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JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.03.20
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カテゴリ:海外旅行

青龍寺遺蹟公園東門「樂游原」が車窓から。

遺址保護が決まり、最近完成したばかりの門とのこと。

「楽游原」と書かれた扁額。 
DSC05857_R.JPG
青龍寺手前のこの白い巨石は??

だんだん青龍寺の臭いが風景の中に。

青龍寺の雲峰閣の上部が車窓から

バスを降り観光開始。

「青龍寺 遺址」石碑。

「全国第四批重点文物保護単位 随大興 唐長安城遺址 青龍寺 遺址」。 

中華人民共和国成立後、中国共産党と人民政府は文化遺産の保護を非常に重視し、

1956年、陝西省人民委員会は青竜寺遺跡を重用文化遺跡と指定し、1952年西安市人民政府は

遺跡に管理所を設置。また中国科学院考古学研究所が二回にわたる発掘調査により、

その建築遺跡は七か所もあることが分かった。そして門の門跡、塔跡、殿堂、回廊などの

遺跡が発見され、蓮華紋様の瓦当、鴟尾の残片、筒瓦、唐三彩仏像の残片、金塗の仏像、

経幢などの文物も出土したと。

これらの出土品は青龍寺の歴史の研究のための確実な物証となっているのだと。 

青龍寺のこの境内入り口から入る。

青龍寺遺址簡介(簡単な紹介)。

青龍寺は随の開皇2年(582)に建立され、始めは霊感寺と呼ばれた。一時、廃絶されたが

唐の龍朔2年(662)観音寺として再建されて、景雲2年(711)青龍寺と名付けられたと。

唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。

空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。 

唐の会昌5年(845)、廃仏によって廃寺になり、その後衰微するに至ったと。

しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められている。

ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。

そのため、以後三たび姿を消すこととなったと。  

境内の庭園。折しも朝の清掃中。

柳も新芽が芽生えていた。

青龍寺簡介の前に立ち青龍寺を紹介してくれた専任ガイドさん。

この地では有名な寺には専任のガイドがおり、ワークシェアリング(work sharing)が

実施されている模様。 

中間部には

『公元八零四年空海随遣唐使抵長安求法入』や『弘法大阿舎利位遂将密教伝入日本創立仏教』の

空海に関する記述が 

レリーフの「空海」の文字を確認。

入って左の回廊の壁には『詩碑廊』が続いていた。

空海の密教の師、恵果阿舎利の像と紹介文。

『恵果・唐代佛教密宗高僧』で始まり、『中日文化交流的先驅』で締め括ってあった。

空海の紹介文では『日中文化交流』、恵果の紹介文では『中日文化交流』と、表現にも

気配りが 。

空海・弘法大師が留学中(804−806年)に密教を学んだのが唐の時代の高僧である

この高僧・恵果。

空海の紹介レリーフには下の如き記載されていた。

『空海(公元774年ー835年)・日本讃岐多渡郡(今香川県善通寺)人・日本国真言宗的創始人・

 公元八零四年入唐求学・抵長安拝恵果為師・受法処?青龍寺・後帰国創東密・興教育・

 修水利・為日中文化交流之先駆』。 

弘法大師の名で知られる真言宗の開祖空海は、804年、31歳の時に遣唐使船に乗り、

唐に向かった。空海を乗せた船は5月に難波津を出発し、苦難の末、10月に福州に入る。

11月になって長安へと出発し、12月に到着した。

空海は長安で梵語をマスターし、翌年5月に青龍寺で恵果と出会い、真言密教を学ぶ。

恵果は一目で空海の才能を見抜き、灌頂(かんじょう=資格を授けて継承者とする儀式)を

授けた。空海は密教の正式な後継者となったのだ。

806年3月に長安を発ち、途中、現在の紹興で4ヶ月滞在し、土木技術や薬学など諸学を学び、

8月に現在の寧波を出港し、10月に博多に到着。

帰国後は密教思想の体系化に努め、816年に高野山金剛峯寺を創建。

823年には嵯峨天皇から東寺を賜り、真言密教の拠点としたのだ。

盛唐の著名な王品齢・五維・その弟の王縉(おうしん)、王維の詩友・裴迪(はいてき)の

四人が一緒に連れだって久しく禅寂する青龍寺の雲壁上人の僧房を訪れたのは、玄宗の

天宝二、三年頃とされ、その時に作られた四人の同詠時が作成年代をほぼ推定しうる、

この青龍寺歌詠の始まりとなっているとのこと。

 

