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JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.02.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

更に南区呼続の旧東海道を進む。



『東海道碑 山崎の長坂』
坂を下ると山崎川となり『山崎橋碑』が右側にあった。



右手に白い立て看板・『曹洞宗 龍雲山 法泉寺』が。
入口には、宿駅制定400周年記念で建てられた東海道の道標が。



『法泉寺』の『山門』。
土壁の白や真新しい瓦を見る限り近年に建替えられたのであろう。
山門扁額には『龍雲山』と。



瓦葺きの『山門』の左には地蔵堂。
地蔵堂には二体の地蔵様が祀られていた。
赤い前掛けを付けてもらい、山門から訪れる人々を見守っていた。



『本堂』
昔尾張国愛知郡井戸田(現在の瑞穂区)の里に行基菩薩開基の薬師寺という大寺があった。
弘法大師の巡錫にあい以来真言道場として栄える。一時滅びるも笑顔悦公和尚が浜海道
(現在の南区)に再興し、龍雲山法泉寺と改める。薬師通(南区呼続:岩戸町)の由来は
法泉寺の薬師詣から始まったと伝えられる。寛永十九年(1642)二代壽公和尚が現在地に易地す。
寛政年中(1789~1801)曹洞宗大本山永平寺五十世玄透即中禅師を請し法地開山となし
曹洞宗となる。本尊 薬師如来、日光菩薩、月光菩薩は弘法大師の作と伝わる。
段丘の地に緑に囲まれた境内は訪れる人の心を癒してくれる寺である。
東海四十九薬師霊場第三十一番札所の表札が右手に掲げられていた。



扁額には『法泉寺』。


 
この句碑は?



そして旧東海道は『山崎橋』手前に。



『山崎橋(やまざきはし)』。
往時はもちろん板橋であった。



『山崎川』は猫ケ洞池に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいる。
川を渡り、直ぐに旧東海道は左折。



川の対岸にあったのが『秋葉神社』。



川沿いの一段上がった場所にあった『手水場』。
『御大典記念』の文字が確認できた。



秋葉神社の二つの『祠』と『常夜燈』。



『御大典記念』の文字が。『大典』とは皇位継承の事。



名古屋市瑞穂区神穂町に入っていく。



右手にブラザー工業㈱ 瑞穂工場。



前方に名古屋高速3号大高線の高架が。この先角には東海道道標があった。



『松田橋』交差点に架かる歩道橋を渡る。



上は名古屋高速3号大高線、下は空港線(右)と国道1号線(左)。



歩道橋を降りて直ぐ鉄板居酒屋の前に『二宮金次郎像』。



国道1号線を進む。



東海道本線の踏切を渡る。高架が国道1号線。



そして旧東海道を左に入っていく。



しばらく歩き右への路地を進むと右手にあったのが『浮島神社』。



再び旧東海道に戻ると『熱田橋』が現れた。



流れる川は『新堀川』。



野鳥が川面にのんびりと。



そして名鉄常滑線のガード下を通過。



前方のY字路の中央に案内板が。
この後、Y字路を左に進む。
公園の中央には木が植えられ、一里塚のような雰囲気であったが、説明は見当たらなかった。
しかし、ここまで、一つ前の『笠寺一里塚』からほぼ4㎞の道のりがあった。
これが日本橋から89里目となる『伝馬町一里塚』ではないかと思ったのであったが。



『水と歴史のまち 宮地区』案内板。
「熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていた
ことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、 東海道五十三次の41番目の宿場町
「宮宿」として古くから栄えたところでした。 また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で
桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから
「宮の渡し」とも呼ばれていました。 江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が
建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを
見せていました。」
ここが41番目の宿場町「宮宿」の東側の入口。



『宮地区の歴史的遺産分布図』。



「宮地区の歴史
熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になって
いたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、 東海道五十三次の41番目の
宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。
また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と
呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも」呼ばれていました。
江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、
さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。」



そしてその先左にあったのが『裁断橋址(さいだんばしあと)』。



「裁断橋跡
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(一五九○)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を
弔うために母親は橋の架け替えを行った。 三十三回忌にあたり、再び架け替えを志したが
それも果たせず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。
この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る
旅人に多くの感銘を与えた。 現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で
市博物館に保存されている。」 



『裁断橋』と『擬宝珠(ぎぼし)』。



『擬宝珠』には文字が刻まれていた。ネットで調べてみると
「てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、
十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、
いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、
いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、
卅三年のくやう也」と。
すなわち
「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、
十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、
今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、
逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。
三十三年の供養也。」とのこと。



奥には『都々逸発祥の地』と刻まれた石碑そしてその右に『姥堂・裁断橋』案内板。



「都々逸発祥の地碑について
寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。
江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったと。
その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、
終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から
名古屋全域に広まっていった。やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や
人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となった。歌碑は縦1.8m、横30cmほどの
御影石で、裁断橋跡の西側のたもとにある。」



『姥堂・裁断橋』案内板。



「姥堂
延文三年九月(一三五八)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に
創建したと伝える。 本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の
衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。 旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で
存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。
昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の坐像で、その大きさから
奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。 尊容から奪衣婆と見る説もあるが、
両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像では
ないかとも想定されている。 昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され
「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。 現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に
四尺の大きさで復元した御像である。」



「裁断橋  
文献では永正六年(一五○九)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。
姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立られ、
橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。 大正十五年出版の「橋と塔」浜田青陵により
全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を
呼び有名になった。 昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が
移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。
しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成四年三月に名古屋市当局
がこの場所より撤収した。 圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、
子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、 母の銘文の
拓本を取り平成五年五月此処に架設した。」



『姥堂』。



折しも、ボランティアのオジサンが数名の観光客を連れ、この場所の案内をされていたので
我々も聞かせていただいたのであった。



案内用の資料も充実。



『旧裁断橋桁石』



再び『裁断橋址』、『姥堂』他を見る。




                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 19:33:38
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