

そしてパノラマ台という展望台に到着。

由比ヶ浜・稲村ヶ崎・江の島と富士山が望める絶景スポットとのことで訪ねたが

富士山の姿は・・。 

ここからの江の島の姿。

稲村ヶ崎もはっきりと。

パノラマ台を後にし、坂道を下りかまくら幼稚園の手前左に「関東の富士見百景」の案内板が。

ここからは富士山だけでなく、鎌倉の町と、七里ヶ浜、稲村ケ崎、江の島と美しいポイントを

見渡せるのであったが、残念ながらこの時間はここからも富士山は完全に雲に隠れていた。

天気が良ければ・・・下の写真の如くに。

12_R.jpg

    【http://livedoor.blogimg.jp/nori_suke55/imgs/e/9/e9588d5a.jpg】より。

浄明寺緑地のお地蔵さま。

「巡礼古道」に入り衣張山(きぬばりやま)山頂を目指す。

「巡礼古道」は杉本寺から逗子・岩殿寺に至る山越えの巡礼道。

落ち葉に埋もれた山道を、小鳥の声を聞きながら進むと、やぐらや庚申塔、磨崖仏などに

出会いながら巡礼古道を一人占め。かつての巡礼道は、鎌倉ハイランド住宅地により

寸断されてしまったが、そこを抜けると名越切通に向かう山道にも再び入れるのであった。

尾根道を進むと、衣張山の手前の山の頂にも石仏が。

相模湾の姿も。

そして衣張山(きぬばりやま)標高121mに到着。

山頂には五輪塔と地蔵様が。

この場所からの相模湾と江の島。

江の島をズームで。

私と同じハイキングの方が上着を脱ぎ、一休みされているのかと思いきや周囲に人の姿はなし。

忘れ物らしい赤いジャケットが淋しそうに玉縄桜の若木に吊されていた。

そして巡礼古道を下る。山道にも未だ残雪が凍結して。

衣張山山頂下の石切場趾。

この衣張山の石切場跡は、崖の入口から10mは奥に掘り進まれていた。

中世に掘られたやぐらとは比較にならないほど深く、高く大きいもの。

天井も高い。落石も殆ど見られないから東日本大震災でも剥落もしなかったのであろう。

しかしここで切り出した石を、どの様に山の下まで運び出したのであろうか?

途中、昨年の台風時に?倒木したのであろうか太い樹木が巡礼古道に横たわっていた。

多くの五輪塔が巡礼古道の脇に。

途中、風にさらされてはいたが、穏やかなお顔の野仏・夫婦地蔵?も見送ってくれた。 

DSC02447_R.JPG 

小さな沢に架かる丸木橋も頼りなげに。

「平成巡礼道」と書かれた札が。

この山道はかなり急な山道であった。ここを反対に登っていくのはかなりの難行か?

これぞ「平成巡礼道」 。いや「ぜいぜい巡礼道」。下っていく私の膝も笑いはじめたのであった。 

高校時代、クラブ活動で長時間兎跳びをやった後の感覚。

久しぶりの懐かしい?感覚なのであった。

そして「田楽辻子(でんがくずし)のみち」と書かれた標識が。

『鎌倉時代に呼ばれていた小路で、路名の由来は、路ぞいの釈迦堂前に田楽師が住んでいた

ためと伝える。辻子は通り抜けのできる小路のことで、十字路を辻という。

「吾妻鏡」などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると、

筋替橋(すじかえばし)を起点として宝戒寺裏から滑川を渡り、大御堂ヶ谷・釈迦堂ヶ谷の

入口をへて宅間ヶ谷に出て六浦と合流する小路と考えられる。』 と説明板に。

「田楽辻子のみち」沿いには、文覚上人屋敷跡、勝長寿院跡、釈迦堂切通、上杉禅秀邸跡、

衣張山があると。

「上杉朝宗及氏憲邸址(うえすぎともむね・および・うじのり・ていあと) 」の石碑。

『朝宗は足利氏満 満兼に歴任し 入道して禅助と号す 人称して犬懸(いぬかけ)の

 管領といふ 其子氏憲 嗣て持氏の執事となり 

 入道して禅秀と号す 然るに後 持氏と隙あり  応永廿三年氏憲は

 持氏の叔父満隆と謀り 満仲を奉じて兵を起せしも遂に敗れ 翌年正月 

 一味 と共に 雪ノ下の鶴岡別当坊に自尽す 此処は即ち其の邸なり』 

 

「上杉朝宗は、足利氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)に仕え、出家してからは禅助(ぜんすけ)と

言いました。当時の人は、犬懸(いぬかけ)の管領(かんれい:将軍代理職)と言いました。

その子の氏憲(うじのり)が跡を継いで持氏(もちうじ)の許で事務を取り仕切り、 出家してからは

名前を禅秀(ぜんしゅう)と言いました。しかし、持氏と仲たがいになり、1416年に、氏憲は

持氏の叔父(おじ)の満隆(みつたか)と共に計画して、満仲に勧めて戦いを起そうとしましたが

失敗しました。 そして1417年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自殺しました。

ここはその屋敷があった場所です。」 と。

          
                ・・・​つづく​・・・ 






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Last updated  2022.05.19 15:04:35
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