岩の上に立ち後ろ手を組み、山を眺める人の姿が描かれた詩碑像。

「王維」の隷書体で記された40文字の詩文。

弟縉に別れて後に青龍寺に登り藍田山を望む

陌上新離別    あぜ道で いま君と別れたばかり

蒼茫四郊晦    あたりは無限のかなた 暗く沈んでいるようだ

登高不見君    高いところに登るが 君の姿は見えず

故山復雲外    故郷の山も 雲の向こうにある

遠樹蔽行人    遠い林の陰に 旅人の姿は消え

長天隠秋塞    秋空の遥かかなたに 塞とりでがある

心悲宦遊子    地方勤めにゆく君よ 心は悲しみに沈み

何処飛征蓋    車の幌をなびかせて いまごろ何処を走っているのか

この詩には弟の身を思いやる王維のあふれるような真情が詠われているのだと。

王維は弟を見送った後、青龍寺の高台に登って弟の去っていった方角を眺め、

この詩を作ったものと。

      【http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/kansi/83.html】より 

『林中空寂舎 階下終南山』で始まり、『誰知大隠者 兄弟自追攀』で締め括られている詩。

庭の椅子に座った人と、雀が二羽描かれている。

詩の末尾に唐・王昌齢の名前が。

王昌齢(698〜755年頃)は、盛唐時代の詩人で、李白と並び称された七言絶句の名手とのこと。

『唐・郎士元・冬夕寄青龍寺源公詩』

『敛屦入寒竹,安禅过漏声

 高松残子落,深井冻痕生

 罢磬风枝动,悬灯雪屋明

 何当招我宿,乘月上方行』 

郎士元(727〜780年?)は、唐代の詩人。青龍寺の庭を散策する人が描かれている。

隷書体で記された28文字の詩文。

『王起居獨遊青龍寺翫紅葉因寄』

 『十畆蒼苔遶畫廊,幾株紅樹過清霜

  高情還似看花去,閑對南山步夕陽』

の七言絶句の漢詩。

紅樹の中、夕陽を浴びながら枯れ葉が舞う中を散歩する老人の図。

末尾に唐の時代の詩人『羊士諤』と『王超居』の名前が。

DSC05874_R.JPG『詩碑廊』を振り返る。

src_31378428_R.jpg 

『青龍寺早夏』は白居易の詩。『青龍寺早夏』は810年頃に詠まれたと。

 

『塵滅經小雨  小雨を経て塵は洗い流された

 地高倚長坡  丘陵に寄り添ってこの地は高い

 日西寺門外  日は寺の門のかなた、西へ傾いた

 景氣含清和  景色は清らかで和やかな気を含んでいる
 閑有老僧立  境内はひっそりとして、老僧のたたずむ姿がある
 静無凡客過  しんとした中、参拝客の通る姿はない
 殘鶯意思盡  里に留まっていた鶯も、啼く意思は尽き 
 新葉陰涼多  木々の若葉は繁り、涼しげな陰が多い
 春去來幾日  春が去って以来、幾日が経ったろう
 夏雲忽嵯峨  夏雲がにわかに峨々と聳え立つ
 朝朝感時節  朝毎に移りゆく季節を感じ
 年鬢暗蹉跎  年と共に鬢の毛はひそかに少しずつ衰えてゆく
 胡爲戀朝市  何ゆえ私はいつまでも俗世に恋々とし、 
 不去歸煙蘿  煙霧に包まれた山奥へと帰らないのか
 青山寸歩地  青々とした山は目睫の地にある
 自問心如何  自らに問う、私はどうしたいのかと   
 

