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カテゴリ:海外旅行
10年以上に渡り途切れることなく続けていた「海外旅行」が、この新型コロナ禍にて
途絶えてしまったここ1年以上、更に緊急事態宣言で不要不急のが外出も自粛せざるをえない 今日この頃です。 よってテレビで旅行気分を味わおうとしていますが、先日のNHK・BSP放送にて 「空からのクルージング特別編 ポルトガル・世界遺産を巡る旅」が再放送されていましたので この番組を録画しその映像を我がデジカメで撮影しました。 ポルトガルは2019年2月に8日間の旅をしましたが、その旅行にて訪ねた場所、しかし建物の 中まで見学できなかった場所、そして旅行コースに入っておらず訪ねなかった場所等が放映されて いたのです。しかも旅行では自分で眼にすることが出来なかった景色が、小型ドローンにより 上空からの映像・写真で紹介されていたのでこれを十分楽しみながら、想い出を懐かしく 振り返る事が出来たので、ここに紹介します。 まず最初は、もちろん「訪ねた」👈リンク ユーラシア大陸最西端の岬である「ロカ岬」。 ![]() 北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のア ゾレス諸島がある。 ![]() ここには、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の 一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑が 立っていた。 ![]() チョコンと白い十字架を乗せた記念碑が建つのは、140mもある断崖絶壁の上。 周りは綺麗に整備された石畳の広場のようになっており、緑の絨毯の中を、遊歩道が巡っていた。 ![]() 18世紀に建てられ、今も現役の赤い屋根の灯台。 こちらはカモンイスの記念碑より少し高い160mの断崖上に広がる緑の絨毯の中に建っていた。 ![]() また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。5ユーロと10ユーロの タイプの証明書があり、どちらにしても証明書には名前・日付などが入り、裏面には主要国の 言葉で書かれた上記の詩が書かれたものを入手することが出来たのであった。 その時に手に入れた「ユーラシア大陸最西端到達証明書」の写真。 私の名前と訪ねた日・2019.Fev.12の文字が。 ![]() そして次は訪ねなかった「ギマランイス(Guimarães)」。 ギマランイスは、ポルトガル北西部のブラガ県にある都市。 ポルトガル王国初代国王アフォンソ1世(アフォンソ・エンリケス)が当地で誕生している ことから、ポルトガル発祥の地、ポルトガル王国の発祥地と呼ばれる地。 ![]() 2001年、世界遺産に登録されたギマランイスの旧市街には、アフォンソ・エンリケスが 誕生した「ギマランイス城」、そのいかにも堅固な石造の城の下には、洗礼を受けた サン・ミゲル教会など、ゆかりの場所が点在していると。 ![]() この地を治めていた伯爵の宮殿として10世紀に建造。 高さ28mの塔をはじめ、七つの塔をもつ。初代ポルトガル王アフォンソ1世 (アフォンソ=エンリケス)が生まれた場所として知られる。 ![]() 12世紀、イベリア半島にはイスラムの小国が乱立していた。 キリスト勢力アフォンソはイスラム勢に次々と勝利し、領土を回復、1143年ポルトガル王国が 誕生した。 ![]() 王国は20世紀初頭まで続いた。 ![]() 城壁と中央の高い塔(写真の左)が残っていて、両者をつなぐ木造の橋が一か所 架けられていると。 ![]() そして大西洋に向かって南下。 ![]() そして強く「印象に強く残っている街「ポルト」」👈リンク。 ![]() ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ (ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。 だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。 ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、 ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。 ![]() 「ドウロ川」に架かる、ポルトのシンボルともなっている「ドン・ルイス1世橋」。 ![]() ポルトの中心部とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区を結んでいる。 ギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1881年から 1886年の間に建設された。エッフェルはポルトにある別の橋、マリア・ピア橋の建設に 携わっていた。1886年10月31日、ポルトガル王ルイス1世が出席して開通式を迎えた。 「ドン・ルイス1世橋」は幅8mの2階建て構造になっている。上層の長さは395mで、 下層の長さは174mである。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用に なっていた。 ![]() メトロの走る長さ395mの上層の橋を徒歩で往復したのであった。 ![]() そして世界遺産の「ポルト歴史地区」。 ![]() 国名の由来となったポルトガル第二の都市。 ![]() 「ドウロ川」には酒樽を積んだ舟が浮かぶ。 ![]() 甘く濃厚なポートワインの運搬に用いた。 ![]() 18世紀に盛んにイギリスに輸出された。 ![]() 「ドン・ルイス1世橋」の下流側には自動車専用道路橋「インファンテ橋」が。 正式には、インファンテ・ドン・エンリケ橋(Ponte Infante Dom Henrique)で、 エンリケ王子の名前をつけて、通称ではインファンテ橋と呼ばれている。 この橋は2003年に開通したと。 ![]()
![]() 我々の観光は、「サン・フランシスコ教会」は外部からの見学だけであった。 ![]() 質素な外観に比べ、内装は当時植民地だったブラジルから運んできた200kgもの金で 彫刻を覆い尽くしていて贅沢。 これはターリャ・ドゥラーダと呼ばれる、バロック様式の金泥細工による内部装飾。 長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作といわれているのだと。 一面の金泥細工は18世紀に施されたと。 ![]() 当時、植民地のブラジルで金が発見され、金をふんだんに使った内装が流行した。 ![]() 慶長元年に長崎で殉教した長崎26聖人の祭壇。 ![]() 豊臣秀吉によって弾圧を受け長崎で殉教した人々を刻んだ祭壇。 ![]() キリストの系図 「ジェッセの樹」 ![]() 聖所に登場する人物たち。 樹の枝、一段目右には巨人ダビデ王、左にはその息子ソロモン王、トップに立つのはヤコブの子、 聖ジュゼ(ヨセフ)、その両脇には聖母マリアの父ジョアキン(ヨアキン)その左は 聖母マリアの母、サンタ・アナ。頂上には聖母マリアと幼いキリストがいると。 ![]() この多彩色の木工細工は、フィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手で彫られた。 ユダヤ王国の12人の王たちとイエスの家系図は、イサイ(ダビデ王の父親)の横臥像とつながる。 木のてっぺんには聖ヨセフがおり、下に聖母子の彫刻がある。壁のくぼみには聖アンナと 聖ジョアキン(聖母マリアの両親)、『無原罰の御宿り』について記した4人の フランチェスコ会士の像が収められている。 ![]() 正面は主礼拝堂 バロック様式であるターリャ・ドゥラーダ(金泥細工)と呼ばれる金箔で覆われた彫刻 で彩られた主礼拝堂。バロック の語源はポルトガルのBarocco (歪んだ真珠)だそうで、 元々は ”グロテスクなまでの装飾過剰” に対する蔑称だったのだと。 ![]() そして、ポルトを流れるドウロ川は大西洋に注ぐ。 ![]() スペインのソリア県を水源とし、スペイン北部を流れポルトガルに入り、名を変え、 ポルトから大西洋に注ぐ。全長は897kmであり、ポルトガルを流れている部分においては 軽い船なら航行可能である。川の名前は、ケルト語で水を意味する"dwr"から来ていると 考えられると。 ![]() ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.01.30 18:25:27
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