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JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.02.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

次に訪ねたのが『長楽寺』。
長楽寺 『弘法堂』。
弘仁12年(811年):弘法大師(空海)が呼続に七堂伽藍を創建。
真言宗戸部道場 寛蔵寺と名付け、清水吒枳尼眞天を鎮守神として安置する。



『長楽寺』案内図。



境内の至るところにあった石像。



『趣味の素人養蜂家』の私にとっては嬉しい案内板が。
『~ミツバチは宝物です~』
「養蜂の起源は、おおよそ紀元前1万5000年前の頃とされております。
スペインのアラニア洞窟の古い壁には、女性が手で伸ばし高い崖で自然巣を採集しようとする姿が
描かれております。
日本では、縄文の頃から家の一角にくぼみを作り蜂蜜を採取していたと伝えられ、竪穴式住居の
一角に40cmほどの穴を作り、蜂達とハチミツを共有していたと報告されております。
当山の境内では、養蜂を行っておりませんが、縄文式の文化と同じで、ミツバチとも
共存しております。また彼らの天敵はスズメバチで、その天敵から身を守る為お墓の所に
巣を作る場合がございますが、静かに見守っていただきますようお願い申し上げます。」



境内の至るところにあった石仏像がここにも。



道路沿いには『動物観音』の姿も。



優しいお顔をズームで。



『長楽寺』入口。
長楽寺は、長い歴史を持つ寺。1200年ほど前に弘法大師が巡礼したときに、夢のお告げによって
七堂伽藍を創建し、真言宗戸部道場 寛蔵寺と名付けたところが、その後、曹洞宗に改宗され、
名前も長楽寺と改められた。



『遺品供養祭』。
亡き愛ペットの使っていた遺品をお焚き上げ供養をすると。



『立木観世音菩薩』が祀られる『立木観音堂』。



『立木観世音』と書かれた扁額。



堂内の『立木観世音菩薩像』。
1798(寛政10)年に当山17世の智海和尚が、境内にあった松の木の下に観音石像を安置して
霊木としていたが、その木が枯れかかった時、一人の老人に弘法大師の夢告があり、
立木のまま十一面観世音菩薩の尊像を彫刻した。
これが現在のご本尊の立木観世音菩薩で、尾張三十三観音・東海百観音の第四番霊場として
全国各地から厚い信仰を集め、日々参拝が絶えないのだと。



石を刳り貫いた『水場』



『蓬莱の水、由来』案内板。



『井留薬師如来像』。



『水場』。



『盲導犬慰霊碑』。
「目の不自由な方々にとって、かけがえのない光であった盲導犬たちが眠るお墓です。
毎年、春と秋のお彼岸には、中部盲導犬協会の供養祭が行われています。
また、ここには名犬サーブ号も眠っています。
ご家族の供養にとともに、ここで彼らの冥福を祈ると、日々忘れがちな福祉の大切さを
思い起こさせることでしょう。」



「盲導犬たちよ、天国で遊んでください。盲人の目となり、最良の友となり、
明日への光となって、愛と献身に生きたあなたたちの日々は、私たちの心に生き続けています。
盲導犬たちよ、ハーネスを外して飛び跳ねてください。」



『長楽寺石濵殿』。



この日もたくさんの方が参拝に訪れていたが、その理由のひとつに「動物供養」があるのだと。
動物・ペットを家族の一員として、最後の別れをきちんとしたいという方々が、名古屋市内は
もちろん、東海三県、遠くからも来るのだと。
この日にペットの法要をされる方の名前とペットの名前も。



堂内部(ピンぼけ)では法要供養が行われていた。



『日守弘法大師像』。



『長楽寺』を後にし、旧東海道に向かう途中には
『稲荷出現道場 四国八十八ヶ所 長楽寺』と刻まれた寺標石柱が。



そして再び旧東海道『呼続小学校前』交差点を渡る。



左にあったのが『正覺山 誓願寺』寺標とその前に『東海道道標』が。



『南区史跡散策路 東海道周辺めぐり 湯浴地蔵』案内板。
南区役所を出発し、笠寺観音や呼続公園をめぐって名鉄呼続駅にいたる、
約5.2キロメートルの散策路。



右手奥左にあった『湯浴神社(ゆあみじんじゃ)(鉄地蔵(てつじぞう)』。
赤い幟と参道左の百度石、右の湯浴地蔵尊の石標も。



『鉄地蔵大菩薩』。
地蔵院に安置され、鎌倉時代のころに鋳造されたと伝えられています。
高さ2.3メートルのめずらしい坐像です。「
湯浴」とは、人びとが湯を浴びせ祈願したことに由来しています。
戦災と伊勢湾台風の被害にあい、今では仏頭と両掌だけが旧形をとどめています。



こちらは『湯浴地蔵菩薩坐像』。
「尾張名所図会」にも記述が残り、1205年(元久2)に北井戸田村の海中から拾われた
地蔵菩薩の泥を湯で洗い流した事から湯浴地蔵菩薩の名が付いたと云われています
1292年(正応5)に戸部村に移され崇拝され続けられます
後に堂の焼失を機に1600年(慶長5)現在の山崎村に移されたようです。



『東海道 鎌倉街道』の道標。



その先にあったのが『秋葉社』。



左の道が『鎌倉街道』、右手にも道標が。
ここは鎌倉街道「中の道」と東海道が交わり、街道の名残りを感じる静かな住宅地。



再び旧東海道を北上する。



左手に『村社 熊野三社』。



『宿駅制度制定四百年記念碑』。
松巨嶋、あゆち潟、呼続の謂れが簡潔に書かれていた。



「古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、
「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。
ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。 西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、
これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。 芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、
この地に足跡を残している。 また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、
宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから
「よびつぎ」の名があるとも言われている。」



一の鳥居から参道を進む、直ぐに二の鳥居と右に社が祀られていた。
何故か二の鳥居、三の鳥居には貫(かんぬき)がなかった。



二の鳥居を過ぎると参道は左に折れた。
三の鳥居の先に境内が広がっていた。
鳥居の右に由緒書きと御神木の楠木
樹齢は500年とも云われますが、この巨木が神社の歴史を物語っていた。



『御由緒』
御祭神:伊邪那美命、事解男命、速玉之男命、
創建   :1558年~1570年(永禄年間)、山崎城主佐久間信盛が城中の守護神として祀った事から
      始まります。後の1627年(寛永4)に山崎村並びに付近一帯の住民の守護神として
      現在地に再建された。



『手水舎』。



『拝殿』。



境内社の『津島社』(左)と『浅間社』(右)。



『八幡社』(左)と『八王子社』(右)。



朱の鳥居が続く『山崎稲荷社』。



見事な枝振りの『御神木』の『楠』。



切断面の保護も行われていた。落ちないのが不思議。



ここにも保存樹『楠』。



社務所。



『手洗松巨嶋』
「松巨島」と呼ばれるようになった由縁は、昔の熱田方面からこの地を眺めると、
この一帯が「松の大きな島」に見えた事から呼ばれるようになったと伝えられ、
古い地史にもその名は出て来ていると。
中央の手水鉢は、何らかの理由で境内に埋められていたものを1960 年頃に掘り出されたもの、
正面に「松巨嶋」と刻まれ、この地が松巨嶋と呼ばれていたことを伝えていた。



『松巨嶋』と刻まれた『手水鉢』。



この鳥の名は?白鳥に似ていたが脚と首が黒いのであったが。



帰路に再び三の鳥居から境内、拝殿を見る。
この鳥居はなんと呼ぶ鳥居なのであろうか、あとで調べて見たい。




                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 19:33:06
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