『夏日過清龍寺谒操禅師・裴廸詩』  

『安禅一室内    左右竹亭幽      

 有法知不染  无言谁敢酬  

 飛鳥争向夕   蝉噪已先秋    

   烦暑自兹适       清凉何所求 』

唐時代の詩人『裴廸』は、同時代の著名な詩人、『王維』の友人。 

絵は、傍らに刀を置いて坐禅する青龍寺の僧の姿。

作者は唐時代の詩人、『龍得仁』 

『晩秋興友人游青龍寺』 

『高視終南秀 西風度閣涼

 一生同隙影 幾処好山光

 暮鳥投嬴木 寒鐘送夕陽

 因居話心地 川冥宿僧房』

劉得仁は長く長安に住した晩唐の詩人。たびたび科挙に応じたが、及第できずに終ったと。 

『唐・張祐』の作

『青龍寺詩』

『二十年沈滄海間 一游京國也應閑 

 人人盡對求名處 獨向青龍寺看山』

唐時代の詩人、皇甫冉(こうほぜん:714〜767年)の8節の五言古詩。 

『清明日青龙寺上方赋得多字』

『上方偏可适 季月况堪过

 远近水声至 东西山色多

 夕阳留径草 新叶变庭柯

 已度清明节 春秋如客何』

唐代の詩人、朱慶余の五言の詩。

『青龍寺詩』

『寺好因崗勢 登臨値夕陽 

 青山當佛閣 紅葉滿僧廊 

 竹色連平地 蠢聲在上方 

   寂隣東面静 為近楚城

青苔と紅い霜葉とが照り映える見事な色彩対照の妙を、たそがれどきの笑しい秋景として

絵画的に詠っているのだ。 

末尾に『題青龍寺縦工房』のタイトルと、『唐無可詩』の作者が記された詩碑。

大木の間から建物の姿が見える構図の絵が。 

空海と恵果の別れの図が描かれた詩碑の図。

隷書体で記された七言絶句。

『同法同門喜遇深 空随白霧忽帰庶岑 

 一生壱別離再見 非夢思中数数尋』

末尾には空海を送る青龍寺の阿舎利の詩と記されていた。

旅姿の人物は空海。青龍寺で共に学んだ人が惜別している図。

背後には、空海が乗船するらしい遣唐使の船が描かれていた。

図中にも、右側の漢詩と同じ、『一生壱別離再見 非夢思中数数尋』の文字が。 

『恵果空海紀念堂落成礼賛』に読まれた漢詩。バックに梅の花が描かれていた。

五七五で3回繰り返される形式。

『秋色?長安 一時海會集群賢 

 千載両邦歓 棟宇仮中唐 

 青龍謄起赤霞光 天際接金剛 

 遺像仰英姿 恍見當年法時

 甘露護孫枝』。

左端の部分の細かい部分はこの写真からは読み取れなかった。 
ここまでで、高校時代に学んだ漢文の復習は終了。
久しぶりの懐かしき新鮮な感覚。


日本から贈られた?桜も開花を始めていた。

「雲峰閣」。

この楼閣も、青龍寺址に再建された建物の一部とのこと。

仏閣と言うよりは城郭のような外観に見えたのであった。 

元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と

名付けられたと。

ゼロ(0)番札所をイメージしたモニュメントが黄梅を背景に。 

空海記念碑

1956年、重要文化遺跡と指定され発掘調査がはじまり、1973年に塔の土台と殿堂の跡が

発見され、1980年代には日本の四国4県と真言宗関係団体の寄付により、空海記念碑、

恵果空海記念堂などが建立された。

四方の4つの穴の開いた球は四国4県を表しているのだと。 

空海は日本に帰ったらこのお寺と同じ名前のお寺を立てようと決心したとのことで、

四国88ヶ所の三十六番青龍寺(こちらは「しょうりゅうじ」と読むようです)がその寺。

空海記念碑委員会篆刻碑文。

碑文の冒頭には「中国両国一衣帯水、友誼淵遠」 の文字が。

そして最後にこの碑が日本の香川、愛媛、徳島、高知の四国四県の協力により

立てられたことが記されていた。 

恵果・空海記念堂に案内される。 

左:空海、右:恵果の姿が祀られていた。

左:恵果阿闍梨、右:空海阿闍梨の御姿。

恵果・空海記念堂内でガイドの説明を聞く。

日本国空海記念碑建立実行委員会捐贈(えんぞう・寄付)資料。

四国霊場参拝 八十八寺院・別格二十寺院の場所を表したもの。

伝承された青龍寺の品々が展示されていた。

DSC05895_R.JPG

「平成三十年三月七日」 「大〇(ゼロ)番札所」と書かれた御朱印を頂きました。

奉納額は50元、約800円でしたが。 

DSC00953_R.JPG 

そして参拝の記念にツアー仲間全員にも青龍寺のお札も頂きました。

DSC00951_R.JPG
              

                 ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2019.11.01 22:30:13
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